ブログ「いらけれ」

立川談志いわく、落語は「業の肯定」だそうだ。この言葉だけ、ずっと前から知っていた。特殊な文脈の中で。

好きになった落語家が「噺家は良い悪いではない、合う合わないだ」というようなことを言っていた。その言葉に納得している。

古典しかやらない人が多いが、創作(新作)だけ演じる人もいるし、両方やる人もいる。同じ演目でも、演者によって違う表現になる。それは、大きな違いだ。階級やキャリアが違う人を並べるのは失礼だろうが。

たとえば、どこまで落語と呼べるのだろうか。扇子と手ぬぐい以外の物を使ったら。あるいは、落語の文法に沿った形で話された、聞き手に全く落語的ではないと共通して判断されるような話だったら。

成立しているジャンル。何かに乗っている送り手と、それに乗っている受け手。ある見方や評価軸、一つのルール。しかし、創造性や逸脱によって更新されているからこそ、価値がある。

違うものが同じものとして保存されている。とても勝手で、とても面白い。

分からないから書いている、どんなことにもいえることだ。(音楽だって、映画だって、小説だってそうでしょう?)

ブログ「いらけれ」

あなたはヤフーのニュースとか読みますか?あれにコメント欄あるじゃないですか。あれはどうでもいいのですが。(酷いの分かってんのに、たまに読んじゃったりしませんか?あれ、なんなんですかね。)

あのコメント欄、フェイスブックからついたコメントも読めるんですよ。それを読むのが好きなんです。すごいので。

そのコメントは、ほとんど実名です。所属や会社が載っていることもあります。おじさんが多いです。それで、「意識が低い」んですよ。意識が低いおじさん(プチ鹿島さん風)。

いま、芸能人がツイッターで書いたら炎上しそうなコメントばかりですよ。でも、ある種の本音であり、ネットではない場所ではよく聞く意見だったりします。

ネットが無ければ、書かれなければ、それはそれでよかったのかもしれない。でも、できてしまった。書けるようになってしまった。そして、「意識が低い」人ほど、自分の意見と相違するものに対して、「けしからん!」と書きこんでしまう。そして、それって残酷だなぁと思います。

しかし、掲示板的なものから進化した、潔癖症、他罰的な、さらにいえば幼児退行(菊地成孔さん風)した言説に対しても、もちろん違和感を感じますが。

ブログ「いらけれ」

 

昨日も行ってまいりました「渋谷らくご」。すごいものをみた感がすごい(バカ語)、素晴らしい会でした。

ここからは感想ではなく、考えたことを。

「落語に行く/行った」と言うと、言われた側がだいたい半笑いになる。「へえ~w」みたいな。これは、ぼくが「ヒップホップを聞く」と言ったときの反応とほとんど同じだ。なんだろう。

きっと、「あの落語」や「あのヒップホップ」を思い浮かべるからだろう。笑点的な、あるいは悪そうな奴はだいたい友達的な。それらは、ジャンルを代表しているのは間違いなく、偉大だ。しかし、それがゆえに馬鹿にしてしまいたくなるようなイメージを作っている。そして、先入観を作り、そのジャンルについて知ることを結果的に阻んでいる。

でも自分だって、きっとそうなのだ。半笑いなのだ。何かについて。何かのジャンルについて。

”それだけ”じゃないということを、その内実の多様さを、伝えるのも知るのも難しい(だから「渋谷らくご」は試行錯誤しているのだろう)。

このブログは、そのためにやっているところがある。これは予告であり、目標である。

ブログ「いらけれ」

「中二病」とは
「黒歴史」とは

もう”ネットスラング”といえないほど広まった言葉たちですね。語義も、変遷してきたものが、ある程度固まってきたように思います(もちろん今の時点ではということです)。

私は、高校三年生になる数日前の3月24日から、9月24日までの半年間、日記をつけていました。どうやら、高校生として最後の年に、何か残しておきたかったようです(頼むから受験勉強をしてくれ!そして高3で中二病はないだろう!)。

読み返せば、じーんとします。「この日記は誰にも見せない」と書いてあるので、彼を尊重して、書き写したりはしませんが……ヤヴァイ。ポエム書いてる。コラムニスト気取りのものもある。「人生とは……」というようなことばかり書いている。ヤヴァイ、確かにヤヴァイ(でも、それって今と同じじゃね?あんまり変わってなくね?とか言わない!)。

でも、そんなに悪く言わないでって思うんです。人生いつも黒歴史、永遠の中学生としての、皆様へのお願いなんです。

もう17、8歳のころは遠くになりにけり。心持ちは分からないけれど、そん時はそん時なりに考えて、良いと思っていたのです。そして、今の私も、これで良いと思っているのです。だから、昔の自分も、それで良いと思っています。少し恥ずかしいけれど。

何かに一生懸命だった自分は、何かから離れてしまった自分からは、滑稽にうつる。だから、否定したくなる。それは、他者に対する視線にも同じことが言えますよね。何かに一生懸命な他者を「痛い」「イタい」と形容するようなものとして。

冷笑的であることは、そんなに悪いことではないと思います。でも、そのことが自分を苦しめたりするよねってことで。

過去の自分の精一杯を、他者の懸命さを酷く揶揄すれば、あるいは全く切り捨ててしまえば、今の自分が精一杯に、懸命になりたい時に邪魔になると思うんです。だって、未来の自分に否定されるかもしれないし。

そんな時代もあったねと、そんな人もいるのねと、軽く受け止める。茶化してもいいけど、馬鹿にしすぎない。今の自分は、未来の自分に笑われるだろうけれど、それはそれでいい。そんな感じがちょうどいいんじゃないかなあ……と思います。