ブログ「いらけれ」

「2018/09/12 今日のボイスメモ」
収録トライ、3度目のチャレンジにして成功したので、ポッドキャストが更新されやんした(みんな聞いてー、なんならコメントしてー)。実は、この日も公園にはお婆さんがいて、ぐるぐる歩き回っていたので(健康のためかな?)、片隅に腰かけて待っていたんです、15分くらい。こういった困難の先に、この音声があるのだと思うと、尊いもののようにも感じられませんか?やっぱり、どーでもいいものでしょうか。どちらにしても、なんだとしても、内容に関しては改善の余地ありって感じなので、もっと面白くなりたいです。

今日もまた寝すぎてしまった(約9時間)。疲れているからなのかな。寝たくないわけではないけれど、7時間くらいにはしたい。僕には時間がないのでね。でも、起きようとしても脳が真っ暗で、起きることができないんだよな。病気かな。

絵ということを考える。もちろん絵を見ながら、文章のことを考えている。絵は見れば分かる。絵は見れば分かるというのは本当か。見て、本当に分かっているのか。そもそも分かるとは何か。音楽だってそうだ。聞けば分かるのか、分かるとは何か。絵や音楽に触れて、心に浮かぶ何かが、なによりもまず優先されるべきなのか。それとも、対象の背景や構造を理解して見えてくるものがホンモノなのか。
文章を書くというのは難しい。読まれることを考えなければならない。まず読むとは何かということから考えなければならない。そして、読まれた先に何を残すかということを考えなければならない。ほとんどノイローゼである。

身体性身体性言いすぎというか、身体的に納得感があるものも、間違う可能性があるからこそ理性なんじゃない?って思うけど。もちろん『啓蒙の弁証法』的な?理性の暴走的な?なにかっていうのもあるのかもしれないけど、まずは理性が大事ってところから話始めないとアカンのではないのだろうか。

子どもだったころに、僕は大勢の人の前で、毎週のように泣かされていたように思う。友達たちに、僕のした行為をなんらか報告されて、帰りの会で謝らせられていたのだった。大声で叱責されて、涙を流していた。学校行くの、嫌だったな。今だったら、あの教師は問題になるのだろうか。

「深夜の馬鹿力」で、伊集院光が「哲学的なこと、小難しいことに逃げているときは、精子を出したいときだと、高校生の頃に思うようになった」って話をしていて、これ、少し前に千葉雅也がツイートしてたけど、フロイトのリビドーの話だよなあって聞いていた。

ブログ「いらけれ」

Bluetoothイヤホンの設定やら、イヤーピースの大きさのフィッティングやらをしていたら一日が終わってしまった。だから、今日一日で思ったのは、試合は見ていないし、詳細は分からないけれど、大坂なおみ選手すごいなあということぐらいだけだった。実は、今日もまたポッドキャスト収録のために公園へ行ってみたのだが、公園の正しい使い方をしている子どもたちがいて、また断念してしまった。明日もう一度チャレンジしよう。イヤホンは、とりあえず大きな問題がなく一回は使えてよかった。僕の解像度の低い耳では、音の良し悪しは分からなかった。

僕は、決してよく読んでいる人ではないけれど、よく聞いている人ではあると思う。今日聞いていたのは、東京ポッド許可局だった。今週の論は「ダジャレ論」。ダジャレは面白くないけれど、下らないのだというのはよく分かる。しかし、マキタスポーツさんってなんか思想家っぽいよなあ。だじゃれとは、勝手に生まれてしまうものであり、半ば自然に発生するようなものだ、というような視点の変更が、とても思想家っぽい。サンキュータツオさんは実際に学者で、プチ鹿島さんはジャーナリストっぽい。思想家、学者、ジャーナリストって感じに分かれているのが、面白さの源泉なのかもしれないね。だいたい、同じような人同士で、同じようなことを言い合って、うなずきあっていたらダメなわけでね。違う意見と出会って、そこで考えて、真剣に応答するのが面白いわけです。(あと、ちなみに僕は20代中盤ですが、天才バカボンのテーマを知っていますし、僕も、太陽の出る方向を思い出すときは、一度この曲を思い浮かべないて、それから逆だと思わないと分かりません)

「ネット時代の部落差別〜その実態と必要な対策とは」「荻上チキ・Session-22」
あとはこれを聞いていた。あらゆる差別の構造は同じなのだなと思ったし、差別を受けていない人が被害を勝手に少なく見積もって、触れなければいいなんて考えがちだよなって思った。とりあえず、ウィキペディアやヤフー知恵袋で調べたり、YouTubeで動画を見たりせずに、詳しく知りたい人はこれを聞けって環境は作れないものだろうか。

いろんなものを積み残している。時間は二倍にはならない。書くことをやめればあるいは……
しかし、真に見るべきもの、読むべきものなんて、ほとんどないだろう。どれも下らない時間つぶしでしかない。
本当に読むべきなのは、このブログだけである。

