ブログ「いらけれ」

十代は屈辱の時代だ、そんな手垢の付いた言い回しでさえ、いや、そんな手垢の付いた言い回しだからこそ、僕たちの頭を意識できないぐらいに、とても巧妙に支配している。だから僕の十代は屈辱にまみれていたような気になって、過去を振り返ると、ずっと先の方まで暗くなっている。

用事がないと、霊園に足が向く身体になっていて、その日はコンビニで宅急便の手続きをしなければならなかったから、久しぶりに違うルートを歩いて、そのままの流れで近所の川まで行って、川沿いの道を散歩したときの話だ。明るい灰色の空が向こう側にあって、遠いビルの奥から雲が立ち上がっている。

「語彙力」という言葉は、つまり、簡単な感想しか出てこないことを自嘲しているわけだから、だったら言わなければいいのに、それでも言わずにはいられないのは、つまり、今のインターネットがそういう構造をしているということで、システムに急き立てられている僕たちは、言わなくてもいいことを言わされているけれど、人々の心は沈黙している。

川が川であるように、川岸は川岸であるのだけれど、それを目にした僕が感動している。雑草が生い茂り、高く伸びるものは高く伸び、あるところでは花が咲いたりしていて、数ヶ月前との大きな違いが、ぐっと迫ってくるような感じがした。冬には枯れるから冬には枯れていたし、この先の冬にはまた枯れる。それなのに生まれたり伸びたりするのが生命で、このことを書きたいと思った。

ずっと歩いていった先で景色が変わり、ごみの焼却施設から白い煙が立ち上り、灰色の空と混ざり、雲を作っているみたいだ。だからか、と思った。そんなことより避雷針だ。避雷針は避雷針と書くにもかかわらず、雷を避けることができないから、とてもかわいそうだ。この発見、すごく面白いと思うんだけど、この面白さを分かってくれる人は、この世界のどこにいるのだろう。そもそも、そんな人はいるのだろうか?

突然雨が降ってきて、人間は平等に負けているのかもしれないと思う帰り道だった。濡れながら、子どもたちのカラフルな傘が集まって、カラフルな紫陽花のように見えた日のことを思い出していた。街にあれだけあった紫陽花も、そのほとんどが枯れてしまった。

ブログ「いらけれ」

放っておくと無限に汚くなり続けるものといえば、そう、部屋。とくに、僕みたいな馬鹿が時間をつぶしている。ブレンの赤がないから、ノートに文字を書けない。部屋のなかで物をなくす人は信頼できないと思う。探すためには、床が見えるようにしなければ。そう思って、散乱しているゴミを片付ける。ゴミとは、僕のことではない。具体的には、楽天ブックスから送られて来る、ビニールのプチプチが内側についたあの袋だ。手に持ったら、線の細い蜘蛛が慌てて逃げ出したから、上に乗っていたことに気がついた。裏返したら、同じ種類の蜘蛛がもう一匹、同じように慌てていた。繁殖しているということは、産卵しているということだろうか。

その人に固有の苦しみを、僕は地獄と呼んでいる。フェルナンド・ペソア『不安の書【増補版】』(彩流社)の22ページには、「われわれに起きたことは、誰にでも起きたことか、われわれにしか起きなかったことだ」とある。これをノートに付けたのが昨日の夜だ。つまり、僕たちの手元にあるのは、ありふれたことか理解されないことだけなのだ。どれだけ恵まれていようとも、あるいは、どれだけ恵まれているように見えようとも、その内側には必ず、認識不可能な痛みがあるのだと思いながら生きていこう。それは、すべての人間に必要な優しさだから。

今月だけでも、高橋ヨシキ『高橋ヨシキのサタニック人生相談』(スモール出版)サンキュータツオ『これやこの サンキュータツオ随筆集』(KADOKAWA)佐々木敦『これは小説ではない』(新潮社)を買ってしまった。『不安の書』は600ページ以上あるというのに、誰が読むのだろうという顔で背表紙が見ている。そんな気がして、どうにも落ち着かない。なのに、デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(国書刊行会)が欲しくてたまらない(分かる人には分かるつながり)。「本を読むのが好きなんじゃなくて、本を買うのが好きなのね」。本当に、僕は僕のことをよく分かっているなあ。本も読まずにぼーっとしながら、そんなことを考えていた。

