ブログ「いらけれ」

今日、初めてコンタクトフォーム(お問い合わせ)から、スパムメールが来たぞ。なんか英語で、グーグルのポジションがどうの、ドメインがどうのこうのだから、このリンクをクリックしろ、よろしく的な。この、気分はロックンロールレディオショー、実態はチンピラのブログをやってる僕が、そんなのクリックするかボケーってのは、それはそれとして、スパムじゃないメールが、本当のコンタクトメールが全然来ないことが、僕の心を傷つけていたりするのだった。現実の厳しさ。だからもう、読んでる本に書かれてた面白い話は、教えてあげないんだもんねーって拗ねている。

評論や批評について、多産的な人ほど、自分の手持ちの武器で切ってしまいがちで、そういうのもういいよって思う。もちろん映画を見て、じゃあそれをプロレスで語ろうとか、社会学の理論で語ろうとか、そこに社会問題の映り込みを見ようとかというのは、好きだよ?僕も。でも、全部自分の得意なものにこじつけてしまうような人がいて、そうじゃないだろうと。対象を自分の側に引き寄せて理解するだけでなく、自分が対象に取り込まれるような、そういう揺さぶられ方をしようよ。自分が変わらないなら、芸術なんていらないじゃないか。

宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ
この難解な、かなり晦渋な文章をずっと前に読んでからこっち、自分も反応が遅れる未熟児的なところがあるのではないか的なことをよく思う。別にソクラテス的な無知を身につけているとか、そういうわけではないのだが。
常識とか通念といったものに対して、「それはそういうものだ」と、納得してスルー出来ずに、いつも「なんで?」って思ったり言ったりしてしまっていて、これは性分ということなのか分からないけど、常にそうだ。ずっと、自分のダメさだと思ってきたけど、そして基本的にはダメなんだろうけど笑、それも一つの役割だと思って、「もーしょーがない!」と、運命を受け入れていく(しかない!)。

もう面接を受けてから2週間経つというのに、その企業からメールが来ないし、本当にマジギレといった感じなのですが、あんまり怒らずに別の企業の面接を受けたらクソで、本当に出かけなければよかったと思った。梅雨があけたっていうくらいに超暑いのに、わざわざ高田馬場まで行ったというのに!
僕はそういうの余裕だから、怒って、面接中に態度を詰ったり(なんで三人座ってて内二人が仏頂面なんですか?いらなくないですか?てか、そもそもメールの返答遅すぎだし、面接時間に行ってるのに待たされるし、なんですか?ウチナータイムで仕事されてんですか?)、その出版社の雑誌の不買運動をしたりはしないよ。でも、本当にムカついてはいたんだけど、電車に乗って、一駅前で降りて、家まで大きな霊園を抜けて歩いて、それで玄関の前まで来たときに、雲のない空を鳥が二羽飛んでるの見たら、どうでもよくなった。空の広さに比べたら。

小説家と言われる人たち、小説を書いている人たちがエッセイやコラムを書くことってよくあるじゃないですか。僕もよく読むし、面白いと思うことも多い(小説とエッセイの違いってなんだよって話はまた今度)。それで、ライターと自称する、他称する人たちも、もちろんエッセイやコラムを書くことはあると思うんですよね。普通ですよね。でも、ライターの人が小説を書くことってあんまないですよね。ライターなのに書かない。
僕は小説家ではないし、ライターでもない(今のところ。もしかしたら7月中になれるかも?)から、関係ないんですけど、でも、面白い文章が書ける人が小説を書けないわけがないのだから、ポリシーがあるとか、そういうことじゃないんだったら、書いたらいいと思うんです。書けないと思っている人は、それは「小説」というものを高い位置に置きすぎていたり、特別視しすぎていたりするのではないでしょうか。ライターという肩書のまま小説を書き、それ以降も小説家とか作家とは名乗らないという行為それ自体がもう変わっていて面白くないですか?面白くはないですか、そうですか。
じゃあ、最近CSで見る通販のCMに小説家とか文化人がよく出るようになったのなんで?って話をしますか。高橋源一郎が掃除機かけてたり、角田光代が枕をおすすめしたりしてたぞ。(あと文壇について、いろいろ思ったりもするけど、文壇が誰かを排除する権力、付き従わせる権力として機能していたなら、今の文壇なんてなくなってしまえばいい……のかもしれない。)

