ブログ「いらけれ」

料理の楽しさを言葉にするのは難しいのだが、楽しいと感じている私がたしかにそこにいる。まず、次になにを作ろうかと考えているときが楽しい。キッチンには、すでに食材や調味料がある、あるいはない。だから、なにかを買ったり、買わなかったりすることによって、なにかを作る。それは既存の料理のときも、そうではないときもある。昼食として、よく分からないパスタをよく作っている。家にある肉と野菜を炒めたり煮たりして、直感的に味をつけて、それにパスタを絡めて食べる。おいしかったり、おいしくなかったりするが、あまり味にこだわりはない(おいしい方がいいな、と思ってはいる)。あとから正解か不正解か決められるパズルだ。そんなもの、他にあるだろうか。

それは書くことに似ている、そう言えるかもしれない。まず材料を集める。そして手を動かす。作り始める前に完成形を思い浮かべはするものの、作っている最中は、その想像通りにならないことを願っている。思いつきで豆板醤を入れると、すごく辛くなる。それに似たことは書いているときにも起こる。できあがりは工程の先にあるはずなのに、それならば想像通りにできあがるはずなのに、そうならないことが多くて面白い。面白いと楽しいは近い。自分が書いたとは思えない文章が、自分が作ったとは思えない料理ができあがるときもある。頻繁に奇跡が起きる。

料理を楽しむように、書くことを楽しめるだろうか。あの時の私は、母の病を、なにかを感じながらそこにいる私を、物語に託して、あるいは委ねて書いた。「魂の本」の兄は母であり、兄は父であり、僕は私だった。不謹慎かもしれないが、それは楽しかった。楽しいと悲しいは似ていて、悲しみを飲み込むためには、楽しむ必要があった。

それから私は死に触れて、圧倒されて、書けなくなった。その記憶は材料にならないまま、今も胸の内に収められている。リハビリをしなければならなかった。ここ数日の文章がそれで、もう一度書くことを楽しむ私になることが、今年の目標の一つだ。

ブログ「いらけれ」

本を読んでいるうちに眠っていて、目が覚めたら2020年が終わっていて、少し安心したような気持ちになった。いろいろなことがあって、それでも12月には希望も見えて、人のことを思うような心持ちにもなって、結果的には、ちょっとだけ人らしくなれた年だったけれど、やっぱり少し安心した。だからもう一度眠った。

二度目の目覚めで朝が終わっている。志村けんが死んだから、戦うお正月が所ジョージがメインの番組に変わっている。大根と人参と牛蒡を切る。今の十代は新春かくし芸大会を知らないという。雑煮用の鶏肉は、あらかじめ切られている。堺正章のテーブルクロス引きを思い出していたら、出汁が沸騰する。切り餅を魚焼きグリルで焼く。

初めて餅を焼いたときに燃やした。ふくらんだ餅がグリルの天井に届いて火がついたらしい。期待に胸を膨らませながら、グリルをガラガラと引き出して驚いた。ボヤだった。ボヤだなあと思いながらも、体はすぐには動かなかった。計量カップに水を入れて、ばしゃっと消火したら、真っ黒な餅が顔を出した。焦げてるなあと思った。

出来上がった雑煮は美味しかった。家庭料理に才能はいらない。レシピと顆粒だしを信じる心さえあればいい。生姜焼きやハンバーグ、唐揚げといったベタな料理はだいたい作った。肉じゃがなんて、もう”おふくろの味”から私の味になっている。もつ煮込み、バーニャカウダ、チリコンカンなどもレパートリーだ。必要は、発明とスキルアップの母である。まあ、母が亡くなったから必要になったんだけど。

いつもとは違うお正月。午後の陽光が、いつもより広くなったリビングに差し込んでいる。他にする人がいないので仕方なく、父の買ってきたあれこれをお重に詰めて、おせちとする。余った栗きんとんの餡をスプーンで掬って、これは役得と口に入れたら「んうー」と声にならない音が出た。これはもう人間の自然な反応なのである。全人類がこうなるはずだ。

これ以上、料理が上手くなりたいとは思わない。向上心はないが、幅は広げたい。死ぬまでやりつづけるだろう予感があって、引き出しは増やしておきたいと思うから、作ったことのない料理をたくさん作るというのが、今年の目標の一つ。