ブログ「いらけれ」

高いビルが今日の、地球に近い太陽を遮ったとき、その影はずっと向こうの方まで伸びていって、誰も座っていないベンチを覆った。ベンチの前には大きな川があって、柵の向こうの両岸では、雑草たちが絡み合っている。

川と私の間の小道を、年に不相応な格好をした男がスケートで行ったり来たりするがらがらという音が、断続的に聞こえていた。目を落としたノートの上で滑らせたボールペンのインクは出なかった。上端で渦巻を一つ描いたあと、彼女に話したいことを箇条書きにした。あと何遍、私たちは会話をするのだろう。あと何遍、私は彼女と会話ができるのだろう。人生はあまりにも長く、そして、あまりにも短いから、手に負えない感情と共に、私はその場を離れた。

記憶のなかで私は幼子だった。街道沿いのファミリーレストランで、買い与えられたミニカーを熱心に動かしていた。手前に置かれたパフェのアイスクリームが冷たかった。それを横目に、彼らは言葉を交わし続けていた。私には、大勢の人が泣いていた昨日の集まりと、その会話の関係が分からなかった。ぐずって押し込められた別室の、座布団の臙脂色を思い出していた。季節は夏だった。いや、季節は夏になった。そうだ、私にとっての夏は、ある日を境に"なる"ものだった。

その暑さに見合った大きさで、一歩退いた私の目前を、ゆったりと通り過ぎた蝶は、誰かの庭の、誰かが植えた花に止まった。見惚れていたら、このまま日は暮れないような気がした。右腕に水滴が落ちてきたので、見上げた空は晴れていた。ほれぼれするほどの天気雨だった。黒い雲は頭上の遥か向こうにあって、この心地よい風が、細かな雨をここまで運んできたらしかった。なぜか分からないが、少しだけ嬉しくなった。

坂を上りきって振り返ると、色とりどりの屋根があり、平面だった街が立体的になった。そこから見える狭い道で、対向車とすれ違うために一旦バックした黒い車に、指を重ねてみる。家の中を探せば、あの日のミニカーが見つかるだろうか。

通りの向こう側で、ランドセルを背負った女の子が手を振っている。散歩の終わりに、その後ろ姿を見た。彼女が立っていたのは、サインポールが置いてある古めかしい美容院の、大きな窓の前だ。友だちでもいるのだろうかと思いながら、私が歩いたことで、彼女に隠れていた内側が見えた。そこには犬がいて、ガラスに寄りかかりながら、嬉しそうに尻尾を振り返していた。

今日の私のように、彼女もいつか、この日のことを思い出すのだろう。そう感じさせるシーンだった。

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この騒動が終わったら、まずは旅に出ようと決めている。小説の書き出しを決めている、それは「私はここに座り、窓の外を眺めている」というものだ。だが、そこがどこだか分からない。まだ見えていないから、その場所探しに行きたい。納得のいくリアリティを見つけたい。そんなもの、本当にあるのだろうか?

右に曲がる。下から引き上げるタイプの車止めが光っている。5本立っている。間を抜けて、右に曲がる。犬がいる。尻尾が上がっていて、肛門が茶色い。木は何本立っているのだろう。とても高い。あなたが生きた時間は、人生ですか?私だった私はもういない。私は失敗した。それは、始まる前から決まっていた失敗だった。だから仕方がないと言って諦められたら、どれだけ気楽だろうか。車の速度が上がらないように、道路には小さな山がついている。墓石が並んでいる側には遮るものがないから、大きな空が開いている。人生が変わる。人生は簡単に変わってしまうのだ。だからこそ、常に用心しておかなければならないのだと、自分に言い聞かせる。道が左に曲がっている。右側は木と草だけになる。草は、夏に向けて盛り上がっている。伸びに伸びている。自由を謳歌している。虫たちのざわめき。ベンチに座る年老いた男が上を向いている。本当のことなんて、何一つ書かれていない文章のなかで私は、もう失敗しないと誓う。私は、すべてを許さない。もうすべてに心を許さないのだ。そうやって閉じたから失った失敗によって、私の人生は終わる。それは、ただの時間経過に成り下がる。

つまりは、間違えてしまうことが問題なのではない、ということ。重要なのは、間違え方なのだ。失敗の仕方が正しければ、それは間違いではないということに気が付かなければ、あなたに未来は見えないだろう。人間でいるために、あなたは正しく間違えなければならない……のだとしたら、私の人生は、間違いではなかったのかもしれない。

