ブログ「いらけれ」

「ボイスメモを公開する。」というポッドキャストのために、部屋にブースを作る作業中。ブースといっても、突っ張り棒を部屋の一角に渡して、仕切りをするだけなんだけど、そういう風にお金かけたりしてるので、とっても聞いてほしい。(ただ、仕切りにするカーテンが高くて買えてないので、まだブースは出来てない。)

NXTのテイクオーバー:シカゴを見た。相変わらずNXTはすごいプロレスをやっている。人が死にそうなプロレスだ(もちろん「危険だからいい」とは簡単には言えない)。
ニッキー・クロスの狂人芸が、いつ見てもかわいくて笑ってしまうとか、UE(アンディスピューテッド・エラ)の人気がすごいけど、試合を見れば納得だよなあとか、リコシェ-ドリーム戦の「リコシェベルベティーン」というチャントが珍しいメロディと拍で、チャントの音楽的分析を、音楽詳しい人に頼みたいなあとか思いながら見ていた。
面白いプロレスって、ちゃんと段取り作って、きれいに技かけ合うだけじゃダメで(それだと道場での練習に見える)、もちろん、その場の思い付きばかりでもダメで、予定された動きの中に、いかに即興を取り込むかが重要なんだと思う。それって、飛びきり面白い落語家とか、感動的な演奏をするミュージシャンがやってることと同じなのかも、芸ってそういうものかも、って思った。
しかし、本当に時代はお客様本位になっていて、客は、主導権を握っていることを自覚するようになった。それで客たちは、自由を謳歌し、悪乗りするようになっている。このことに対しては、危機感を抱いています。集団で悪乗りする客って、結構なヤバさだから。現に、NXTの意図したストーリーを壊しているときも多い。ただ、その悪乗りからヒーローが生まれること(ルセフデイ!)もあって、難しい時代だなあという感想を抱いた。
この大会の白眉は、なんといってもガルガノ-チャンパのストリート戦で、それまでの長い長いストーリーが、技のやり取りの中で煌めくような、非常に激しい攻撃の応酬があり、見ていて怖くなる瞬間が、何度もあるほどだった。プロレスはここまでいける、ここまでいってしまう。どこまでいってしまうのか、どこで止めるべきか。そんなことを考えながら見た。
また、チャンパがリングのマットを剥ぎ、NXTのリングの構造が分かる珍しい試合でもあって、「へーリングってこうなってんだー。しかし、マット薄すぎるな……」と思った。やっぱりプロレスラーはすごい。

館林が猛暑日になったその日、僕は14時半くらいから歩き出して、もう卒倒って感じだったんだけど、歩きながら見た川がキラキラと涼しげだったからまだよかった。川沿いの道から、浄水所は一段高いところにあって、目線の高さの壁が続いているのだが、その壁に登れるように掛かった梯子の横に本が置いてあって、「何かの作業の手引書かな」と考えて覗いたのだが、その本のタイトルは、本当に予想外のものだった(それがなんだったのか、記事の下部にある写真を見て確認してほしい)。
適当に歩いていたら、中央公園に出た。木々の影でだいぶ涼しく、ゆったりとした気分。歩きながら聞いていた「セッション22」のVRの回は、「わー!」「怖い怖い」「目をつぶっちゃいます」とか言ってて、おもしろかった。
僕も、VRに対してはそれなりに興味はあって、それは例えば、ここにないものをここに再現するという意味ではテーマパークだってVRだといえて、で、VRでジャングルの川を下る映像を見せると「ジャングルクルーズみたい」という感想が出てくる、そのねじれとか、リアリティという感覚の内実とか、話はズレて、VRで見られがちなものの一つにジェットコースターの映像があるが、ジェットコースターはテーマパークのように何かの再現ではない、ジェットコースターにあるのは高度と速度で、それってどういうことなんだろう、ということだったりする。
VR、リアリティ、ジェットコースターなどについて、深く調べたいという気持ちになって、「何か深く調べたいなんて、超久しぶりだ」とか思いながら図書館を探して、そちら歩いていって、着いたら中が暗かった。そういえば月曜日は休館日だった。心がくじけた。僕はもう二度と、何かを調べたりしないかもしれません。

