ブログ「いらけれ」

夕飯に使われる予定の食材がたくさん詰まったマイバッグを右手に持った帰り道、暖かみのない暮れの夕方は、悲しい思い出にふさわしい寂寥感で満ちている。

癌で死ぬ人の顔は似ている。「死相」というものなのだろう。頬の肉がげっそりと落ち、目はぎょろっとしているにもかかわらず、どこか焦点が合っていないような、そんな顔になる。

病が進行すると、パンパンにむくんだ足から水が出るようになった。座っている方が楽だというから、介護用ベットに腰掛ける彼女の足元には吸水シートを敷き、マッサージも兼ねて時折タオルで拭いた。異様に膨らんだ足は、すでに私の知ってるそれではなくなっていた。

努めて明るく声をかけながら、手を動かしていた。ふと見上げると、あの目があった。目が合って、初めて分かったことがあった。それは、この私に見えているように、その目に私は見えていないということだった。はっとして顔を近づけたのは、私を見てもらうためだった。

どこまでいっても自分のものにならない他者の痛みは、どれだけ深刻な顔をして、泣いてみたところで、最後のところで分からなかった。どれだけ共感してみたところで、その痛みは私のものでしかなく、どうしても分からないことに罪悪感を覚えた。それに加えて、私の内側にあるこの痛み、この苦しみは、誰にも分かってもらないのだと絶望した。あなたも私も、同じように孤独だった。

苦痛に顔を歪めながら、母が亡くなったのは夏の終わりのことで、冬になっても私は、私の心の使い方が正しかったのか考え続けていた。どう頑張っても分かりようがない他者を思い、配慮するということについて悩み、苦しむ私の話を友人は聞いてくれていた。話し終えて家に帰ると、私は分かっていた。

私がずっと心を使おうとしていたのは、それこそが思いやりだと信じていたからだ。そして、どれだけ心を使ったところで、思いが伝わったと感じられないことに戸惑い、苛立ってさえいた。そして、何もできない虚しさでいっぱいになっていた。

この私の苦しみに対して友人は、心を近づけてくれた。分からないの先で、あの時の私のように、近づくことでそこにいると示してくれた友人の姿は、苦しみで曇った私の目にもはっきりと見えた。この心の痛みが、そっくりそのまま伝わっていないとしても、私は孤独ではないと思えた私は救われた。悲しい思い出から後悔が消えていた。

すっかり暗くなった空に浮かぶ雲を月が照らしている。美しくも苦痛に満ちたこの世界で、私に、あなたにできる最善策は、心を使うのではなく、心を近づけることなのだろう。