ブログ「いらけれ」

仕事帰りから、午前中までやる気がでず、ぼんやり過ごしてしまった。やはり仕事は辛すぎる。「働くこと」そのものが合わない人は、この社会では生きていてはいけないのだろうか?誰かからフックアップされる夢想をしているうちはダメで、自分で切り拓いていかなければならないのは分かるのだが、そんなエネルギーは僕にはない。横になりながらツイッターをしていたら、「そ、そうだったのかあ……そうだったのかあ!」という事実が発覚した。すごい人間同士の星座のつながりを知った。あの人があの人だなんて。そのことに誰も言及していないのは、無粋だからなのかな。しかし、この驚きは、誰にも正確に伝わらない(なぜなら僕を中心に起こったことだから)のが残念である。共有できないの辛いなあ、うぐぐぐぐ。

例えとして、よく「一流打者でも三割、七割は失敗するのだから」って言う。すでに誰もが使える言い習わしみたいになってる。でも、サッカーのストライカーのシュート決定率は一流の選手でも、三割より低いし(「プレミアリーグ、今季の「シュート決定率」TOP20」)。将棋の棋士は、六割五分以上勝たないと一流とはいえないし。医師は一流じゃなくても十割に近い成功確率を求められるし。だから何だというわけではない。

Bluetoothのイヤホンを、結局買ってしまった僕ですが(4割引のクーポンを使ってSoundPEATSのQ35PROが約2500円)(今届きまして、とりあえず使えることは分かりました。使い心地まではまだ分かりませんが)、結局「YesAsia.com」で洪申豪「bored」と透明雜誌「我們的靈魂樂」(合わせて買うと送料無料になるから……約4500円)を注文してしまいました。この浪費癖、僕はバカなんじゃないだろうか。大して稼いでないのに!しかし、ステータスが「入荷待ち」になってるの、怖すぎるなあ。ちゃんと届くのでしょうか……(ブログって、こういう普通のこと書いていいって聞いたんですけど……大丈夫ですよね?)。

検索から流入してくる人が減って、アクセス数が少なくなっている。でも、それはあまり気にならない。ツイッターから見てくれている方がいるというのも確かにあるが、毎日書いている文章が、自分が見たもの、感じたことを正直に書けているという実感があるからというのも大きい。
正直ということを考える。ここには事実ではないことも(これは一つの小説だから)ある。でも、自分の倫理に誠実に書いている。そういう嘘をつかない、ためにならないフィクションを書かないということが、精神衛生にとてもいい。お金をもらったら、事実を書いていても、倫理に誠実じゃないことがある。それが現実だと言って、自分を免罪している。
何を書いてもいいとは思えない。文章を良いことに使いたい(大切なことは、繰り返し書かなければならない)。そのために、現状を変えていかなければならない。

ブログ「いらけれ」

できないことを言葉にするのが物書きで、でも、そういうことができない人がSNSをやっているわけで、じゃあ映画や本をどうやって紹介するか、どのように書くかというときに、今一番便利な言葉が「ネタバレできないから何も言えない」なのではないだろうか。「ネタバレできないから何も言えないけど感動した」って言っとけば、すべてが済むわけで。インスタ映えみたいな言葉だ。

そういえばこの前、羽生竜王が秒読みについて語っていて、NHK杯や銀河戦のような秒読み30秒だと、一つの手が成立するかどうかだけしか考えられない、それがダメだと二つ目は勘に近くなってしまうが、一分あると(単純に時間が倍になるわけだから)二つの手を比較することができるので、大きく違うんだというような内容だった。「30秒で一つの手の善悪がある程度分かるのは、それは羽生竜王だからなのでは……」などといったことも含めて、この話は非常に興味深いわけだが、これの興味深さが分かる人ってのはどのくらい存在しているんだろうか、この世に。

ポッドキャスト収録のために移動。いつも録音している公園に人がいて、結局はとらなかったのだが。道沿いの家の壁に、セミの抜け殻がしがみついている。少し前までなら、何も思わなかったかもしれない。でも、あの台風を越えたのだと考えると、それはすごいことだ。
生垣に蜘蛛が巣を張っている。それだけなら普通のことだが、目線の高さにある巣の上の糸は、どう考えても頭上3メートルにある電線に繋がっている。蜘蛛は、この糸を使ったならば、それこそスパイダーマンのように飛び回って、生態系のトップに君臨できたのではないか。そう思うくらいすごい。
木が倒れていてすごい。細い川沿いに並ぶ大きな木の一本が、川をまたいで倒れている。やはりあの台風のせいだろうか。ガードレールが壊されている。道を塞いでいたのだろう、ぶっつりと切られて断面を見せている。木屑が落ちている。こういうのを見ると、SASUKEみたいに上を渡ってみたくなる。できないけど。
今生えている木が、こちらに倒れてくることを想像する。当たったら死ぬな。絶対安全ということを考えるならば、家の耐震構造を考えるように、並木が倒れる可能性も考えなければならないのだろうな。すべての事故を避け、すべての病気を疑わねばならないのだろうな。僕はまあ、死んだら死んだかな。

ちょっとずつ小説を読んでいる。とても面白い。とても面白いからこそ、こういうのはこの人がいればいい、この本があればいいと思う。同じ山に登る必要はない。面白さは一様ではないし。すでに書かれたものと、別の面白さを提供する役目が、ものを書く人にはある。