ブログ「いらけれ」

新しいことをいくつか始め、新しいことにいくつかチャレンジしている。こんな積極的になるなんて、考えられなかったような自分だ。次に何をしようか、ワクワクしている。楽しまなければ損だ、というか、楽しめば得をするのだから、楽しんでしまえと思っている。今まで誰にどう思われるかばかり考えてきたけど、誰にどう思われようと、やりたいことをやるべきだと思った。成果のようなものが、それが出るのかどうかも分からないまま、とにかく心を強く持って行けよって。

何を言っても免罪される人と、何をしても免罪する人がいて最悪だ。でも、そんな人が威張れるのは、私たちが馬鹿だからだ。私たちが馬鹿だからいけない。馬鹿は死んでも治らないので、緩和していかなければならない。そのためのシステムがいる。

パニック障害が治ったか治ってないか、いや治るとかあるのか?そんなことに関係なく、バイトの面接に落ちまくっていたころ、僕は日に一度飲まなければならない薬を飲んでいなかったけど、それでもなんとかなっていたけど、仕事がないことが辛いと言っていたら、薬は日に二度になった。でも、飲んでなかったけど、仕事を始めて一応、また飲むようにした。だから飲まなかった薬が大量に残っていて、それで、薬があまってるんで新しいのは大丈夫ですって医者に言うようにして、数ヶ月なんか知らないけどあまってます、飲み忘れるときとかあるんでって言っていたら、今月から、薬がなくなったら予約して来院するように言われたから、もう二度とあの病院には行かないのかもしれない。
診察室を出て会計を待っていたら、菱形の小さな黄色い虫が、シャカシャカと長椅子の背もたれをこちらに歩いてきたので、別の椅子に移った。虫は壁を伝って、天井の近くまで行った、壁には医者が、昔に新聞に出たときの記事が飾ってあった。テレビでは新しいハズキルーペのCMがやっていて、僕はそれを、その待合室で初めて見た。

2018年10月1日放送の「東京ポッド許可局」を聞いていたら(今週の論「今でも怒れる論」も面白かった。大昔のスポーツの結果について本気で怒るおじさんたち。納得できないものは納得できない!という叫び)、TBSラジオの「今週の推薦曲」で渡會将士の『Tomorrow Boy』というのがかかった。「わっちじゃん」ってなった。
僕にはFoZZtoneで生きてきた中学生、高校生時代というのがあった。学校にも行かず腐った生活をしていたり、学校に行って腐ったりしていたあの頃、彼らの曲を繰り返し聞くことで救われていた。身体と現世が音楽によってつながれていた。ギリギリの生活が彩られていた。
それは例えば、このような曲、このような歌詞だった。

蜃気楼かな
夢の様な日々だった
今は望みを閉じて
夢なら眠って見るさ
安らかに

FoZZtone – 『蜃気楼』

引きこもりたちよ、不登校たちよ、この曲を聞きながら顔を枕にうずめて、その内に眠ってしまえ。

ブログ「いらけれ」

これは嫌いとか悪意とか、そういうことではなくて、ユーチューブのオススメに高木豊が持っているチャンネルの真中満と話している動画が出てきたその時に、強く「見ないぞ!」と思った。見ないことに決めた。
僕はもうすでに多牌で、今あるものだけで手一杯だ。続編だけでも追いきれないほどのコンテンツ量に時間が圧迫されている。これ、みんなそうなんじゃない?
何かを選ぶということが、何かを捨てるということであるという感覚は、それは無意識的な感覚だとしても、昔より強まっているのではないだろうか。見ない、聞かない、読まない、選ばないということが、選ぶということより強い意志でもってなされなければならない。
無数の多種多様な客引きを無視しなければいけないというストレスの中で僕たちは、ただ何を選ぶかだけを考えればよかった頃よりも、確実に悩みが増えている。今、僕らに必要とされているのは「選ばない哲学」だろう、そのための言葉を。

由規も、成瀬も、大松もかー。寂しいけれどしょうがない、ではなく、しょうがないとしても寂しい、だ。それでも人生は続くし、「SHIBA-HAMAラジオ」は始まるし、「マキタスポーツ食道」」も「ラジオ寄席」も再開するし、それを楽しみに生きよう。そして、そろそろ落語活動、略して落活を再開しよう。手始めは、今月の東村山土曜寄席に行くところからだろうか。辛すぎる現実に負けてしまう前に、心休まる何かをしなければ。

