ハローワークから歩いて歩いて、国立病院の脇を抜ける。それから、線路沿いに出てずっと進むと左手に大きなグラウンドがあり、金網で隔てられているその横をさらに行くと、中がうかがい知れないがグラウンドに付属しているだろうプールの、そのスタンドが現れる。見上げるくらい大きく、下が抉れていて、上が迫り出しているように感じる。それはだから、天井が向こうにいくほど低くなる造りで、自転車を置くのにちょうどよいようだ。人の気配がないのにずらっと停めてあり、万年駐輪場になっている。
wifiという孔
あらゆる空間に意味の流入する孔が空いている、これは社会学者の鈴木謙介さんが「多孔化」といっている現象ですねー。参考:分断された社会をどう生きるか http://www.d3b.jp/youth/2503
私たちが、そのあり方を規定する前にどんどん便利になっていく。そこには、やはり戸惑いが生じる。
あり方や使い方は後追い的に決めていくしかないし、きっと、それが規定できる前に、新たなテクノロジーなどで条件が変わってしまったりするんでしょうね。
そうですねー、やっぱりその都度その関係(それは、人と人のみならず、人とモノ、人と場所、人と場合など)によって、その都度対応していくしかないのですかね。
九月
ブログを毎日更新することに慣れ、書くことにもだいぶ慣れ、それはいいことだ。
TwitterやLINEではない何かを書くほうがいいです。
『対音楽』ばかり聴いていて、本当に素晴らしいと思うが、あまり評価されてないように見えるのがさびしい。
『幻とのつきあい方』も聴いていて、確かに良く、こちらは評価も伴っていて幸せな例ですね。
やるべきことはやっていくという気持ちが強くなって、例えば先々のブログのタイトルだけ考えた。
タイトルができると記事が書けます。らいふはっくです。
「○○する日」というようにして、生活にもタイトルをつけていった方がいいのかもしれない。
そんな風に考えていますー。
頭から世界まで
飲み会いくと頭がぐちゃぐちゃになる。
いつも見ている世界とあまりに違う。
自分が通常だなんと思いはしないけれど。
Twitter的な、選択した現説との違い……。
まったく別の、そういうものとしての現実に戸惑うなあー。
わけていく“べき”?うーん……そうかもしれない……。けれど、そう簡単にいかないからこそ人間って感じもしますね!