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読んでない本は引用できない。(今日の”だからなんだ”。)

飛び技の判別って本当に苦手。フェニックス・スプラッシュと、スターダスト・プレスと、スパイラル・タップとって。あれパッとわかる人尊敬する。選手の持ち技なら流石に分かる、っていうか知ってるけど。
しかし、場外への飛び技にしても、クルクルした方がダメージデカいってどういうことだ。なんで回転数の増加に比例してダメージが増えるんだ。理由は分からん。長いことプロレス見てるけど、全然分からん。(小ネタ:ジェフ・ハーディーのスワントーンボム(寝ている相手に、トップロープから伸身で前方一回転、背中から体を浴びせる技)は、マジで痛いらしい。そう思って注目してみると、確かに、他の選手の技より体重が逃げていないで衝撃が大きそうに見える。)

「大きな構造から小さな微動へ」という感覚がある。起承転結を見るような、俯瞰的な見方ではなく、今いる”ここ”で何が起きているか、そしてそれが面白いかを見る。構造を面白がれなくなった不幸な人々が書く/読む小説というのがある、実際に、現代にもいくつか。
でも、考えてみるまでもなく、小説を”わざわざ”書く/読むっておかしい。なんでそんな面倒なことするの?どういうことなの?さっぱり分からん、ってなった人たちがいて、そういう人たちが、物語の発生について神話とかまで遡って考えた。根源を問うた。
つまり、小説について、小説を書くとは何か、なぜ読むのか、どうしたら読んでもらえるのか、そもそも小説とは何か、物語(ストーリー)と小説はどう違うのかなど、ちゃんと考えている人はいる。そして、そういう人だけが小説と呼べるものを書いている。

この頃、ちょい昔のことばかり思い出しているわけです。それで思い出したのが「1000文字小説」というサイトで、僕は10年くらい前によく読んでいた。1000文字前後の、小説と名付けられているそれには面白いものも結構あって、ツイッター利用以前に時間つぶしとして使っていた。でも、基本的には素人が書いているわけだから、素人のネタ一発みたいな作品が多いわけ。僕は、その頃から純文学とかの方が好きだったから、あれだなって思ってた。そんな中、僕がファンになった著者が一人だけいて、その人は、国道をカップル未満の二人が喋りながら歩くだけの作品とかを書いていたと思う。新着作品の中に、その人の作品があったら読むどころか、なかったら探して読むくらいだったけど、肝心の名前を忘れてしまった。
僕にはそういう人がいて、その人には(その人は知る由もないが)僕みたいな人がいた。僕みたいな無言の応援者が。今の僕には、あの頃の僕みたいな人は、アナリティクスを見るかぎりいない。そう思うと悲しい。
検索したら、サイトはまだあった。しかし、あの人に辿り着ける気はしなかった。

東萩山小学校と小平霊園の間の道の見ているだけでは分からなかった窪みに、朝から降り続いた雨の水溜まりができている。午後二時に僕が通るときには、既に道の水溜まりは大きく、段々と雨は強くなっている。夏が近づいていること教える大きい雨粒が水溜まりに跳ねると、そこにシャボン玉の半球のような水泡が生まれ、すぐ弾ける。傘の中からそれを見ている。
小平霊園の中のけやきに大雨が降っている。木を伝って水が勢いよく流れている。木の表面には、どうしてか泡のようなものが付着していて、それだけはゆっくりと流れ落ちていた。

人生を動かしていく(ただバイトに応募するだけ)。最近、それができなくて悩んでいたけど、今日はできた。少しだけ気が楽になった。あと、今日は病院に行って、新しい薬の話だけされて、で、処方を断って帰ってきた。ジェネリックじゃないと、お金がないので。しかし、流石におかしくはないだろうか。もうちょっと聞くべきことがあるのではなかろうか。病院、行くのやめようかな。そういえば、少し前ツイッターで「鬱のとき、病院に電話したものの予約がいっぱいと言われ、死ぬかと思った」という内容のツイートを見た。似た経験&全く同じことを思ったことを思い出し、ツイートがバズってたので、そう書けばいいのかーと思った。それで今は、5日後の日記を書いている。私が死んでもブログは更新されるものby綾波レイ。つまり、これは5日前からのメッセージだ。まさか、あんなことが起きて、こんなことになるなんてね。