新宿駅に降りた人々雑踏の中で、改札につながる混雑した階段の前で、スマートフォンに入っている最高の音楽を聞きながら上を見て、心底退屈だと思ってしまった。血の気が引くような感じがした。勘違いかもしれないけど、外側に出られない気がしまった。どこかに穴を、自分の知らない入口を、いつでも求めていなければならない。でなければ窒息させられてしまう、自分自身によって。

読んでいた本で、ミルグラム実験を例に出しながら、人間が環境に、人々が想像している以上に影響を受けることが解説されていた。それで、インターネットでは自分が環境を作るわけだから、それらは相乗効果を起こして、我々は加速度的に偏っていく。というのは、特別に新しい話でもなく、よく言われている話だし、ここでもよく書いている話。しかし、イデオロギーがまぶされた表現を、自分の主張に対立しないからといって「素晴らしい」とリツイートする文化人、知識人たちを見ていると、本当にインターネットって人間にとってダメなんだなって思う。その自分の行為について、俯瞰の視点から考えることこそ大切なはずなのに。

ブログ「いらけれ」

10月になりましたね、2~3日前に。本当に時は早く過ぎる、あんなに楽しみにしていた大谷翔平の今シーズンが、もう最終戦を迎えたように。そんな10月。でも、なんだか暑い日もあったりして、季節もよく分からないし、自分の未来もよく分からないですね。ただ書くために、書くための本をまた読み直したりしているので、もちろんブログも続けますが、ぜひ新しい書く仕事をしたいなって思います。小説やエッセイなど、お仕事お待ちしております。

家を出て歩いていたら、駐車場の車止め、あの車の下に板が上がるやつを、完全にぶっちぎろうとしてウィリーしている車を見た。車は、そうして乗り上げて、抜け出して、走っていった。あの瞬間、暴力性が剥き出しになっていた。感情は、正しくは恐怖か、その光景に身がすくんでいた。何もできなかった。その運転手に対して、運転手のような人に対して、話が通じる気がしないと思ってしまった。とにかく逃げるように、その場から離れた。

金木犀の匂いがする。街中から金木犀の匂いがする。歩いていると、突然その一帯が甘くなるような、あの金木犀の匂いが特別に好きだ。金木犀の匂いを感じると、小学校の校庭の金木犀を思い出す。校庭の金木犀は、片隅の小山の近くに植えられていた。小山は変わっていて、半分くらいのところでぶっつりと切れていて、断面には壁がくっついている。壁は、小山の頂上と同じ高さだから、1mくらいある。壁の下は砂場になっていて、低学年の子どもたちは、休み時間は山の周囲で遊び、帰るときには壁の上から飛び降りる。それが度胸だめしのようになっている。僕はずっと怖くて飛べなくて、壁に沿って小山を下りていた。皆が先に教室に帰っていくその背中を覚えている。その日も、皆が飛び降りていった。僕は小山の上に立っている。


Things – Louis Cole

Things may not work out how you thought

西武新宿駅から遠回りして、サブナードに入って、銀行のATMを使おうと思っていたのに、そのATMをアルソックの人が開けていて、そのATMに付属の電話をかけ始めたりして、それを見ながら、直前まで聞いていた2018年9月29日放送の「菊地成孔の粋な夜電波」で、マック・ミラーに捧げられたこの曲と、その翻訳された歌詞を思い出していた。「物事は思い描いたようにはならない」!!!朝から電車の中で聞いて感動して、そしてこの仕打ち。本当に人生ってやつは。

ブログ「いらけれ」

真夜中まで起きて、明日というか今日、返却しなければならない本を読む。絶対に間に合わなそうだと思いながら。webサカで監督転生を目論んで(監督転生とは:「卑劣な男」)、3時50分に監督を変えて、また本を読み始めたら寝落ちして、起きたら朝8時。「しくじった、馬鹿した」と思ったけど、他のチームに監督を取られてなくてよかった。本はまだ半分も読み終わっていない。

