ブログ「いらけれ」

日本代表がワールドカップのベスト8に一番近づいた瞬間を見終えて、これから先、こういったチャンスをまた見られるだろうかと考えていた。だって代表選手の年齢層は高かったし、替えがきかないキャプテンは代表引退するし、協会はアレだし。
ベスト8になるには、日本のようにベスト16で喜ぶのではなく、「ベスト16突破は余裕でしょ」という強豪国のように、対戦相手だったベルギーのようになる必要があって(ベルギーだって数年前はワールドカップ出られなかったりしたのよ?選手が揃えば、強豪国の仲間入りだってできるはずだ)、そのためには、チームをサポートする人が有能でなければならないし、国民のサッカーリテラシーを上げなければならない。そういう意味では、様々な良記事が出てきたり、詳細な分析がなされるようになったりと、語られ方に関しては希望が見えた。それを、サッカーファンのみならず一般に広く伝えていくことと、なにより協会の体制が変わることが必須だ。これがなされないのならば、ベスト8なんて、そういうチャンスはもう来ないかもしれない。

過去の日記の一部を表示したときに、アドレスバーが「保護されていません」となってしまうものがあって、どうやら古いアマゾンアソシエイトのテキストリンクが悪さをしているらしかったので直したり、リダイレクトを設定していた記述が消えていて、リダイレクトされなくなっていたので再度書き込んだりしていた。とか言って、本当にサイト運営に関しては、よく分かっていないことばかりで(だってテキストリンクなのにimgタグが使われてた理由も、記述が消えてた理由も分かんないんだもん)、謎ばかりだ。と、僕はこのようにしか書けないわけで、他の本の盗用を疑われる書き方なんてできないし、参考文献に挙げるどころか、おそらく本文に「『○○』の中で……」と書けるような小説にするだろう。それが可能性を狭める手法だとしても。
この情報化時代に、そうとうな度胸だ、ふてえ奴だ、と思う。僕みたいな小心者ではない、そういう人にしかできないこともあるのだろうな、と思う。

とっても優しく書いている。僕だって、『聖なるもの』を読み終えて(入門書という性質上、内容は詳しく突っ込むというより概覧的といった感じだったけど、面白かった……文章はすげー難しかったけどな!)、今読んでる『偶有からの哲学』みたいに、大仰で小難しく、古代ギリシャから語ってみたいよ?学がないから無理だけど。
そうそう、この本はフランスの公共ラジオ局フランス・キュルチュールってとこで放送された対談が元になっているらしいんだけど、「フ、フランス……すごい」って思った。だって、やっぱりそれなりに難しいんだもん。ここまでの内容だったら、日本のラジオじゃ放送できないだろうし。
あと、神話とか本当に知らないこと多くて恥ずかしいんだけど、エピメテウスが「うっかり者で、常に何でも慌ててしようとする、しくじってばかりのいわば粗忽者です」って書かれてて、なにそのあるある俺じゃん、ていうか萌えキャラじゃん(俺≠萌えキャラ)と思った。
とりあえず読み途中なのでここまで。

「2018/07/08 今日のボイスメモ」

ブログ「いらけれ」

「渡部直己氏の問題と教育と批評 : 矢野利裕のEdutainment」
文芸評論業界、あるいは文壇と呼ばれるものにはとんと疎く、ただ問題が起きていることだけは知っていて、誰が何を言うのかについて、それなりに注目はしていた。
もちろん、何か事件が起きたからといって、過去につながりのあった人はすべからく発言すべき、なんてことはないって、こんなことをわざわざ言わなければならないのが、めっちゃ現代っぽいわけだけど。
まあ、旧態依然とした"業界"が温存してきた悪しき構造に、告発によってメスが入っていくのは必然だと思えて、元々がおかしかったのだろうから、こういうことによって環境が変わっていけばいいなと、部外者はこれくらいしか思わない。
僕が、この文章で感銘を受けたのは、やはり教育についてで、「そこで受け渡されるものは秘伝の教えなのだ」みたいな言い訳によって、ずぶずぶの関係やゆるさが許容されていた大学的なものとは違って、中学校という知識人の知りえない現実の現場で、もっと誰にでも開かれたものでなければならない、それでいて使える手段が限られている、しかし、教えるんだという矛盾の最前線から放たれるその言葉は重い。そして、そこで批評的な専門知を伝授していくことこそ必要な実践なのだというハーコーな姿勢と態度が、とてもいいなって思った。

