ブログ「いらけれ」

色褪せたジーンズを履いて、安物のポロシャツを着た私は、一人を収めるものとしては大きな傘の下にいた。直射日光はアスファルトを熱し続けているから、上を遮っても暑くてたまらないことに変わりはないけれど、それでも十分に快適だ。

言葉はかたまりでやってくる。しかし、ただぼんやり待っていても、私の元には訪れてくれない。待っていても来ないと知らない私は、いつまでも書き始められない。だから私は、言葉を呼んでみる。おーい。

言葉を読んでいる。5冊の本を並行して読んでいる。とりとめもなく。デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』、サンキュータツオ『これやこの サンキュータツオ随筆集』、フェルナンド・ペソア『不安の書 【増補版】』、高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』、テッド・チャン『あなたの人生の物語』。あと、アイドルについて考えるきっかけがあり、書棚にあった『ジャニ研!』も再読中。

一番終わりに近いのが『あなたの人生の物語』で、映画『メッセージ』の原作となった短編も読み終えたのだが、その映画を見ていない私は、これをどうやって映画にしたのだろうと、もちろん面白くない映画ならばいくらでも作れるだろうけれど、これを元に面白い映画を作れるのだろうかと、今から映画を見るのが楽しみだ。

「小説を読むと、心の声がその文体にな」ってしまう私だから、『ウィトゲンシュタインの愛人』で考え事をしているときがあり、内側の声が「~だけれど」などと言うから、小説の混ざった私が形成されつつあることに、私が驚いている。

それで図書館に行ったら、たくさんの本があるにもかかわらず、読みたいと思える本は少ないのが常なのに、たくさんの本を読みたいと思ったから困った。もちろん、読みたいと思った方のたくさんは、図書館の本のたくさんよりもずっと少ないのだけれど。赤瀬川原平と精神科医の大平健による文章術の本を借りた。

私たちには「人並みの幸せ」の後ろ姿がばっちりと見えているから、苦しんでいる。しかし、あらゆる普通の足し算とわり算には、もう死んでしまった人たちの幸福と不幸は入ってないから、私は幸せ者である。こうして、それまで悩んでいたことのすべてが、一瞬で、どうでもよくなった。

ブログ「いらけれ」

感情を走らせて、僕たちはどこまでも行こう。そんな夏は、過ごしてみたかっただけの架空の夏。金鳥の夏、日本の夏。

少し雨が降っていたらしい、窓から見える盛り上がって分厚い雲は、空に浮かぶ城のようだ。蒸し暑くて涼やかな季節性の風が、図書館からの帰り道に吹いて、日焼けた体で遊び続ける小学生の私が、巻き上げられた校庭の砂を吸い込んでしまう。げほげほ。

その角のマンションは灰色のネットに包まれている。工事中だから、絵の男が頭を下げている。頭上2メートルのところに、道を覆うように設置されている鉄の板は、作業員の落とし物を受け止める役割を担うと同時に、強い日差しも遮ってくれている。マンションの向かい側には白いフェンスがあり、雑草と木を取り囲んでいる。それらも、今日に生きている。

アスファルトに形作られた影の、その境目にぽとりと落ちた緑だ。2メートル先の葉のようなもの。ゆっくりと近づいたのは、猛烈な暑さで速く歩けなかったからだし、そこを通らなければ家に帰れなかったからだ。それは蟷螂で、両の鎌を振り上げながら彫刻のように固まっていた。私が真上から顔を接近させても微動だにしないから、私のことを認識しているのかどうかすら分からない。

通り過ぎた後も、あの蟷螂のことを私が考えてしまったのは、そこに他人を見たからだ。なにを考えているか分からない他人は、あの蟷螂と同じだと思う。独自の理屈、オリジナルなプログラムで動いている他人は、あの蟷螂のように不可解で、いちいちその意図を推察していたら消耗してしまう存在である。おそらく、これからはそんな他人を「あ、蟷螂だ」と思うようになるのだろう。

ブログ「いらけれ」

頭痛で臥せっていた。その痛みは耐え難く悪心を伴うもので、実際に吐いたごみ箱のなかを見つめ、夕食から5時間も経っているのにな、と思った。一向に涼しくならない夜に、しかし、冷房を切っても悪寒は続き、止まらない冷や汗でTシャツがぐっしょりと濡れた。

