ブログ「いらけれ」

ニコ生で一挙放送してたから、とりあえずタイムシフトしてた『少年ハリウッド』を見始めたら、やっぱり面白くて見入ってしまっていた(ブログ書かなきゃ……)。これが放送されていた当時は、アニメをすごい見てて、いろんな方法を駆使して、ほぼすべてのアニメの一話は見ていたし、かなりの本数最後まで見ていたというのに。今では、ほとんど見なくなってしまった。そんで、初回放送のとき評判悪かったよなあ、少ハリ。蒼井翔太さんの声も、すごい批判されていた。下手とか違和感あるとか。今では考えられないかもしれないけど。でも、僕だって最初は、テレ玉かテレビ神奈川かなんかでやっているのを、男子アイドルものでしょとかって、見る前から半笑いというか、少し馬鹿にしながら見て、あれなんかすごくねって、ニコニコ動画に公式で上がっていた一話を、繰り返し見た。それで、コメントとかアンケートとかで評判悪くって、世界に対して絶望を深めたのだった。話数が進むごとに、面白さを共有できる人が増えていって(というか、大部分の不満を言っていた人が去って)、その後に神回もあって、自分も本当にハマって。とりとめがなくなってしまったけれど、とにかく皆さん、少ハリを見ましょう。

ニコ生で大量のアニメをタイムシフト予約したが、これ年末までに見られるのだろうか。たくさんの一挙放送を、予約してしまったが。さて、なぜ僕がアニメをまた見始めたのかということです。僕の座右の銘は「ローマは一日にして成らず」(『少年ハリウッド』第一話より)ではなくて、「囃されたら踊れ」と「出会いに照れるな」なので、つまり、そういうことなのです。続報を待て!

アパートの並びのドアの真ん中に、何かのキャラクターの小さな顔がついていて、鼻のところから金属の、上に向いたフックが出ていて、そこにかけられたツリーの飾りで知るクリスマス。

「萌え」とは何なのだろうか。いわゆるゼロ年代批評で手あかのついた言説に代表されるように、キャラクターとは、大きな目や緑色の髪が表すように、記号の集合体であり組み合わせでしかないとしたら、萌えという感情も、キャラクターによって喚起される記号的な感情なのだろか。いや、それだけではないだろう。こちらもよく言われることだが、文学が描いてきたものは個別具体的な生であり、その具体性こそが人間一般を逆照射するのであって、キャラクターが私の中に生み出す感情は、キャラクターと私の間に生じる個別的なものなのだから、それは人間同士の恋愛のような側面を持っている。萌えとはつまり、振る舞いや仕草、「萌えポイント」という言葉に代表されるような記号と、私と〈あなた〉(というキャラクター)の間に生まれる割り切れない生々しさの混じった「半透明の感情」なのではないだろうか。

ブログ「いらけれ」

「「無冠が信じられない」ということが、とてつもなくすごいことなのだというところから、再確認していこう。」と、将棋の羽生先生について呟いているアカウントがありますが、あれも私です。
将棋ファンにとって、竜王名人はもちろん、棋王棋聖とか、二冠や三冠というのが名前の後ろについていることすら、当たり前の事だったので、そのなかの一人である私も含めて、それはそれは驚いているわけですね。確かに、棋力の衰えといいますか、以前のように絶対的な強さを感じることが少なくなっていたのは事実です。だって、羽生先生に気後れしないように「殴り合いの喧嘩だったら勝てる」と言った九段がいるとか、いないとか、それほど絶対視されていたわけですから。だからというか、なんというか、プロの将棋に詳しい人なればこそ、このまま終わるわけがないと、タダじゃすまないはずだと、この先に恐れを抱いていると思うんですね。(久保王将も「ゼロになったのはたまたま」と言っていたらしいですし。)だからまあ、みなさんと同じで私も、さらに強くなってタイトル戦に登場してくるであろう羽生先生に、今からワクワクしています。

