ブログ「いらけれ」

土曜日には、「小説的思考塾」に行ってきた。きっかけは、小説を書くことになったからではなかった。そもそも行きたいと思っていたが、会場の場所がよく分からないから予約しなかったというのは、本当に行きたかったなら、もっとよく調べればよかった。そもそも、どこかへ出かけようという人間ではないのだ。部屋にいたいわけではなかった。
会が始まる前には、きっかけをくれた人と昼食をとっていた。巣鴨の駅前は、とても道幅が広い。東京ではないみたいだ。ガストもジョナサンも混んでいたから、大戸屋に入ったが混んでいた。混んでいたが、扉を開ける前に階段を上っていたから、そこで待つことにした。待ち始めてすぐに空いていた席は、オペレーションのための時間調整の末、僕たちの席になった。味噌カツ煮定食を食べた。壁に掛かった時計の長針がとても見づらかった。それなりに美味しかった。それなりに安かった。
巣鴨駅の反対側に会場があった。駅のすぐ近くだった。30分前なのに、椅子席はほとんど埋まっていた。100人ほどは入っていただろうか。背もたれのない木の丸椅子だった。前日にされていたツイートを見て、電車に乗る直前、家の近所の100均へと駆け込んで買った白と灰色のストライプの薄いクッションでは、ダメージを軽減できていなかったようで、2時間後の腰が痛みを感じていた。

聞いた話は宝だが、その通りに小説を書くことはないだろう。それは、規範への忠実さを問題視する態度とぶつかる。新たな規範に、ただ従っているだけではないか。それで良しとするのは、長考をしないということだ。何よりもまず、自分の頭で考えてみること。それでも、「小説は時代の制約を受ける」という言葉は消えないだろう。生きていない、詳しくもない時代だったとしても読み手が、その記述が孕むリアリティを見抜くのだとしたら、書くべきものが見えてくる。あと、「人物は悪く書かずに良く書く」というのは守ってみようと思う。たしかに、不幸な出来事と悪い人間を書くのは簡単だ、そして、人間の良い部分を書く、読み手がそれを美点だと思えるように書くのは、とても難しい。

懇親会では人見知りを爆発させて、一緒に行った二人でずっと話していた。これなら同じだからと会場を出て、街を回って、無印良品のやっているカフェに落ち着いた。そこでまた、カレーを食べながら話した。「ジビエカレー」だったが、ジビエはよくわからなかった。豆がたくさん入っていた。店の中央には柱があり、柱の下部には、コンセントを潰したと思われる白い四角があって、こういう事実は想像では書けないよなって思った。

出掛けた日は必ず頭が痛くなることを確認した。そんな帰り道だった。風呂のなかで目元を揉んだ。溢れる湯を気にせずに、顎まで浸かった。温かな湯のような暮らしは、いつまで続くのだろう。考えていてもしょうがないので、考えるのをやめた。

ブログ「いらけれ」

お気に入りのガラス片を見つけて、大事に手に持って走っている時のような、楽しみにしているアニメの、放送時間5分前のような、むずむずとした気持ち。僕の家のカレンダーの日付の上には、世界の名所を写した写真が、むしろそちらがメインという大きさで載っていて、月が変わる度に、リビングに新たな異国の窓が開く。
12月は台湾、高雄、美麗島駅のステンドグラスだ、確かに綺麗だけど実物じゃないとやっぱり迫力に欠けるな、などと思っていただけで、そのことに気が付いたのは、20日経った昼間だった。よく見てみた。中央の大きな柱に目を奪われていたが、その奥に、小さな人影が写っているが、それは人ではないようだ。並んでいる二人はパネルで、もっとよく見たら分かった。たまちゃんとまる子だ。
知っているだろうか、と思う。「あの写真、ちびまる子ちゃんが写ってるの知ってた?」って得意げに言いたかったから、夕飯の時に言おうと思っていたが、忘れた。今は深夜で、だから明日の朝を待っている。

南野のリバプール移籍すごいなあ。いつかのユーチューブで、いつかのCLの試合のダイジェスト動画で、海外の実況が発する「ミナミノ」が、「フィルミーノ」に聞こえるってコメント欄が盛り上がっていたあの時には、全然想像できなかった未来。本当にすごい。

毎日Mリーグを見ている僕は、近藤pの麻雀が面白過ぎるとか、魚谷p、茅森p、和久津pは女流モンド杯で馴染みがあるといった理由で、セガサミーフェニックス推しになったわけだが、今日は、それまで苦しみに苦しんでいた和久津pの初トップということで、もちろん泣いた。フラットでいることのメリットも知っているつもりだけど、人生はやっぱり、何かに肩入れして生きていた方が良いと思う。体験の厚みが違うから。
それにしても、和久津pのインタビューは印象的だったなあ。見ている人の多さを、"目がいっぱいある"という言葉で表現していたけれど、大きなプレッシャーには、そういう抽象性があるのかなあと思った。

商店街に、今年オープンしたインド料理屋の前を通ったら、テナント募集中になっていた。日本に来て、夫婦二人で、といったストーリーを、非常に勝手ではあるが、想像して泣ける。東村山が閉店ラッシュでヤバい、という話は別途あり、でもそれは、栄えている一部を除いて、この国のほとんどがそうなのだろう。緩やかに衰退していく街で見る夕空は、むしろ美しかったりするから泣ける。

