ブログ「いらけれ」

サッカーのプレミアリーグが今週末に開幕するという。そのことに気が付いたのは昨日だった。やっぱり僕は、サッカーのことも、あまり好きではないのだろう。専門性のある人に憧れる。これ、と決めたものに、自分の体を投げ込むようなあり方。とても中途半端なまま、年を取ってしまった。そして、これからもそうなのだろうと思うと、とても暗い気持ちになる。

仕事探しをするつもりで、インターネットを使って、そういうサイトを見ても、とても暗い気持ちになる。これ、の無い人間に都合よく職場が見つかるはずがない。苛立っている暇があったら、英語や、資格取得のための勉強でもしたらいいのに、それもしない。中学生になったら、とか、大学に行ったら、とか、そのように先延ばしにされていたけれど、自分がすべきことは未だに分からないし、やりたいことでは生活していけない。駄目な人間の暮らしに、正解はあるのだろうか。

とはいえ、どうせ死ぬし。何かやるなら今かなって、目を覚ましたとき直感的に閃いたことを思い出した。無意味な生に、意味なんてないのだから、失敗しても死ぬだけだし。まずは、ゲームをやめるところからだ。ゲームをしているとき、僕は何をしているのだろう、と思うことがある。ゲームをしているんだけど。頭の中で何かが起こっている。ゲームばかりしてしまう。ゲームに囚われてしまう。それほどまでに没我する自分が、本当に分からなくなる。こんなこと、前にも書いた気がする。

すれ違う子どもの顔を見て、その子が大人になったときを、ばっちり想像できるときがある。大人びた顔をしているだけなんだろうし、本当に成長していく姿を見て確かめたら、全然違っているんだろうけど。あと逆に、その人の子ども時代を思わせる大人というのもいて、それは単に若々しいってことでもなくて、ずっと変わりがなさそうな感じというか。ってこれも前に書いた気がするが、どうか。「読んだことあるよ」という方は教えてください。「高校野球に興味が持てない」という話は、日記を検索したら、去年の8月に書いていた。

自由になろうと思えば、どこまでも自由になれる環境が整っているのに、どうして古臭いものが帰ってきているのだろうか。あるいは、人々はなぜ叶わない復古を望んでしまうのだろうか。ここまで生きてしまったことは、本当にただのラッキーで、その申し訳なさから来る義務感があって、誰も考えないことを考えなければならないと思うし、人々が間違ってしまうのを止めるために、できることをしたいと思う。

頭がおかしい、駄目な人間なりのやり方で。今日はこれで一区切りを付けて、絶対ないと思うけれど、仕事を募集してみよう(メールアドレス:tgoto27@gmail.com)。コメントやメッセージは、常に募集中であることも伝えておこう(「なんでも箱」)。明日は頑張る。そのように言うことで、人生はそのようになる。だから、明日はきっと、面白い日記が書けるだろう(今日とは違って)。

ブログ「いらけれ」

「伝説的USハードコアバンド、MDCのヴォーカルにして80’Sスケートロックシーンの生き証人でもあるデイブ・ディクター。FTC以前のSFスケートシーン、そして壊れかけた世界について大いに語る。──DAVE DICTOR (MDC)」
パンクシーンとか全然詳しくない私ですが、このインタビューは読んで良かった。もちろん、差別を受けている人々に対する愛あるメッセージが響いたという面もあるのだけど、反体制という文化や反常識という態度が、現在、どのように変化したのか/してしまったのかということを考えるきっかけになったから。今を分かるためにも、もう少し、歴史を見ていかなければいけないなと思った。

身体があまり良くないのか、何でもない午後1時に、一人シエスタをしてしまう(シエスタは別に、誰かと一緒にやるものではない)。二週目を聞いていたラジオが、意識と意識の間に滑り落ちていく。この大きな眠気は、どこに潜んでいたのだろうか。僕を襲った睡魔から逃れられたとき、僕は身体を起こした。
暑い暑いと、災害級の猛暑だと脅されていたものの、問題だったのは直射日光だけで、太陽が雲に遮られると、風のおかげで心地良さすら感じた。夏には、ずっとこのようにあってほしいものだ。
大きな墓地のなかで分かることがあって、僕も土に還るということと、墓石の遥か向こうの雲の隙間から覗く空が、ディズニーランドのアトラクションを思い起こさせるということだ。「絵みたいだ」と思ってしまうが、絵は、こうした光景を写し取ったものだから、こうした感覚が誤りであることも分かる。
霊園を出て信号を渡ったところで、境界点と書かれた四角い金属が、道に埋め込まれているのを見つける。何度も歩いたことがあるのに、初めて気が付いた。その時の僕は、暗い気持ちを抱えて、下を向いていた。下を向いていたから、気が付くことができた。今、下を向かざるを得ない誰かが、このように、何かを発見できますように。それが、どれほど小さなだったとしても、その誰かの心を、ちょっと明るくしてくれますように。

速読がここまで憧れの対象となっているのも、映画やドラマの再生速度を早めて見る人が多いのも、「見終わった」ということの価値が高まっているからだろうし、それは、見るべきものの数が増えているからだろう。しかし言うまでもなく、一つの作品をチェック済みリストに入れることよりも、一つの作品を楽しんで感動することの方が、よほど大切なはずだ。なのに、それらはすぐに忘れられてしまうし、あまつさえ「それを見終えた私」をアピールするための具に使われてしまう。観客の不在によって、表現一般がすでに瀕死状態に陥っているのだとしたら、現代に打つ手はもうないだろう。