パソコンでのラジオ番組の録音で、長くお世話になっていた「Radikool」だが、少し前から、起動するとよく分からないダイアログボックスが表示されるようになって、重くなっていたパソコンの動作にも影響しているようだったから、別れを告げることにして、「どがらじ」というのをインストールして使ってみたところ、結構良さそうだった。軽いし。タイムフリーを録音できるのは便利ね。ウイルスとか、そういうのは知らないので、オススメはできないけど。

これはただの日記だから、サボるも何もないし、上記の通り、面倒な作業をしたりしなかったりなわけだから、別に後ろめたいことは何一つないはずだと、肩で風切って歩いて、でも雨降ってるし。墓地の中で雨降ってて、寒くて悲しくて、おかしくなるかと思った。普段は通らない、舗装されていない、線路と墓に挟まれた道(?)を歩いていたら、線路沿いの方に見たことのない大きな碑があって、知らない人の名前が書いてある。今調べたら、どうやらボーイスカウト運動の創設者のひとりだそうだ。耳にはイヤホンをしていて、「どがらじ」で試しに録音した「爆笑問題カーボーイ」を聞いていたが、田中さんが「狸見た」というだけの話をしていて、それ、可愛いアイドルだけが許されるやつじゃんと思って、それにちゃんと太田さんがテンション低くリアクションしてて、めっちゃ笑った。でも、雨が強くなってきたので、霊園内で一人笑っているという状況も含めて、とても悲しかった。それで突然に、髭の「ダイアリー」が聞きたくなった。本当に急だったから、気持ちの動きが不思議だった。ラジオが終わったら曲を流そうと思う。


髭「ダイアリー」

手に入れたもの全部忘れてしまうけど
それがこの魔法の契約
これは戸惑う僕のダイアリー

ブログ「いらけれ」

「強い風で」
5月に書いたブログに、「熱文字」でおなじみのほね先生からコメントをいただいて、舞い上がってしまった。先生が投稿されているハガキを、いつも「すごいなあ」と尊敬しながら聞いていたので(気になった方は、先生がピクシブに投稿しているSSを読んでみてほしい。この筆力よ!)、まさか向こうからコメントをもらえるなんてと、本当にびっくりした。あまりに手ごたえがないブログで、畳み方まで考えていたところだったのだけど、もしかしたら、こういう風に届くことがあるかもしれないと思ったら、続けていくのも悪くないかな、と思った。

来月のデモクラシーカフェは(会のブログはこちら)、「なにが対話をはばんでいるの?」というテーマだそうですよ。これ、僕が初めて参加したときに感じた(そのときのブログはこちら)、以下引用

話し合いのファシリテーションは、非常に大変だと思います。とくに話し合いの場においては、どうしても小さな上下関係ができてしまうものです。年上/年下、男性/女性などで、前者が教え、後者が聞くという形になってしまいがちです。

という問題に、びったしくるものですね。また、まだここに書いていない最近考えていることにも関連していて、個人的にとてもタイムリーだなあと思いました。ああ、"マンスプレイニング"の話もしなければならないですし……今から楽しみです。