貧しい言葉が作る貧しい社会について

2018年6月5日(火)「荻上チキ・Session-22」「森友学園をめぐる決裁文書改ざん問題。財務省の調査報告書を荻上チキが読み解く」
「結果としてこの小学校に通う子供はいなかったわけですけど」、「やらなければ意味ないぞ」って真面目なトーンで入れてこないでください、爆笑してしまうので(本当は笑ってちゃいけないくらいヒドイけど)。
ニュースに、ふつうにツッコむだけで爆笑って感じの社会で、お笑い芸人は大変だろうと思う。けど、逆に生き生きしてる人もいるしな。
しかし、やっぱり現代日本、ボケがデカい。もうちょっと繊細に行こうぜ。

以前Twitterで、あるラジオ番組(ニッポン放送『大谷ノブ彦 キキマス!』なんだけどね)が終わるって話に、「やっよ終わるのか。よかった。」ってコメントしている人がいた。もちろん、何にムカついてもいいし、何を嫌いでもいいし、番組内で話されたことに間違いがあったのならば批判すればいい(し、大谷氏に問題がないなんて言わない。)。しかし、思うわけだ。「お前、番組聞いてなかったよな」と。どうして聞いてないラジオ番組が終わることを喜ぶのか。番組が変わったからといって聞かないだろうに。終わろうと終わるまいと、お前に関係ないではないか。
なぜか、自分の嫌いなものは世界からなくなればいいと考える人が多い(多くなったように思える)。別に、それがあっても社会的に問題があるわけでも、存在することで自分に被害があるわけでもないのに。それに、それを楽しんでいる人もいるというのに。冷静に考えさえすれば、おそらく発言者も気付くだろう。その言葉と、その心が間違っていることに。しかし、これは実際に書かれた言葉なのだ。人の冷静さを奪い取る、あるいは、人の愚かしさを剥き出しにする何かがSNSにはある。
こんなことを書かせてしまう/読ませてしまうSNSには、精神を失調させる効果が間違いなくあり(SNSでおかしくならない人は、元々おかしかった説)、だから、人々の書く”終わった言葉”たちを読むたびに、「ああ、この人が生きる時代にSNSさえなければ」と、かわいそうに思う。そして、もっとSNSから距離を置こうと思う。僕とSNSとの距離は、もう、かなり遠くなってしまった。

人身事故のアナウンスに「死ぬなら人に迷惑かけずに勝手に死ね」とつぶやいたあなたに、今から大事な話をしようと思います。少しだけ、耳を貸してください。
その言葉には、その言葉を発することには問題があります。誰かの死の背景を想像しようとしない、死者に冷淡な言葉が流通するような社会は、様々な人を追い込みます。だからこそ、悲しみや苦しみの中で、人は死にます。そして、人の死ですら自分の損得と結び付けてしまう、迷惑だと言って憚らないあなたのような人が、様々な人を傷つけています。だからこそ、あなたに迷惑がかかるように、人は死にます。
しかし、こんな説明があなたに通じるわけないって、私は分かっています。こんな当たり前のことにすら、思い至らないあなたなのですから。だからせめて、せめて黙っていてはくれませんか?

上記の文章について、以前「2018/06/13 今日のボイスメモ」で話した。話したように、心を込めて書いた。僕は、どちらかといえば、あのような貧しい言葉に傷付く人のために書いた。もし、そういう人に届いたのなら嬉しいし、届くようにもっと頑張らなければならない。僕みたいなのにだって、できることがあるのだから。

BSでやってる1978年のワールドカップ決勝の、その不鮮明な映像。洗練されていないフットボールには、本当のカオスがまだある。行ったり来たりするボールが、ただボールに集まるプレイヤーたちが、フットボールはスポーツじゃないって言っているようだ。正確にはアスリートではないというか、今よりも、ただただ蹴る才能が問われていたように見える。(そして、すでに今年のワールドカップは開幕した)


宇多田ヒカル 『初恋』(Short Version)

この曲がラジオで流れてきた。歌いだしにビックリした。かなり特殊な歌のように思えた。
あと、唐突に思い出した。「人間活動」ってなんだったんだろう。宇多田ヒカルほど才能があったら、「人間活動」するって宣言しても、どうしてもまた歌いだしてしまうものなのか。「天才には、人間の人生は生きられない」ということだろうか。