一日の初めには大抵、ブログのアクセス数をチェックする。その時、アクセスがゼロのことはよくあって、それは今日もそうで、あなたは「そんなもんだろう」と思うかもしれないけれど、やっぱりガッカリする。仕事で手を抜いているわけではないけれど、絶対にこちらの方が面白いはずなのに、あちらは金になって、こちらはアクセスがゼロだ。本は6割くらいのところまで来た。こういう人文書に付いた注、参考資料の多さを見てしまうと、僕の文章なんて読まないで、もちろんまとめサイトなんて読まないで、本を読んでくれという気持ちになる。

読んでいたのは『シャーデンフロイデ』という本で、内容がビンビンくる。翻訳が読みにくいところもあるけど、扱われているテーマは完全に興味のど真ん中。今の時代のことを考えると同時に、仕事で誰かのシャーデンフロイデを呼び起こしてしまっているなと反省もするし、自分の過去の恥ずべき感情と行動を思い出すこともあった。本にも書かれているように、キレイな人間なんていないけど、キレイになろうとしない人間は嫌だから(しかし、「公正」、「正義」といった感情もシャーデンフロイデと分かち難く結びついているのだが)。それでノッてきて、本を読み切ってしまう。

台風の大雨が来る前に家を出る。さっきまで止んでいたけど、小雨。録音した「粋な夜電波」を聞きながら歩く。いい調子だ。

図書館で1時間近く悩んでいる間に、ひどい雨になっていて、屋根を叩く音がすごい。目的の何かを借りるのではなく、何を借りたいのかというところから考えている内に、まず自分のことが分からなくなる。あの困惑がたまらない。自分が、何に興味があって、何を知りたくて、何を知るべきなのか。自分探しは図書館でしろ。

アーレントのことを勉強したかったので、とりあえず仲正昌樹の『悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える』と、船木亨『現代思想史入門』に決める。船木は知らない著者だから、一回調べてしまったよ(調べた結果、「ツイッターで千葉雅也が名前を出したことがあるからいいか」って、それもどうなんだ)。はずれを引きたくないというか、自分じゃ正誤が分からないから外側に頼りたいというか。こういうのがよくないのは分かってるんだがなあ。借用の手続きを終え、帰る頃には雨は弱まっていた。

帰り道には、僕の中にある黄金について考えていた。どれだけくだらないことをやらされていても、どれほどつまらないことをやらされていても、僕が保っていられるのは、僕の中に黄金があるからだ。絵にできないのが惜しいほど、はっきりと見えている黄金の館。いつだって僕の帰るべき場所は脳内にある。いつだってあそこに帰れるんだ。あそこにいれば気分がいいんだ。霧雨のような雨だったけど、普段は水量のほとんどない川には、それなりの水が流れ込んでいた。僕が、この川に飛びこまないでいられるのは、なによりもあの黄金のおかげだ。

家に帰って、風呂に入って、憤っているわけではないけれど、小説家なら何を書いても出版されるのはいいなあって思った。もう、何かを書いて許されるのは、他の分野で何者かである人だけで、それは精神分析医でも、音楽家でも、お笑い芸人でもいいけど。僕が、ものを書くということだけでものを書く人、批評家やライターを尊敬しているのは、そういう後ろ盾なしに書いて、それで認められることのすごさが分かっているからだ。それを分かっていない人ばかりが、もの書きを過剰に馬鹿にする。分かれば馬鹿にできないからさ。でも、僕は小説家になって、何を書いても"エッセイ"とかいって、出版されたい。小説は別に、そんなに書きたくないけど。

ツイッターを見ていると、いろんなイベントや公演が中止になっていく。台風に備えて、電車が早めに運行を終了させるからだそうだ。家でぬくぬくしている僕が、シャーデンフロイデを覚えるかというと、それはどうも微妙だ。なぜなら、「シャーデンフロイデを覚える」っていうことを認めるのが人間には難しいから。それを否定しようとする心の動きがあるから。自分の感情すら、きちんと把握できないなんてね。

西武ライオンズが優勝したらしい。ヤフーニュースで知って、その瞬間は見たかったなって思った。

ついに豪雨となる。with超強風。イヤホンをしているのに、ノイズのように音が入ってくる。窓の外を見る。なんでこんなにも大雨って見ていられるのだろう。水の玉が道路で跳ねる。商店街の旗がちぎれそうだ。目が楽しい。ブログを書き始めたら2000字になってしまった。でも、書かなかったことの方が多い。