本当に暑くて八月みたいな七月だ。ポッドキャストのためにしゃべりながら、自分が焼けていくのが分かったし、腰かけたベンチは灼熱だった。八月になったらどうなってしまうんだろう、東京。鞄を開けて、水を取りだした。そのとき、それは起こった。
僕には、言えないことが多すぎる。書くと恥ずかしいというのもあるし、書いて伝えるだけの力量が足りない。僕の体、心、身辺、人生。ネタになるような、作家ならネタにするだろうアレコレを、これだけ隠していて、むしろよくこんなに書けているなって、才能あるんじゃね?って思わなくもないほどだ。
僕は、人生の真実を、死ぬ前に書き残すことができるだろうか。心が割り切れる速度、実力がつく速度と、死が競争をしている。

【音声配信】「ロックじゃなくて、ソウルだから・・・」荻上チキの髪型をどうするか?でチキ&南部がトーク▼2018年6月27日(水)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」)
(態度として)「ロックだね!」(音楽ジャンルとして)『いや、ロックじゃなくてソウル……』という珍しい齟齬のやり取りを想像したら、おかしくって笑った(詳しくは、音声をお聞きください)。しかし、二人の髪型史おかしいでしょ笑。まあ、そういう狂気が心の内にあることは、ずっと聞いてれば分かってたけどね!むしろ、だから信頼できるって気もするんだ。僕にも狂気があるからね。

ブログ「いらけれ」

「強豪国の苦戦が目立ったグループリーグ 効かなくなったハイプレスと撤退守備」
「必然のギャンブル?ポーランド戦、日本はなぜ機能しなかったのか?」
ワールドカップのグループリーグにおいて強豪と目されていた国が苦しんだ理由、しかし、弱小国が勝ち抜くまでは至らなかった理由と、日本-ポーランド戦についての詳細なマッチレビュー。どちらも明晰で、かつ面白くて、サッカーライティングの世界のレベルの高さと、その厳しさを思った。僕はサッカーライターにならないからいいけど。
さて、ポーランド戦の、あの最後の10分について、美学的に相違した意見があふれていることは、まあそれでいいじゃない?って思う。何を良しとするか、多様な方が豊かだからね。それはよくて、でもあの10分間について、「つまらなかった」という意見に対しては、僕とは違うなと思った。
スポーツだけじゃなくて、何かのライブだとかステージでもそう、そこでは超絶技巧や劇的な瞬間が見られることがあるだろう。それが見たいという気持ちは分かるけど(もちろん、僕だってそれも見たいけど)、観客としての喜び、面白みってそれだけなのだろうか。
誰かが失敗したり、とちったりする瞬間、いや、そこにも届かない停滞、空白の瞬間。ずっと見せられたら辛いだろうし、お金を払って見たくないという思いも分かる。でも、最後の10分、日本の選手と監督の表情や、ポーランド選手の動き、実況や解説が何を言っていたのかとか、その細かな変化や情報を集めて、自分なりに行間を読むことだって楽しい。そうやって自分なりの想像の物語を紡ぐことだって面白いはずだって、そう言いたい。

ワールドカップを見ていたら、その試合に出ていたある選手が、10年くらい前にプライベートの性的な動画を流出させてしまった事件を思い出して、それで、ツイッターでそれを茶化したつぶやきをしようかと思ったんだけど、寸前でやめた。男だろうと女だろうと、有名人であろうとなかろうと、つまり誰のものであろうと、そうした動画を広めていいわけはないし、そういうことを茶化してしまうような「ネット文化の感じ」こそが嫌いだったのだし、と思って。
寸前でやめたことは、記述されないかぎりどこにも残らず忘れられていく。だって僕以外誰も知らないんだもの。でも、なにかをなしたことより、なにかをやめた、思いとどまったことの方が、重要だったりするんじゃないだろうか。やれ!という啓発はあっても、やめとけ!という忠告は少ないけど、だって、人殺しにはそれこそが必要だったわけだし。

久しぶりに読書すると、本とネット上の記事はなにが違うのかというメタ的な考察も含めて、面白いことがいっぱいある。本当に適当に借りた本に、同じタイミングで借りた本の著者の名前が出てきたり。ヴュナンビュルジェ読んでたら、カイヨワとかホイジンガ出てきたよ。びっくりした。
で、もう本の返却起源まで時間がないですし、考えて発信するよりも、今は取り込む時間な感じなので、この先の数日間、ブログがちょっと短くなるよーというお知らせです。全ページSSL化したらアクセス数が増えていて(二つあったアドレスが統一されたから増えただけかもだけど)、読んでくださっている方々には、大変心苦しいのですけど、「あばばばば」とかで文字数を稼ぐのもアレですから。ご容赦くださいまし。