ブログ「いらけれ」

ルールが変わって僕は、そんなこと同意してないよって思った。最低の日々が想定を下回り、壁に貼っていたポスターが剥がれるミシミシという音で目が覚めた真夜中。すべての記憶が断片的で、どうやっても統合できない。だから僕の心は、笑いながら殴られていたのかもしれない。他人に期待してはいけない。このことは、胸に刻んでおかなければならない。いつだって裏切らないのは自分だけ。厚かましい人が勝利する世界にうんざりしている。毎日他人に気をつかっている、そんな気がする。結局、気をつかわせるだけつかわせて、気をつかわない生き方が最良なのだ。こちらを置き去りにして、スイスイと泳いでいく姿を、「ああ人間だな」と思いながら見つめていた。

これは詩ですから、ここに本当はありません。でも、「明日から毎日更新しますよ」という言葉は本当にしたいです。本当にそう思っています、と念を押すように言うと、まるで思っていないみたいだから困ります。僕が再生できたわけを、明日からの僕が少しずつ書いていくことでしょう。この人生の意味が、徐々に分かり始めているところです。やりたいことは他にもたくさんありまして、このサイトのリニューアルなんかも考えています。なにはともあれ、まずは、あらゆる不幸とわずかばかりの幸福を詰めた文章を、この地獄の詳細な記録とこの地獄をそっくりそのまま伝えるための物語を、僕は書いていこうと思います。そのために置いていかなければならないものがあって、この詩は書かれました。

ブログ「いらけれ」

「今一番欲しい本はフェルナンド・ペソア『不安の書 【増補版】』なのだが、もうすぐ無職になる男が五千円を超える本を買っていいものなのか…悩む。」というツイートをしたのは、検査結果の待ち時間だった。その巨大な総合病院は、受付と精算の場所が分かれているのだが、僕は独りになって、精算カウンターの前の、広いロビーの一番端っこに座っていた。

採血をした後、結果が出るまでに1時間はかかると言うから、僕は同行せず、時間を合わせて行ったのに、診察開始は遅れに遅れ、もう1時間は待たされていた。診察室の近くの待機場所には、大勢の人が黙って腰掛けていて、ベラベラ喋るわけにもいかないので気まずいから、「少し散歩してくる」とその場を離れて、病院の周りをほっつき歩いたけれど何もなく、仕方なく戻ってきたけれど居場所もない。精算カウンターの上に設置されているモニターが、新しい数字を表示する度に、市役所みたいだなと思う。互いに間隔を開けた人々は、自分の番を待っている。生まれるのは順番ではないのに、死には順番がある。

僕がここに座るのは、実は、この時が初めてではなかった。前に一度来たとき(それが、初めて僕も呼ばれた日だ)は、診察の後、入院の手続きをしなければならないというから、やることのない僕だけが帰ることになったものの、高ぶった神経を鎮めなければならないと思ったから、一息つくために壁際の自販機でコーヒーを買って、前の椅子に腰を下ろしたのだった。

それはペットボトルや缶の自販機ではなく、カップ式の自販機だった。オリジナルだとかアメリカンだとか、カフェラテやココアもある。前の二つは100円で、後ろの二つは150円だ。ミルクの入ったコーヒーが好きだから、カフェラテを買ってもいいのだけれど、オリジナルには「砂糖・ミルク入り」というボタンがあって、貧乏性の僕は、どうしてもそれを押してしまう。再び砂糖とミルクの入ったオリジナルコーヒーを買ってしまったことに、少し後悔しながら僕は、「カフェラテは50円分美味しいのだろうか……」と、その味を想像していた。

そこでお金について考えたことが冒頭のツイートにつながったのだと、こうして振り返ったから気づいた。現実には、愛や命の前に金があって、保険の使えない薬は痺れるぐらいに高い。世帯主に給付された10万円は、「生活費にしてくれ」と言って受け取らなかった。しかし、文章というものは、すべてが虚構だから、これは現実ではない。