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そんなもの、本当にあるのかどうか分からないけれど、自分に似合う髪型が分からないままこの歳になって、大変に混んでいる床屋のおかげで、人生で一番の長髪だ。僕の髪が肩までのびたら、誰か結婚してくれるだろうか。町の教会で。別にしたくないけれど。こうした事情により、見るに堪えないおじさんが誕生してしまったわけだが、残酷なことに、Zoomなどを使って人と話す機会があり、この顔を晒さなければならなかったため、画面上における私の成分を少しでも薄めるために、バーチャル背景を使うことにした。TWICEは裏切らないので、彼女たちの写真を公式ホームページ(当然日本のじゃなくて、JYPの方だぞ!)のギャラリーから画像をダウンロードして、適切なサイズに調整するなどしていた。ギャラリーは、下の丸を押して移動すると20ページまでしかいけなかったのだが、アドレスの数字を21に変えたら壁を突破し、40ページまで行くことができた。あまりにも懐かしい写真を一つひとつ見ながら、涙を浮かべたりしていたら2時間がつぶれていた。Zoom会議は真面目な内容だったので、バーチャル背景は使わなかった。それから、「MORE & MORE」のMVを繰り返し見ていて、注目すべきは蛇とりんごだろうと思ったのだが、なぜ"禁断の果実"なのか。何を表そうとしているのか。他の映像との文脈的なつながりが分からない。あとはもう、U-NEXTに対する悪口しか出てこない。私は、ここに書けないとある理由でU-NEXTを使うことに決めたので(各自調べて推測するように)、4月30日に契約した無料期間が5月30日に終わっても解約せず、そのまま月額課金に移行したのだが、移行後に日割り計算されないことを知って、5月31日だけのために約2500円を支払う羽目になった。ちゃんと調べなかった私が悪いのは重々承知だ……が、契約時のメールに日割りではないことが記載されていないのも、無料期間が終了する直前にメール一本よこさないのも、非常に不誠実だと思った。こんな調子では、早晩ユーザーから見放されてしまうだろう。U-NEXTを使わなければならない事情があるというのに!

言いたいことは言ったので、この6月は運命に逆らって進もうと決めた。終わらせるのは簡単で、いつでもできるのだから、できるかぎり続けていこうと思い、そのために行動した。人生には困難が必要だ。険しい山道を歩くことで初めて、積み重なった時間が人生になるのだ。私は人生にしたい、死んだ時間ではなく。

ブログ「いらけれ」

退屈な私のパフォーマンスを見せられる毎日に殺されてしまった。だから私は、五月の終わりを喜んだ。その船は、間違えても進んでいった。いや、進むこと自体が間違いの始まりであり、同時に終わりだったのだ。心のなかに生まれた海は見渡せず、始まりも終わりもなかった。六月になったからといって、変わってほしいものが変わるわけはなく、望みの彼方に私たちはいた。二十一世紀になっても温存されていた差別的な構造が攻撃されていた。怒るべき時だった。そのページをめくる指が、紙の端で切れたのだ。痛みに顔をしかめながら、思い出すということは、常に唐突であると理解した。私が小説を書いたのは相当前のことで、壊された状況のせいで手売れなかったそれを、この場所で公開した際にツイッターで宣伝した。ツイートして数時間後、黒幕から「いいね」されていて仰天した。驚きは震えになり、手に持ったコップから水がこぼれた。私は、『文化系トークラジオLife』のすべての回を、2回以上聞いているということだけが自慢の人間だ。それ以外に誇れるものはない男だ。久々に、ツイッターには夢があるな、と思った。だから五月も、それほど悪い月ではなかったことにしよう。そして六月一日には、「MORE & MORE」のMVが公開された。TWICEは裏切らないから、やはり幸福の雨に打たれはしたものの、映像表現的な面白さは大分後退していたから、音楽に集中して繰り返し視聴したが、私の貧弱なボキャブラリーとライブラリーでは、影響関係や参照元を読み解けなかった。識者の解説が待たれるところだ。しかし、サビの頭のところで歌わないのは駄目だって「Dance The Night Away」で学んだんじゃなかったのかね。そして六月は、流れに抵抗しようと思っている。どう生きても一回しかないのだから、途方に暮れる気持ちを追いやって、生きたい方へ行こうとする。その意思だけが問われていて、夕飯に食べた餃子が美味しかった。