ブログ「いらけれ」

読んでいたら、いつか読み終わるもの。それが本。『いろんな気持ちが本当の気持ち』と『クライテリア4』を読了した。でも、読み切ったかどうかって、全然重要じゃないと思う。大切なのはちゃんと読むこと、分かっていても、その"ちゃんと"が難しい。

「せつない」って言葉について考えていて、可能性の縮減もたらす感覚なのかなって思った。どうとでもありえた夏が、このような夏として固まって、最後の花火に今年もなる。綺麗に咲いているひまわりも、いずれ萎れてしまう。叶わなかった恋の思い出が、反実仮想を連れてくる……。すべての物や出来事、時間の背後には可能性の気配がある。そのように世界は、可能性に満ちているけれど、そのほとんどは可能性のまま消える。仮に可能性が実現したとしても、永遠にそのままではいられない。可能性たちは、ただ消えるのでも無くなるのでもなく、もっと大きな存在感を持って、ごそっと世界に穴を開ける、その穴が「せつない」と表現されるのではないだろうか。

そこにある背の高い木の、正確な高さは分からない。先にバラバラと音が聞こえてきて、姿は見えないけれど、存在を疑うことはない。視線を固定する。視界に黒い塊が入る。遠くにあると、はっきりした形状が分からないから、ヘリコプターには見えない。こちらへと向かってくる数センチの黒い塊は、少しずつ大きくなっているはずなのだが、人間にその微細な変化を捉えることはできないから、上へ上へと昇っているように見える。宇宙まで行ってしまいそうな黒い塊は、あるときその正体を見せて、見慣れた機械に収束した。

17日には、渋谷らくご「しゃべっちゃいなよ」の創作大賞を決める回に行ってきた。

本当に全員面白かった。新作だからネタバレになってはいけないし、内容を細かく書くことはしないけれど、振り返ってみると創作の勉強になるような高座ばかりで、そのすべてを僕の引き出しに収納した。小説を書かなければならなくなってからというもの、物事の見方が変わってきたように感じる。
どうしたら人を笑わせられるのか、誰も完璧には分かっていないはずだ。それでもネタが書けるということの不思議さ。完璧ではないけれど、何かがある。人の心を動かそうと思うのならば、その予感としか言えない感覚を、形にしなければならない。そして、誰かの心を動かせるかもしれないという不確かな可能性に、全身全霊で賭けていかねばならない。僕にその覚悟はあるのだろうか?
……よく分からないけれど、来年も「しゃべっちゃいなよ」は続くということなので、来年も見たいなと思いました。生きねば。


受賞した談吉さん。良い顔。


全員で集合写真。幸せな空間だった。

ブログ「いらけれ」

インフルエンザについて人間は、罹るまで自分だけは罹らないと信じているから、僕はそれを恐れているわけではなかった。花粉症の頃には欠かせないマスクの箱がずっと玄関に置かれていて、何となく取り出してひもを耳にかけた。口の周りが温かい程度ではどうにもならなかった。その日が飛び切り寒かったというわけではない。僕は出掛けた。ポイントサイトで申し込んだモニターに当選したから、モニター品のお菓子を買うために。
主にドラッグストアに置かれていると説明書きがあって、販売中のドラッグストアチェーンの名前が並んでいた。先頭に書かれていたのが家に一番近いドラッグストアだったから、余裕綽々で入口を抜けて、お菓子コーナーへと一目散に向かって、見つからなかったから棚の周りをぐるぐると三周したけれど無かった。
そこから旅が始まって八坂駅の方へ、いくつかのドラッグストアをのぞいて、ローソンにも置いてあるというから遠くまで歩いて、4種類味がある内の1種類、絶対に抹茶味は買うようにと指定がされていたのだが、ココア味とチーズ味しかなくて、次は東村山駅方面に、またいくつかのドラッグストアに入ってみるがやはり無くて、東村山駅近くのローソンにはチーズ味とメープル味しかなくて、とぼとぼと家に帰らない。見て見ぬふりできなかったのだ。ローソンにおける置き場所が、カロリーメイトや一本満足バーの近くだったことを。そういえば最初のドラッグストアでは、スナック菓子やチョコ菓子は見たけれど、そういった栄養補助食品の類は目にしていない……。
あった。1万8000歩、3時間をかけても見つからなかったお菓子が、家のすぐそばにあった。「青い鳥」みたいな話だ。ドラッグストアで栄養補助食品を買ったことがなかったから、お菓子があるのはお菓子のコーナーだけだろうと早合点してしまったのがいけなかった。僕はとても愚かな人間だと思った、そんなことは知っていた。

知らなくていいことまで知ってしまったと思う。知らないのに元気な人を見ると、知っている人である僕は不安に思う。知らないでいる人は、知らないことさえ知らないことさえ知らないのだろうから、余計にそう思う。でも、知らなくていいことは知らない方が幸せだと思う。この世に存在する、あらゆる苦しみとか。
そんなことより、『読書実録』が届いた。出掛ける前に数ページだけと読み始めたら、33ページ目まで止まらなかった。でもそれは、ベストセラーの「一気に読みました」という売り文句とは違う読まないでいられなさだ、次の文を呼び込む力は、普通は句点が置かれていそうなところに、読点が打ってあったりするからなのだろうか。ミステリーでもないのに、解けない謎を抱えて読んでいる。