この中で芸術を、「ある表現手段でもって、表現者の思う”良いこと”を為そうとしているものだ」と定義しているが、そうは考えていない。芸術は、表現者の意志のもとにはないと思う。表現者の態度によって、芸術か否かが決まるのではない。
私は、個人/社会/世界には、価値観を超越した、”絶対に良い方向”があると思っている。受け手ひいては社会ひいては世界を、”絶対に良い方向”に導くように”作用する”ものを、私は芸術と定義したい。だから、表現者が、表現手段を用いて、表現者の思う”良いこと”を為そうとしていなかったものが、芸術である場合もあるだろう。無心や破れかぶれ、あるいは悪意をもって作られてたとしても、”絶対に良い方向に導くように作用”してしまえば芸術である、と考える。
聞いてくれる人増やした~い、と思うのはきっと、このラジオをきっかけとした出会いが、僕にとって素晴らしいものだったからというのもある、”というのも”っていうのはきっと、僕の中に、いわゆる自己顕示欲とか承認欲求とかがあるだろうからだけども。
聞かれてるのを知るのはうれしい。なんでだろう(©テツandトモ)。面白いなどと言ってもらえたら尚更だ、そういう言葉を何度ももらった。そういう意味では、良い思いをし過ぎているというか、恵まれ過ぎているのかもしれない。とにかく、また誰か良い人に出会って「とくにないよねネットワーク(?)」を広げていけたら最高だ、などというと、殊勝に聞こえるだろうか。
面白い話をする能力は、面白いものを広める能力、営業する能力とは別である、というと、「私たちは、面白い話をしていまーす」と言ってるようで恥ずかしい。ところどころ面白い(あまりに馬鹿だから、といった理由で)のは間違いない。聞く価値があるかは分からない。
僕が良いと思う人付き合いの仕方は、他の人にとって良いものではないみたいで、その上臆病だからいけない。いけないというのは、広がらないということだが、今が特別悪い訳ではないのだから、いけないなどということはないのかもしれない。全人生の中で出会ってきた人には、出会いたくなかった人の方が多かった、だから、出会いを良いとはいえない。でも、このラジオを聞いてくれている人に、いやな人はいないだろうという思いもある。複雑だ。
ラジオを話題にする方法も、多くの人に聞いてもらう手段も思いつかない。やはりここは、可愛い自撮りか、インスタ映えか(どっちも無理じゃーん、というかまず、ラジオじゃ出来ないじゃん)。とはいえ、聞いてくれる人増やした~いのだから、何かしなくては。ゴトウさんの次の一手は?……ご期待ください。