「Coke ON」というアプリを、僕はそれまで知らなかった。町はずれの大きいスーパーで、「ジュースでも買おうかしら」とさまよっていたところ、僕の目は陳列されたペットボトルのなかの一つ、「カナダドライ サングリアスパークリング」に被せられた紙に釘付けになった。そこには、紙の裏側に書かれたクーポンのコードを、「Coke ON」に入力すれば、自動販売機のコカ・コーラ製品が一本無料になると書かれている。半信半疑、いや二信八疑ぐらいでそれを手に取った。
QRコードからアプリをダウンロードし、クーポンコードを打ち込んだら、たしかに「ドリンクチケット」なるものが手に入った。まだ、すべての自販機が、アプリに対応しているというわけではないらしいが、家の近くにも5~6台は対応機があるようだった。
疑いを残しながら駅前に出て、対応機の前に立つ。すぐに、スマートフォンと自販機はBluetoothで接続された。スマホの画面を操作する。「ドリンクチケットを使う」というボタンを押すと、自販機のラインナップと、まったく同じ商品たちが表示される。少し迷ってコーラをタッチすると、「ゴトッ」っと音がして、自販機の取り出し口にコーラがある。横を通りすぎるおばさんが訝しんでいる。手品のようだ。
「Coke ON」には、「スタンプカード」という機能があり、商品を買うとスタンプがたまるという。また、「ウォーク」という機能もあり、ただ歩くだけでもスタンプをためられるようだ。スタンプがたまると、どうなるか。そう、「ドリンクチケット」が手に入るのだ。
「タダより高いものはない」という言葉が浮かぶ。いろいろな情報を渡しているわけだ。僕はビッグデータとして、統計的に処理されるのだろう。取り込まれていることも分かっているが、しかし、どうしたって他のメーカーの自販機を使うことは少なくなるはずだ。そこにあって、手に取れるお得さにはかなわない。コーラを飲みながら見たマンションは、夕日が当たってきれいだった。


【歌詞つき】世界の始まりに(live ver) /FoZZtone[official]

世界の始まりに 君を送り出そう

ブログ「いらけれ」

ツイッターで、調子に乗ってリベラルな文化人をフォローしまくって、その発言を頷きながら眺めていたりすると、現実に出会う人々の無邪気な発言に、そのリアリティに驚くことになる。文化人が言えば一発アウトになるような(しかし、政治家ならば、なぜか水に流せてしまうのだが)、差別とか陰謀論とか。そして、その言葉を訂正したり、注意することもできずに負けていく。最近は、「正しさは負けていく運命にあるのではないか」という考えが、確信に近いものに変わってしまっていて、そうなると世界に期待することもなくなって、つまり、とてもあっさりと諦めてしまった。

青山の、あの児童相談所の問題(20xx年に見た人にとっては、なんのこっちゃ分からなくなっていたりするのだろうか?)、あの非道な発言に対しては、素直にまず、とても驚いた。なぜなら、その発言こそが土地のイメージを悪くすることなど、容易に想像が付きそうなものだからだ。僕は、少し時間がたった今、こうした言葉を言ってしまった人のことを考えたいと思っている。エネミーとして切って捨てることは簡単だが、彼/彼女たちが、そこまで余裕がなくなってしまった理由や、簡単に分かりそうなことが分からなくなってしまった訳を、そして、どうしようもない人々に対する望ましい救いを、見つけていきたいと思う。

人間とは、影響的な存在であり、あるいは、より的確に言い換えるのならば、影響に皮を張っただけの生き物なのであって、近づくことによって、互いに押し押され、目に見えない波紋を伝えあって、それによって変化していく。初めて会った人と交わす会話で、人生にとって決定的な決断をしてしまうような、興味深い生態を持っていることを、深夜の2時に見つめた。自室の隅で、真っ暗なリビングで、自分のあり方を再考する年末。今を、雌伏の時と捉えるか、ただダメなのだと捉えるかで、だいぶ違ってくるものだ。自分にかかった呪いを解いていく。たとえば、今の仕事をやめても、働き口なんてないという思い込み。出会う人が、自分のことを嫌っているに決まっているという疑心暗鬼。とにかく深く息を吸って、絶つ。急所を間違えるな。勘所を押さえろ。大事なものから目を離さないように、大事なものだけは手放さないように。己(お前)の人生は、己(お前)のためにある。


TWICE TV 2018 EP.14

繰り返される、アイドルと労働の問題……(詳しくは、「アイドルも人間だし商売だし」を)。ファンの人たちが、「休んでくれ」とお願いする言葉を、たくさん読んだ。同感だ。しかし、こうした姿を見せること自体が、一昔前なら有り得ないことだったわけで、つまり、涙を見せることができるという状況ではあるということまで、含みこみで考えなければならないような複雑さのなかで、芸能に関わる人たちが、どうすれば幸せでいられるのか、そしてファンは何をすべきなのかというのは、まったく答えの見つかっていない問題だ。