ブログ「いらけれ」

これだけコンテンツが溢れている現在、自分が読むものだってそうだが、読まれるためには権威になるしかないと思った。大学の先生が書いているから読むとか、そういうことしかないでしょう。僕は権威じゃないから、現状厳しい。なにかしらの方法で、読む動機としての権威付けをしなければならないが。
今のインターネットの人気コンテンツはコミュニケーションそれ自体であって、夢のインターネットはなくて、とにかく現実で周辺にいるような人、アウトサイダーには向かないもので、アウトサイダーの不遇感や憎悪を増幅しているだけになってしまっていて、それに対して、アウトサイダーを煽らないようにテクノロジーで手当てする方法もあるのだけど(ニコニコ動画の、みんなからNGにされたユーザーの発言は、そのユーザーは気付かないが誰にも表示されなくなっている、とか)、それは然るべき人がなんとかすればいい問題だ。
僕は、僕の仲間たちに言いたい。インターネットコミュニケーションなどせず、ただ表現に向かえ!と。歴史が証明するように、評価されるということはアクシデントでしかないのだから、どうでもよくって、とにかく部屋に籠って、石を拾って、作るような行為がそこにあればいいのだ。
だから僕は、アピールも権威付けもしないし、コミュニケーションもしないよ。書くのみだ。

芸術の再現不可能性。素晴らしい芸術を、批評的にリバースエンジニアリングし、完璧に分析、解析したところで、同じように素晴らしいものを作れるわけではない。それは、分析しきれない成分が必ず混入しているということでもあるし、分析と制作がそのままつながらないという芸術の特性にもよるだろう。
また、素晴らしい芸術作品を作った当人にも再現は不可能で、これでこうやってこうなったのだから、同じような手法で次を作れば、同じように素晴らしいものになるだろう、ということが通用しない。それは、ある手法にはある表現しか合わないということだろう。だから新しいものを作るときは、手法そのものを発明する必要があるということだ。
もちろん分析も手法の知識も無駄ではなくて、それは、いつかのどこかで新しいものに"化ける"。あるいは化ける栄養になるように、堆積させておくこと。そして作れ、心と体と頭を総動員して。


『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』

今一番読みたい本がこれ。先崎九段が将棋の解説のとき「こんどの本はヘビーな内容」って言っていて気になっていたけど、「うつ」だったのですね。
僕は「うつ」と診断されたことはないけど、違う病に、もう苦しんでいるってほどじゃないけど、かかっていて、病気に対して、やはり社会の無理解というものがあり、それには苦い思いもしたから、だからこういう本を出版する勇気は、やはりすごいと思う。
「うつ」には、書くことで治していくやり方もあるらしくて、この本も、もとはそういう側面から書かれたのかもしれないけど、とにかく、僕も「うつ」に関しては知らないことも多いから、勉強の意味でも読んでみたいし、そもそも先崎九段の本だから面白いだろうという信頼感もあって読んでみたいと思った。

スワローズのサヨナラ勝ち(山田哲人のホームランを見て「ぴゃー」と叫ぶ)を見て、いい気分で日本代表のポーランド戦の観戦へ。
前半、コンディションも考慮したのだろうが、選手を変えてバランスを崩した日本と、プレーの強度が弱くワンチャン狙いしか攻め手のないポーランドという感じで、両者良くない試合をしていた。
後半、「一発が怖いな」と思っていたら点を取られた。「ダメか……」ってなってたけど、コロンビアが点を取ってくれて、負け抜けの線(フェアプレイポイント!!)も出てきた。そして、日本は負けていながら守り、時間を潰すという選択肢を選ぶ。セネガルが負けて(コロンビア様!!)、日本は決勝トーナメントに辛うじて進出することになったのだった。
負けながらにして攻めないという選択は、よかったのか悪かったのか、いろいろ意見はあるかと思うけど、こういう状況を経験していくことが未来につながるのだろうし、これをどう思うのか、あれを良しとするのか否かを議論していくことが「日本らしいサッカー」の日本らしいとは何かを決めていくのだろうし、とにかくいいものを見たと思ったよ。

僕のポッドキャストが更新されました。「2018/07/02 今日のボイスメモ」
ここで「作品にまつわる全てのエピソードが公開されるべき」ということを語っているわけだが、これを聞きながら、昔「僕とTWICE」でアンチ裏話(というかアンチ噂話)という態度を書いたことを思い出し、僕は変節したのか、あるいは噂話と当事者の語りは別なのか、自分でも整理はついておらず、皆さんがそれは好きにとらえてもらっていいけど、とにかく、まず聞いてほしい。