COP

色々書いた手前、文化系トークラジオLifeの「現代の現代思想」とか、あと、決断主義トークラジオAliveとか、久しぶりに聞き直していた(Lifeの、あのジングル懐かしい)。
「現代の現代思想」の回、「敦は遁走」の回なわけだけど、part3の後半あたりから段々面白くなってくなあ(お酒飲んでて、その辺りから酔いが回ってきたのかな、などと想像)。「ジャーゴン」、「ソーカル事件」「カルチュラル・スタディーズ(カルスタ)」などなど、ここで初めて知ったものや言葉も多くて(それこそジャーゴン満載で)、そういうのにかっけー、思想かっけーってなったりもしたわけだが。
『神への長い道』の話、ピーター・シンガーの話、「普遍性を装った発言は私的利害の発露に過ぎない」という発言などが出てくるpart4には特に影響を受けているというか、印象に強く残っていて、聞いた時から何年も経った今振り返れば、僕の考え方を変えたんだなあ、って思った。
聞きながら、「よく「右でも左でもない」という言葉を使う人がいて、それはつまり特定のイデオロギーではないと言いたいのだろうけど、しかし、そういう人から「素直な気持ち」「率直に思ったこと」「本音」として出てくる言葉が、なぜ、特定のイデオロギーに属する人の言葉に近づくのだろうか。」などと、ぼんやり考えていたが、それ以上深く考えたりはしなかった。
2009年にLifeは番外編として『ニッポンの思想』『現代日本の転機』といった本を取り上げた回も作っていて、懐かしく感じた。今では、こういう”思想”寄りの回って少なくて、どちらかといえば社会に寄っていると思う(別に悪いことではない。間口は広がっていると思う)。僕は、どうしても”思想”とか、そういうものが好きで、少し寂しいと思った。そういえば、どっちの本も読んだなあ。それは間違いなくLifeのおかげだ。

小平駅の近くのアパートが「ハッピーシンドローム」って名前で、「安野モヨコのマンガか」って心の中でツッコんだのだが、安野モヨコ作品にあるのは『ハッピー・マニア』だ。
以前ブログを書いていて、”問題系”という言葉を使おうと思った、しかし、「ちゃんとした意味知らない」と思って、”問題系”で検索したら、東浩紀をDISったブログ(深夜に熟読した)と、CiNiiの論文「安野モヨコ作品における労働の問題系」(深夜に熟読した)が出てきた。論文の著者名を見て、それがトミヤマユキコの漢字表記であることに気付いた。”問題系”の意味を調べるという目的は忘れてしまって、結局言葉は使わなかった。

プロレスっ子たちにとって、長い真っ直ぐな道は、いつだってリングへ向かう花道で、脳内iPodからお気に入りのレスラーの入場テーマが流れてきて、歩きながらオーディエンスにアピールしたりするじゃない?(こんな記事もある「【豆知識】いつもの道もプロレス入場時の「花道」だと思いながら歩くとメッチャ楽しい」
お気に入りの曲、みんなそれぞれあるだろうけど(あと、オリジナルの入場テーマもあるでしょ?僕は、Eelsの「lone wolf」で渋く入場したい)、僕はWWEユニバースだから、そっちの曲が流れてくることが多い。
最近よく流れてくる(脳内の話です)のは、エンバー・ムーンの曲で、でも、流石に月ちゃんに移入するのは難しいのよね。AJのとか、サミ、中邑、ジェリコ、クリスチャンのとかねー、意外とミズのがストレートにかっこよかったり、CMパンクの(てかLiving Colourの)「Cult Of Personality」は、本当に良くて、流れてくると飛び切りかっこつけちゃったりするんだけど。
でも、やっぱり一番は、いろいろ紆余曲折あって(笑)、キュルキュル音の後に無音になって、それからかかる(こういうルーティーンなのです)ドルフ・ジグラーの入場テーマだなー。あれかっこいいよなー。僕がノリノリで歩いているときは、あれが脳内でかかってます。

自分が天邪鬼であることを自覚したのはいつか(自分という人間が、性行為の末に作られたであろうことを知ったのはいつか。なぜ、その衝撃的な事実を認識した瞬間を覚えていないのか)。僕は、この誰も読まなくなってしまったブログについて、誰も読まないからこそ続けてやろうという、そういう気になった。誰も聞いてない/読んでないところに黄金がある。人類が黄金に気付いていない状態、それが愉快だと思った、というのは嘘で、皆に見てほしい(というのも嘘だ)。