二か月もブログ書いていればですね、きっと同じようなことを書いていると思うんですね。ですが、これからだと思うんです。
評論家の本を歴史で追うと、「あれ、前の本と同じこと書いてね?同じ話してね?」的なことってあると思うんですよね。あるいは、違うことを言っているようにみえて、根底に流れるテーマは同じだったりとか。人間が思い入れられることとか、こだわれる範囲とかって限りがあって、あと、いろんなことを言おうとすれば、前に言ったことと食い違ってしまったりもするだろう。だから、ちゃんとしてればこそ、誠実であればこそ、書き手が大事だと思うことを繰り返さざるを得ないと思います。
言い訳ではなく心から、どれだけ同じことを繰り返せるだろう、それで読んでもらえるだろうってことを考えていて、本当に大事なことを目を見て言うような感じで、毎日書いているつもりです。


ブログ「いらけれ」

あの人もこの人も、その表現の根底には恐ろしいほどの"怒り"があるって思うことが多くて、で、それってどのくらい伝わっているのだろうって思う。そういう人って、むしろ穏健って見られていたりして、本当に驚くこともある。僕には、その穏健さこそ、強烈な反動にしか見えないのに。
もちろんこの文章は、僕の根底に怒りがあり、それって伝わってんのかなーって方向に行く。
アンチ退屈主義者の僕は、テンプレが好きで、逸脱ではなく安全安心なものをありがたがり、行動に目を移せば、自分だけは搾取されないように立ち回り、巨悪ではなくみんなが既に叩いている小さな不正を叩くような、そういう"感じ"に、いつも腹を立てているんだけど。
分かってほしいという、そういう気持ちもあるし、なにより、表現者各人が怒りをどうにかするために、その表現があったりするんだってことを、ゆるふわな人々に教えたくて、これを書いた。

忘れちゃったかもしれないけど、変なマスクをしたマジシャンが、マジックのトリックを暴露する番組が流行った時代があった。
Wikipediaによれば、「マスクマジシャン」ヴァル・ヴァレンチノが、テレビ番組『破られたマジシャンの掟!』の中で活躍していたのが、1997年から1998年(日本に輸入され流行ったのは2000年ごろからのようだ)。
Wikipediaによれば、プロレス団体「WWE」は、株式上場にあたって事業内容を公開し、シナリオの存在を公式に認めることになった。株式上場は1999年。また、プロレスの裏側を描いた二つの映画があるが、それぞれ『レスリング・ウィズ・シャドウズ』は1998年公開、『ビヨンド・ザ・マット』は1999年公開である。そして、俗に「ミスター高橋本」と呼ばれる『流血の魔術 最強の演技』が出版されたのが2001年12月である。
時代精神なんてものがあるのかどうかは分からないが、とにかく、"それ"として楽しめていたものの裏側に、興味の主眼が移った時代が間違いなくあって、それを暴くことが流行った時代があった。それを経た今では、無邪気に「超能力」とか「プロレスは真剣勝負」と言えなくなって、ベタな人(プロレス用語なら「マーク」)は絶滅危惧種になってしまったのである。
こういうマジックとプロレスを繋げるようなことを、批評として、やっていきたいなあと思っている。

僕が繰り返し、「人間が」「人間は」って言っているのは、僕も人間だからです。人間がバカで愚かだったとして、その原因は、国籍でも人種でも性別でもなくて、人間に内在している問題なんだって、いつも思うようにしていて、「あいつら」と名指せる人々がバカで、自分は違うと考えたら終わる。僕も、あのバカのように、バカかもしれない。バカになるかもしれない。バカにならないようにしよう。僕も同じ人間なのだからって、思うようにしている。気を付けている。誰もがそう思うようになったら、少し良くなる気がする。

充電器が壊れてからひと月、買い替える金もなく、しょうがなくスマホの充電をパソコンからしていたのだが、思い切ってACアダプターを買って、コンセントから充電したら、見違えるような早さでフル充電になり、とっても感動したのだが、俺の感動、安すぎないか?

ワールドカップ見てて、ボールを保持する側が苦労することが多いなあという印象を抱いている。守る相手を崩す技術の向上より、しっかりとセットする守備戦術の進化の方が進んでいる、ということなのだろうか。
攻めると守るが一体なのがフットボールの面白さで、人数をかけて、ポジションを変えながら攻めると、ボールを奪われたとき、守るとき困るという、当たり前だけど難しいジレンマを、攻める側は抱えることになる。ここをどうするのか。わりと、中盤に守備能力が高い選手を起用するという、それソリューションなの?という解決法が一番有効な気がする。フランス(カンテ、マテュイディ)とか、ブラジル(フェルナンジーニョ、カゼミーロ)とか。
あと、強豪国と目されていない国に、カウンターに適した選手が結構居て、それは、育成もセレクションもそうしているということなのかな。日本はどうしていくべきなのでしょうね。「日本らしい」ってことで、あくまでもバルセロナ化を目指すのかな。
追記:「ドイツ-スウェーデン、始まらないな」と、テレビ横目にこれを書いていたが、あまりに始まらないので、さすがにおかしいのではと番組表を見たら、実はチャンネルが違っていて、もう後半が始まるところだった(戸田さん解説じゃん!)。
試合展開は、やはりボールを持つ側が苦しんだのだが、結果はご存知の通り。最後のゴールは、夜明けの時間に声が出るほどに興奮し、「こういうの見るために、スポーツ見てるんだよな」って思った。テンションが上がったら、外に出たくなって、朝方の散歩に出かけると、きっちり雨に降られてしまった。