ブログ「いらけれ」

ポッドキャスト番組「佐藤大のプラマイゼロ」が更新されて歓喜した。映画とかゲームとか、全然詳しくない身としては、知らないカルチャーを知ることができるのも楽しい(「デトロイト」「ファークライ」「犬ヶ島」。全部タイトルやあらすじは知ってたけどね)。でも、それよりも、文化や社会に対する批評が聞けるから、とても好きなのである。直感と考察による深い内容!
この番組のように僕も書きたい、しゃべりたいって思っている。だから、僕の「ボイスメモを公開する。」を聞いてくれている方は、こちらを聞く前に、「プラマイゼロ」を聞いてください(そんなハードル高いポッドキャストある?)。


アニメ井戸端会議(2018年5月31日配信)【WOWOWぷらすと】

「アニメ制作現場のひどい話を聞くと作品が楽しめない」って話、これ難しくてさ。例えば、「主演の女優は、3カ月間ほとんど眠らず、この映画の撮影に挑み……」的なものって、一つの武勇伝として語られたりするものでしょう?つまり、その作品にまつわる周辺のストーリーって、それがひどい労働環境の告白であっても、文脈や受け手によって意味が変わってしまうのでね。あるいは、「ラストタンゴ・イン・パリ」の制作過程において何が行われたのかについて、もう知らないでいることは許されないだろうし、それを無視して「芸術でござい」みたいなナイーブな態度は取れないでしょう。
もちろん、ただの愚痴みたいなものも、"盛った"エピソードもあるだろうし、語られる全てを鵜呑みにしろとは言わない。僕はしかし、作品に関するあらゆる情報が明らかにされることを望んでいる。明らかにされた上で、楽しめないなら他のものに行けばいいし、それでも楽しむという態度だって取っていい、なんならそんな情報は見ないという選択をしてもいい、という人なのだ。僕は。
作品にまとわりつく断片を、丁寧に拾い集めることからしか見えてこない世界があり、後の人が理解する、研究するときに、エピソードが重要な役割を担うことだってある。だから、口が開かれる契機を阻害してはいけないと思っている。あなたがその言葉を見たくないのなら、ただ目をそらせばいいのだから。

未来を見通すことはできなくても、ただ今を生きることはできて、だから僕は図書館へ行った。僕の財布では買えない本に触るために。借りたのはホイジンガとスティグレールとヴュナンビュルジェだ。「だ」って語尾だが、スティグレールは名前だけ、ヴュナンビュルジェは名前すら知らなかったのだけど借りた。生きてきた経験による勘と、あと、読んでみたいと思ったからだ。正しかったかどうかは、これから分かることで、その答え合わせを楽しみにしている。
それと、僕は「VRジェットコースター」について考えているわけだけど、それについて考える材料として、広く「遊び」にまつわる言説を探していて、本当はカイヨワを借りる予定だったのだけどなくて、ホイジンガにした。影響を受けていると、Wikipediaで読んだから。
本は二週間以内に返却せねばならず、おそらくそれまでには読むだろう。読んだらまた、何か書くかもしれないし、期待していてほしい。

「この間、気がついた。お坊さんが読むお経のようなもの。日課だがメインではない。毎日書くが完成度はどうでもいい。そう考えると書き方が変わる。本来人が生きてしゃべって考えるように書けば良い。僕の小説は脈絡はないが飛躍はある、一貫性はないが矛盾はある」

「「# Me Too」「ハイデガー」「ネコトーク」 三島賞など3賞贈呈式、3者3様のスピーチ」
僕がぼんやりしていることも相当確からしい。だからか、保坂和志さんの、この発言にちょっと背中を押されて、また、書き出すことができた。それまでは書けず、主に寝ていた。
こと論理的な何かで評価されがちな世界に対して、論理的でないということが生み出すものが、全ては裏表だからあって、そして、それがあればよいという考え方。書くために生活があるのではなく、唱え繰り返すように、ただ書くという考え方。むしろそれが生活を作るのだという考え方。書くようにあるのではなく、生活が、書かれるようにあるということ。
そして、もしかしたら、聖書についてもそういう人が多いのかもしれないけれど、少なくとも、お経を面白いから読むという人はいなくて、もっと別の何かだからこそ読む。そうやって読まれるためには、世間で面白いと話題になるものなどその程度なのだから、そうではなくて、ベストセラーとは別の言語世界を立ち上げなくてはならないのだということ。
やるべきことが分かれば、あとはやるだけだ。