Getting Along

ポッドキャストを更新しました。「2018/06/13 今日のボイスメモ」
とにかく聞いてください、人助けだと思って(「石にかじりついて」を「岩にしがみついて」って言ってるとこは見て見ぬふりをしてね)。

経済成長にまつわる議論と原発問題の議論は相似形。良い悪いではない、正しい間違っているでもない。これらの議論が相似形をなしていることは、議論が持つある力、議論の人への作用を示している。

近頃問題になったあれやこれやに、僕がコメントしてないのは、知らないからでも、興味がないからでもなくて、おそらく僕が、先行世代の思想家や批評家、評論家たちの言動を見てきたからだろうと思う。影響を受けているのは、内容の面ではなく(そもそも影響を受けられるほどの能力ないし)、その振る舞いの方だ。言論は一つのゲームであって、生き残るためには、先行者とバトルするしかない。それができないヘタレは、誰も言わないことを言って存在感を示し、”おみそ”のポジションに置いてもらうしかないのである。だから僕は、(バトルは勝てないのでしない以上)その問題について、誰も言ってないことを言えないのならば、何も言わない。
「サブカル批評のサブカル化」の進行のおかげで、僕みたいなものでもその果実にありつくことができた。ラジオや読書が好きで、かつ、ペダンチックな性格のゼロ年代に青春期を過ごした人間たちには、例えば『文科系トークラジオLife』や、『思想地図』を避けることは難しかっただろうし、その本棚には、議論の詳しい内容も、議論の問題点も分からないまま、『動物化するポストモダン』、『カーニヴァル化する社会』、『ゼロ年代の想像力』等々が並んでいたりしたはずだ。そして、雑誌の創刊とか、会社を作るといった発表がなされる度にワクワクしたりしていただろう。
過去の発言が面白いのは、僕たちが簡単に未来人気分を得られるからだ(このフレーズは、タマフルの「雑誌・トゥ・ザ・フューチャー!俺たち未来人!!」という特集からいただいている)。僕たちは、色んなことがどうなるか、どうなってしまったかを知っている。僕たちは、スタート時に語られていた未来図や、これからの行動プランにワクワクしていた。そして、それはすぐに忘れてしまった。で、後に問題が起きるわけだ。そういう論争やいざこざは、それはそれとしてネタにして楽しんでいた。今、スタート地点に戻ってみると……語られていた理想が虚しく思える。
僕が見てきた世界では、思想ではない、人間的な理由の問題が起こりすぎていた。絶縁とか掲載拒否とか。やっぱり、どれだけ世界を明晰に分析できて、向かうべき社会像を提示できたとしても、頭が良くても、それを人間が実行するのは無理なのかなって思ってしまった。高邁な思想から作られた体制だろうと組織だろうと、携わる人間の体調や気分、性格難、コミュニケーション問題のせいで、絶対失敗する。
言論人たちは、バトルで残ってきているから、やっぱりバトルしてしまう。人間は誰しもさもしいのに、自分のさもしさに向き合わず、自分が間違わない前提に立って設計してしまう。賢い彼らが、その賢さをちゃんと使って、自己批判を踏まえた新しいシステムを作ることができるようにならないのならば、もうAIに期待するしかない。
(あ、でも『文科系トークラジオLife』や、株式会社ゲンロンは(形を変えながらでも)長いこと続いていて、それは本当にすごいことだと思う。)

野火止用水の、その側に大きな木が生えていることに今日気付いた。いや、ほんとにデカくて、川を跨いで根を張ってんの。1mくらいあるのよ、川幅。木の近くに橋が架かってて、木の根の下を水が流れていくのが見えんの。で、それが、ディズニーランドのアトラクションみたいだなって思って、いや、ディズニーランドのアトラクションがこういう自然を真似したんだよ!って、それは分かるんだけど、すごい木とかすごい滝とか、巨大な岩壁とかを見ると、アトラクション的な構造物を思い出すことが僕は多くて、それが興味深いなあって。


The Magic Gang – Getting Along (Official Video)

I can contemplate, but still I won’t remember
All the time it takes, can take until forever

曲全体も良いけど歌いだし、この歌いだしが、頭から離れない。脳内でループする。その歌詞の意味は、あなたが考えてください(僕は英語ができない)。