ダイホン
夜。今は夜。可愛い女の子とデート"とか"してみたい。本心から。本心じゃない方がいいのか。わっかんないけど。あと無理だけど。
迫ってくる車のライトがまぶしくて、目を閉じただけだ。それでも、立ち止まらずに歩いた。意味とか、あったけかなあ?わっかんないけど。
なんとか生活を良くしようという意志だけは、まだ失われずに、ここにあって、だからサッカーゲームを3時間やった後に後悔しているけれど、これがなくなったら、どこまで下に落ちるんだろう、僕は。出掛けることをやめて、歩くことをやめて、ああして書くこともやめてしまったら……
でも、下とか上とか、そういう風に考えるのが一番の落とし穴な気がするな。恋人のいる人が、いない人より優っているとか、人間は、二人組を作らなければならないという思い込みこそ、撃ち抜かなければならないのに。心の奥の声を聞かないといけないのに。
文章を書くのは好きだけど、想像力がない。あったことを描写するのと、ないことを物語るのは、違う脳の部位、というのは、全部言い訳だと思うね。アラスカの暮らしを知らないならば、ゾウガメの気持ちが分からないならば、ドキュメンタリーを見たり、文献を漁ったりして、まず努力すればいいだけの話だ。
人間が努力しないのはなぜかといえば、もちろんそれが辛いからというのもあるんだけど、なんでわざわざアラスカの暮らしを分かろうとするのか、その必然性がないからで、自分のなかから必然性を引き出すことの方が大事なのだと思う。
自分と、国籍が、性別が、年齢が、違う人のことが分からない、あるいは、国籍も、性別も、年齢だって同じなのに分からないとか、愛が分からないでも、戦争が分からないでもいいけど、物語を作るというのは、分からない何かを分かろうとすることだという実感があって、それがアラスカでも、ゾウガメでもいいんだけど、でも勘違いしてほしくないのは、決して分かりはしないんだってこと。
僕が右を向いて、そこにいた白い猫、目が合っても逃げなかったあの子の一生を、一生懸命考えて言葉にしても、僕を恐れなかった理由が分かることはないもんね。
そういう意味で、日記を書いてるのかって、やっと分かった。「人生なんなのさって繰り返すのが人生」だから、分からない自分の人生を、分かろうとしているんだ。その時すれ違った女の人が、電話しながらしゃべってて、「きっと生きていて良かったんだよ」って言ったのを僕が聞いたら、劇的な瞬間になるけど、そんなことは起きなかった。
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