自律神経の失調。ストレス。それを思考することがストレスになっているのは明確なのに、考えずにはいられない。世界に考えさせられているとき、私の脳は私の支配下にない。

自分の痛みや苦しみは大きく、他人のそれは小さく見えるのだな、と思う。苦痛に苛まれている私は、人生は地獄だと思い詰めるだろう。そして、苦痛の訴えを前にした私は、理解や共感の素振りを示すだろうが、どこまで行っても自分のものではない苦痛を、我が事のように深刻に捉えはしないだろう。私たちは、本当は身につまされたくなんてないのだから。

「分かろうとしなければ分からない」の反対側には、「伝えようとしなければ伝わらない」があった。ときには黙することも必要だけれど、黙っていては変わらない現実もある。苦しみの表明を蔑ろにされ、余計に傷ついたとしても、そうすることでしか知り得なかった感情を、その先で語ろうと腹を決めた私は、ようやく眠りにつくことができた。

ブログ「いらけれ」

夏の空の雲は、イカの刺身の色をしている。

今日は、「「これは小説ではない」のなら、それは何なのか?」という『これは小説ではない』(新潮社)の刊行記念として行われた佐々木敦と福永信の対談配信を見たから、それについて考えながら、午後4時を過ぎても暑い8月に僕は立ち向かうことができず、中身が壊れているおもちゃのように、よろよろと歩いていた。

感銘を受けたのは、動画2:05:45あたりからの福永の言葉だ。できれば動画を見てほしいのだが、この日記の読者のために要約すると、「読者にしか興味がない、読者という状況が発生すればそれで良い、ものを読んでいるという状態は1分ぐらいでもすごく良いと思っている」「読んでいる時間その人は一番誠実な状態に、一番良い人になっているのではないか」「読者という状況は、その人が生きていく時間のなかで習得したものを使って、自分と向き合って、自分ではない情報を取り込みながら、自分の感情を作り出していくような、あるいは自分の感情を思い出すような瞬間が、読んでいる間だけ生まれている気がする」といった内容だった。

読むことと、見ることや聞くこと(映画や演劇、ドラマなど)の違いはどこにあるのか、ぱっと思いつくのは、能動性が必要とされる度合いだ。映画や演劇は、出かけて行った劇場の椅子で少し眠ってしまったとしても、その作品を見たことにしてよさそうだ。しかし、眠っている間に読むことはできない。小説を読んでいる最中にウトウトして、そのまま眠ってしまった人は、眠る直前に読んでいた行から読書を再開させることだろう。

見えるものや聞こえるものは、常に向こうからやってくる。それゆえ、見よう/聞こうとしなくてもよく、どこまでいっても見えた/聞こえたの連続であり、見逃した/聞き逃したの連続でもある。対して、読まれるものはこちらにやってこないから、私が読まなければ読まれることはない。読もうとしなければ読めない。読み逃したという状態がありえないのは、読むことと逃すこと/捉えそこなうこと/失することが、まるっきり反対側に位置しているからだ(しかし、現実に「読み逃しているなあ」という感覚が生起する瞬間は少なからず存在する。暇つぶしにネットニュースを読んでいるときとか。読むそばから忘れているというような。ただしそれは読み逃しているのではなく、端的に読んでいるつもりで読んでいない、そもそも読めていないということにすぎない)。

読もうとしなければ読めないというのは、つまり、分かろうとしなければ分からないということだろうか。分かろうとしなければ分からないものが小説である、という説明には納得がいく。しかし、分かろうとしなければ分からないのは、小説だけではないのではないか。他者も、世界も、人生も、善と悪も、愛と勇気も、分かろうとしなければ分からないものだと言えるのではないか。

こうして、私のなかで読むことが誠実さや善良さとつながった。私たちはいつだって、すぐに分かったつもりになるけれど、その先で分かろうとしなければ、分からないことばかりなのだ。考えながら歩き、歩き疲れて家に帰り、飲んだ水の一口目が超美味しかった。