朝の風景。
追々記:その後、ドイツがグループリーグで敗退することなど、この時は全く予想できなかった。勝者は研究されるし、気負うし、勝ち続けるというのは、難しいよな。

ブログ「いらけれ」

『GINZA』7月号の、細馬宏通先生のコラムを読んで感動したり(こういうのを待っていた。詳しい分析が読める幸せ。「TT」の韓国語の歌詞と踊りに対する洞察。やっぱりこの曲はすごいし、作った彼らはすごい!……で、作詞のSam Lewisって誰!)、用事で新宿を通過して、そこに暮らすホームレスの方々の前に置かれた箱のことを考えたり、W杯のマッチレビューを読み比べたり(書き手によって試合の印象が結構違うのが面白いなあ)、いろいろしています。思うところもありますが、詳細は書きません(ブログとは)。

「効率とかは度外視で、何かの当事者になってみるところから始める人たちの豊かさが、スポーツを観ることにはあって。そこに楽しさがあるんです」

「サッカー観る人々の悲喜こもごも 津村記久子さん新刊」
最近読んだ記事で、特にいいと思ったのはこれだなあ。サッカー関係だけど、サッカー関係なく。津村さんの本読んだことなくて、申し訳ないのだけど。
サッカーをスタジアムで見るのと、どこか別の場所で見るのには大きな違いがあって、それは応援とは何かという問題にも関わっていて、ライブ映像に声をかけても結果は変わらないけど、競技場で声を上げることには、ちょっと別の意味がある気がするから、人間は頑張れと言うのだろう。
そして、応援は応援される者のもののみならず、応援する者自身を変えるし、応援する者のためのものでもあるのだ。って話を読みたい方は、「「なぜ応援するか論」を受けて~Twitterの使い方論」をお読みください。僕が、もうちょっと詳しく語っていますので。
あと、上澄みを掬わない、良いところだけ食べないというのは、僕も考えるところであって、過去に


というツイートをしたわけだけど……例えばTWICEについてだって、無責任な観光客として、上澄みだけを味わっていたのではないかと、過去を顧みて反省した。もっと、我を忘れるほどでなければならなかったのではないか?
ちゃんと当事者になること。コスパを越えて、当事者へ。分かってる奴になる必要はない、踊ってる奴になる必要があるのだ。


いまさら聞けないスナイパー【WOWOWぷらすと】

当事者という意味では、この国井咲也さんの語りがすごいと思った(国井さんは当事者ではありません)。詳しすぎるということ、それはもちろん勉強になる(しかし、どこでこの知識を使えばいいのか笑)ということもあるんだけど、なによりその"過剰さ"がおかしい。何かについての自分も、傍から見たら過剰なのかもしれなくて、でも、それは祝福すべきことなのだ。そう思った。
撮影とは狙撃であるということが、映画などを通して明らかにされていく(どちらもshootingである!)後半部も面白く、そして、立川吉笑さんはPUBGのやりすぎ笑

これは実話なんだけど、狭い道を歩いていた帰り道、おばさんがアパートから出てきて、雨が降っていて、少し肌寒いのに半袖Tシャツで、自転車に乗ろうとしている。狭い道だから、見るというか目に入ってきたそのおばさんのTシャツには、とても大きな柄の自転車が書いてあった。

メディアって本当に媒介しているだけなのだろうか。テレビを見ていたころはテレビで、ツイッターを見ていたらツイッターになってはいないだろうか、認知が。メディアは、僕たちの世界認識を、その仕方を変えてしまっているのではないか。
どうやっても認知は歪められるものだとしても、「インスタ的に世界を見ている」だとか「フェイスブック的に物事を考えてる」といったことに対する警戒を怠らないようにしなければならない。僕も、ツイッターで歪んでいることを自覚しなければと、ツイッターというコップの中の嵐なんて全く関係がないといった感じで、ただおしゃべりをしているおばあさんを見て思った。すでに僕はツイッターだ。