ブログ「いらけれ」

カジュアルな会話の上ならば、僕は自由に、いくらでもなめらかに踊ることができるし、当意即妙な切り返しなんてお茶の子さいさいだ。目をつぶっていてもできる(そりゃそうだろう、話しているだけなんだから)。それが、文章を書くとなると途端にぎこちなくなってしまう、LINEの返事一つとっても、少し時間を置かないと出てこない、そんな男が毎日日記を付けているのだから、大したものだ。
「面と向かって誰かと話す」という行為は、コミュニケーションの必然性によって、常に急き立てられている。だから、その場で思いついたことを言ってしまう。それが正しいのかどうか、正直なのかどうかということが、一旦脇に置かれて、さしあたりの適切さや面白さを優先してしまう。対して文章は、発話より作文の方が時間と距離を取れるから、より慎重でいられる。言いたいことが、頭の中で結晶化する(というイメージ)まで、書き始めることすらできない。でも、これは必要な遅さだから、僕はそれでいいと思う(いつも連絡が遅れがちで、友人には申し訳ないけれど)。

昨日の頭痛が残っているというのに、痛み止めを飲んで出かけた。西武新宿線の急行電車を途中で乗り換えて、中井駅で降りた。久しぶりに歩く中井は、なんかグッドバイブスな街だった。いい感じの川が流れていた。細い道に、色々なお店が雑駁に並んでいた。歩くのに良さそうな街で、いつか住んでみたいと思うけど、そういう風には見えないだけで、家賃の相場は高かったりするのだろうか。こういう時に、常識がないのがバレるな。
大江戸線に乗って六本木へ行かなければならない理由が、僕にはあったから階段を上って、日本列島を襲う猛暑に晒される人々のなかに混ざったら、どのようなことが行われているのか、さっぱり分からなかったが、テレビ朝日の近辺は、大勢の人で賑わっている脇をすり抜けながら、世の中心はあちら側なのであって、間違っているのは僕なのだということを、心に留めておこう。
ビルの一室で、知らないアニメを見せられる。設定の細かいところに粗があって、早く終わらないかなあと思っていたら、本当に早く終わって助かった。「金は命より重い」とか言って、金のために人身が粗末に扱われる物語は多いし、別に、そういう思想でストーリーを作るのもいいけど、流行っているからと考えなしに設定だけもらってくると、大したリターンもないのに、なぜか危険に身を晒す人々が続出する話になる。そして、そういう話だった。自爆テロは、金では起こされないというのに。
予定が予定より早く終わったことの連絡を入れて、飲みの予定の店へ行く。駅前が催されている祭りで混雑していたから、僕はなかなか進めなかった。記憶の時間は、行ったり来たりする。ただし、楽しかった思い出は、すべてがすでに過ぎ去っている。新しい「楽しい思い出」を作っていくためにも、僕は平和を望む。

ブログ「いらけれ」

しどけない部屋ですね。僕は、世界の真理に繋がるとんでもない発見をした。つまり、部屋の床に物を置くところから、すべての堕落が始まるということを。床をテーブルのように利用した瞬間に、物が置かれていることが当たり前になってしまって、そこからは坂道を転がり落ちるように、片付けられない人となる。だらしない人ですね。ここから脱出するために、頑張らないといけない。

なんでもない話をしていて、小学生の頃に「ゲーム脳に注意!」みたいなプリントが配られたことを思い出した。科学とか、それについての知識とか教育のレベルとか、推して知るべしって感じだよなあ。手法とか手続きとか、本当に軽視されているよなあ、ずっと。

「ユーチューブのおすすめに出てきた」というきっかけで見たんですけど、三拍子の漫才が面白い(「三拍子の『銭湯漫才』」これとかすごい好き)。発想とか、すごいなーと思う(これだけ笑ってしまうということは、プロが見れば、技術的にもすごいことをやっていると思うんだけど、素人には分からない)。再生回数も数万回とか結構多くて、テレビでは流れないような、ある程度長さのあるネタが見たいという需要も、潜在的にはあるんだろうなあと思った。とりあえず、チャンネル登録はしたけど、それよりも生で見たいなあ。

祭りの季節になって、公園で、大きなテントの下で、かき氷を売っているのを見かけることも多くなった。ここから、いつものように思い出話が始まりそうな書き出しで、そうはならない。なぜなら、祭りに誘われるような幼少期を送っていないから、思い出が一つもないからだ。幼稚園児の頃には、親に連れられて行って、ヨーヨー釣りとか綿飴とか、好きだった気はする。ヒーローのお面とか、付けていた気はする。買ってくれないチョコバナナとかりんご飴とか、食べてみたかった気はする(今の今まで、どちらも食べたことがない)。
予定があって急いで降りた駅前で、お祭りをしていた。広場に設置されたステージで、大きな音で演奏をしていた。出店によって狭められた通路は、たくさんの人で混雑していたから、僕はなかなか進めなかった。
祭りは、有無を言わせないものだと思う。琵琶湖並みに広い心、そのようにありたいと思っている僕は、それはそれとして受け入れた。でも、自分は不幸せだと思っている人が、祭りに参加するような気持ちにゆとりのある人たちに巻き込まれたら、良くない何かが起こってしまいそうだと思った。

正しくあることも、正しくあれと願うことも、それらすべてを記述することも、すべて正しい。でもそれは、魂を削られることでもあるから、それで磨り減ってしまっては元も子もないのだから、日常に低速を導入する。呑気に見えるかもしれないけど僕は、そういうやり方でなければ、正しさを実現できないと思っている。