本棚を見ていたら、完結する前に読むのをやめてしまったマンガ群が目に入った。物語が閉じる前に、もう満足というか、いいやってなったもの。それ以上先に進むつもりのなくなった物語。小説だと、なかなかそういう気持ちにならず、最後まで読んでしまいがちなのは、一冊に収まっているということが大きいのかもしれない。そういえば、BOOK3まである『1Q84』(なつかしい)は、途中で読むのやめてしまった。シリーズ三冊、全部そこの本棚にあるけど。

ブログ「いらけれ」

「僕(たち)は、あらゆる大きな歴史の、その大河の一滴に過ぎない」というのはロマンティックで、結構うっとりできるものだ。甘い言葉。でも、現在の現実は大河ではなくて、ビッグデータの一滴として解析、データとして利用されていく人生だ。そこに、そこはかとなく漂う虚しさ。僕の無法も、偉業も、何したってすぐに情報に分解されて、アーカイブされてしまう。そして次の誰かへ使われてしまう。僕の唯一無二の人生だったはずのものが。
このことからはもう逃れられないのであって、人間は情報の組み合わせではないのだから、データベースに意味はないって、本気で思えていたときはよかったのにね。

少し前の話で恐縮なのだが、第7回「マキタスポーツ食道」にて取り上げられたテーマは、カツ丼だった。番組で話されたマキタさんのエッチな食べ方も面白い(わざとご飯に汁を吸わせて、少し冷蔵庫で冷ましてから食う)のだが、ここでは、こうしたキッカケでもないと紹介しないだろう「カツ丼理論」というものを紹介したい。

星野智幸(作家)×鴻巣友季子(翻訳家) 物語の魅力は終わらない

ここで、星野さんの小説『夜は終わらない』に絡めて、鴻巣さんが説明しているのが「カツ丼理論」である。もとは、龍谷大学教授の廣瀬純さん(実は以前、ブログのフィクション部分の中で、廣瀬さんの言葉から着想を得て書いたものがあるのだ。さてどれか、探してみよう)が提唱したもののようだ。
曰く、あらゆる芸術は「骨=形式、フレーム」と、「肉=中身、内容」からできている。
では、カツ丼(芸術じゃないけど)はどうだろう。カツ丼は大きく見れば、ご飯という骨=フレームと、卵でとじたカツという肉=中身でできている。しかし、さらに分割して見てみれば、卵でとじたカツは、卵というフレームと、カツという中身でできていて、またカツは、衣というフレームと、肉という中身でできている(僕は、「器と、カツの乗ったご飯もじゃん!」って思った)。
つまりカツ丼は、骨であった部分が、あるところでは肉に変わり、肉であった部分が、別のところでは骨に変容している。そしてこのように、骨と肉の関係、形式と内容が質的に変換、変容し続けるものこそが、素晴らしい芸術なのだ、と。(そして、『夜は終わらない』という小説こそ、カツ丼理論に当てはまるのだという。)
これ、面白いなーと思った。いろんなものに当てはまりそう。しかしこれ、完全に書き起こしただけなので、とても申し訳ない。だが、皆さんに教えたいので、ここに残しておく。

気分気分で生きている。今日もラジオを聞きながら、ふとした気分でダイエーへ行ったら、そういうえば100均はなくなってたんだけど(9月から新しく、別の100均チェーンになるらしい)、隣のスペースで売り尽くしセールをやっていて、何気なくのぞいたら、半間用カーテンというのが、とびきり安く売っている。390円。部屋の一角をしきって、ラジオブース(のつもり)にしたかった僕は、喜んで買った。
早速、いや、夕方帰ってきて、野球を見て、ゴキブリが出たので部屋を片づけて、あのすごい試合だったワールドカップ決勝トーナメント一回戦フランス-アルゼンチン戦が始まる前に、もう渡してあった突っ張り棒にかけようとするも、カーテンレールじゃないから構造的にかけられなかったので、とりあえずガムテでカーテンの上を少し折って留めて、その隙間に棒を通した。
かかったカーテンは、そのポップな花柄とは裏腹に、非常な威圧感であって、僕は気圧されながら、これを書いた。

「働き方改革関連法成立。国会音声で問題点を整理 荻上チキ・Session-22」
「けーざいかい」とかに巣くう金の亡者たちがさ、この世にとりつかれ成仏できない魂のように、金にとりつかれているのは、まあ勝手にしてくれればいいけど、力を持ったバカなのは困るよな。逆効果になる制度を作らせるようなさ。まあでも、バカじゃないと金持ちになんてならないし、金は力だから、しょうがないのかもしれない。
しかし、頭がよく利口で、労働者の健康を増進する施策を打ち出すような邪悪が現れたら、そっちの方が怖いような気もするな。