ブログ「いらけれ」

「2018/06/27 今日のボイスメモ」

(いろいろなスキャンダルの、事実関係は分からないけど)文学、思想周りで"先生"と呼ばれるような人がしてたって話読むとゾクゾクする。文学とか思想、役立たねー!!はっはっは(乾いた笑い)。
ハラスメントって、権力(単純な意味ではなく、複雑な意味のパワー)の問題なのか、つまり、権力が人を変えてしまうのか、いやいや、セクハラする人間は、元からそういう人間性だということなのか。それすら分かんなくて(どちらもある、というだけかもしれないけど)。
では、ハラスメントしてしまった人をどうするのか。色々辞めたり、お金払ったりっていうのは当たり前として、その後のことについて。すでに、反省や改心というのは「『人間は本当に反省や改心をできる』と、人間が信じられるのか」という問題になっていて、そしてそれは、おそらく信じられなくなっているということは、よく書いているわけだけど。
一度問題を起こしてしまったら"そういう人"として、なんかアカン奴箱にいれて、以降、その人のことは(何があろうと)嫌い続けるみたいな感じじゃあないですか、モード的に。でも、それならもう、人生とか何十年も生きる必要なくね?って思う。
しかし、問題発言をしても、なんか"そういう人"というキャラになることが許され(?)、当座謝罪して終わり、そして新たな問題発言へ……みたいな政治家とかもいてさ、それにも腹立つ。
それにしても、ハラスメントって何でするんだろう、俺も権力持ったらするんだろうか……と考え、いや、すでにアレはセクハラをしてしまったのでは……と思い当たる記憶があって、もう、土下座して謝りたい気持ちだ。

多摩川のバーベキュー客のゴミ問題のニュースを見た。その土地で生きているわけではない、そこに責任を持たない人(≠観光客)が、非倫理的振る舞いをすること、それはしょうがないと思った。人間は、自分と関わりがなかったり、自分に被害が及ばないとなると、とたんに頭が悪くなる感じがする。もちろん、思い入れや責任を持たないからこそ、思い切ったことができて、それが良い方向に行くこともあるのかもしれないけど、でも、やっぱり無責任には弊害があると思う。
そこに住まない無責任な馬鹿に倫理的な行動をさせるのは無理だから、環境とか状況をいじったり、罰則等の制度を作ったりして、望ましい行動をさせるように導くしかないのでは?と考える僕も、もう人間をあんまり信用していない。

時代の精神分析みたいな視点があって。あと、強く「倫理的でいなければならない」という強迫観念があって。しかし、文章の命は、物事をちゃんと考えてるか否かで、文章なんて、ちゃんと考えてさえいれば十分なのではないだろか、と思ったりする。

しゃべり疲れて寝ていた。昨日書かなければならなかったはずのブログを今書いている。最近、面接でよくしゃべる。いろいろ聞かれるから。しゃべると、自分が思ったよりしゃべれることにビックリする。セネガル代表についてとか、セネガル戦の予想とか、将棋界についてとか、別にそんなに真剣に考えているわけではないのに、聞きかじったことを、その場でプレゼンできてしまう……。ただそれは、サッカーについての文章とか、将棋界の動向とかを普段から追っていて、その時にちゃんと心が動いている証拠だとも思う。つまりは自分が、サッカーのここおもしれーとか、将棋界のここすげーっていつも感動してて、それを言葉にしているだけなんだなって。
追記:セネガル戦は、もっと苦しむという予想だった。これはでも、サッカー好きな人はだいたいそうだったんじゃない?本番っていうのは、予想以上の力が出たり、予想以上に力が出なかったりもするものだ。しかし、あの試合に関しては、戦術面でも上回っていたように見え、それには驚かされた。

もうちょっとしたら、自分のブログを振り返ることと、自分のブログで特に好きな文章を語ることを許してほしい。積極的に許してほしい、あなたには。
「自分、好きだなあ」と、客観的に思うことはよくあって、でも、それも(行きすぎなければ)そんなに悪くない("そんなに悪くない"という奥ゆかしさが、そういう自分が、またいいと思ってしまう)。承認なんてなくても、肯定は、自己肯定は、自分でできるから、自分でするのである。
とにかく、将棋の自戦解説みたいに、その時の思考を言葉にすることと、自分をほめたいところを言葉にすることは、ぜひしたい。ただ、ブログを再開してそんなに日が経たない内にするのが恥ずかしい(自分好きなのも恥ずかしいぞ!)ので、もうちょっとしたら、ね。