「2018/07/02 今日のボイスメモ」

ブログ「いらけれ」

6月だってのに(読んでいる皆さんは7月ですが)今日(26日です)も暑くて辛かったが、公園でポッドキャストを収録している内にご機嫌になって、ご機嫌で録音を確認したら、すごいノイズが入ってて使えない。聞きながら歩いて、昨日はもう行かないって言ったけど、気が変わったので図書館に行ったら、6、7、8月の中の火曜日で唯一の休館日だった。圧倒的な不運の前に膝から崩れた。
それで、次の日に録ったのが「2018/06/27 今日のボイスメモ」なのだけど、内容についてはこんなもんだと思ったんだけど、どうしても一回目にしゃべったことに引っ張られてしまって、それがもどかしかった。いつも、それなりに考えてから録音は始めるけど、とはいえその場の即興でしゃべるってところに、自分がポッドキャストをやる上での楽しみがある。しゃべってる内に、ブログを書いたときには考えていなかったことが思い浮かぶのが楽しいし、ギャグやユーモアをいかに入れられるかが勝負だと思っているのだが、その即興性は、二度目ではなかなか生み出せなかった。しゃべるのは、やっぱり難しい。

「自信を持つには | よみもの.com」
最近読んだものの中で、コレ、特に面白かった。山崎さんの本読んだことなくて、申し訳ないのだけど。
山崎さんの、自身を「文学者」であると表明する強さや、多様な読者への配慮や、自分の考えであっても点検する態度も良いし、ここで書かれていることについて、「文章が上手い」って何か分からないから上手いとは言わないなら、文章が魅力的に響く。僕に。夜中に連載を全部読んで、深く考え込んだし、ここで問題にされていることについては、僕だって考えている。たぶん、ちゃんと書くと3000字超えると思うので、ここでは書かない(読みたい人は直接メールしてください、返信で書きます)が、内容に違和感があるところも、意見が違うところもある。でも、要所で漏れてくる山崎さんの社会変革系のマインドは、社会良くしていこう系の僕も共有していて、勝手に、共闘するような心持ちになった。(しかし、理想のきれいな世界では「何も言えない」「息苦しい」などと言う、それでは生きにくい人もいて、もちろん、被害をなくしていくことが先だと思っているけど、その世界も、全員は幸せにできないんだという事実は、忘れないでおきたいと思う。)
で、ここまでは脱線で、僕が書きたいことは自信についてだ。僕は、文章やしゃべりをほめられたこともないし、評価された経験もない。文章とかしゃべりが「ブス」かは分からないけど、自信は持ててこなかった。でも、僕も自信が出てきていて、それは、ここで書かれているようなスモールステップをクリアしてきたことに起因しているのだなあと思う。調べる、サイトを作る、エラーをなくす、レイアウトをいじる、そのつど調べる、ブログを移転する、毎日1500字以上書く、ポッドキャストを始める。全部、あるとき突然思いついて、やりたくなったからやった。しかし、思いつきを実現する度に、自分の中の自信が、少しずつ大きくなっていった。保坂和志botに、


というのがあって、これも同じこと。
結局、自分の清潔さ、ご機嫌さは自分で得るしかないし、自分で保つしかない。比べて上手くなくても、自分の最大限を出し、少し成長して、満足感を得ながら次へ向かう。僕が今いい感じなのは、僕のおかげで、これからも僕のために、僕がやっていこうと思った。

思い出せないことばかりで、今、思い出したら、ブランコからふわっと落ちた体の感覚を思い出した。あの時、頭を打って、幼少期のほとんどを忘れたのかもしれない。頭を強打したとき、ケミカルなにおいがして、仰向けに止まってしまって、とても心配された。でも、全然痛くなくて、痛くないことに驚いていた。
思い出していたら、子どもの僕の額の真ん中に痣がある写真があったことを思い出した。それはもっと昔、物心つく前に、柱に突進して付けたものだったそうだ。

速報的にお伝えしますが、全ページSSL化されました。あと、アドレスバーがhttps://となっていると思いますが、そのsを消してもリダイレクトされるようになっているかと思います(SSLって何っていうのは……ググってください)。
サーバーはロリポップを使っていて、すでに独自SSLを無料で取得してはいたが、しかし、よく分かっていなかったため、取得したはいいもののhttpsで表示しても、「完全に保護されていません」と出てしまうから放置して、httpの方でいろいろしていた。
だが、一つの記事を上げたとして、それがグーグルの検索結果で表示されたときに、httpとhttpsのどちらが出るか、ランダムになってしまっていて、これちょっとよくないなーと、そこからちゃんと調べ、細かくサイト内のアドレスにsを足したり、他所で登録されているアドレスを修正したりなどを、黙々と作業した。約3時間。
これすると、検索に有利らしいのだが、どうなるのだろう。訪問してくれる方が増えると嬉しいのだが。つか、そのためだけにやっているわけで、ぜひクリックしてくれーって、ここでいってもしょうがないんだけど。