ブログ「いらけれ」

自分の名前で、自分が真に書きたいテーマではない、職業的に書いた文章が掲載されているのを見ると、なかなかに苦しいものがあるな。こう見えて(こう見えて?)、根が真面目だからなおさら。お金もらってネトウヨ的な主張を書くのとなにが違うのかと、考えたり考えなかったり、考え込んでみたり、考えすぎて頭が締め付けられるように痛くなったりしている。普段は殊勝なことを言っている僕だってさ、どんなに倫理的に無理なことも、仕事だと思うとできてしまうわけだよ。心が暗くなるね。
いつかは書きたいものだけ書いて、それでお金がもらえるようになりたいものだ。そのためにはもっと頑張らなければならない、そんなこと分かってる。

明け方にトイレに入って、家のトイレには小さな扇風機が、手すりのところに取り付けてあるんだけど、それを見て顔だ、と思った。なんでそんなものが転がっているかといえば、机に並んでいる本の本立てにしたり、筋トレに使ったりするからなのだが、水の入った2lのペットボトル君と比べてみよう。人間は、目が二つありさえすれば、比較的簡単に顔だと思ってしまうところがあるから、目を付ければ、彼のボディも顔になるだろうが、やはり扇風機と比べると顔感がない。要するに、面のあるなしということなのだろうか。しかし、映画泥棒の踊るカメラの、あのカメラはとても顔に見えるのに、カメラは面という感じがないなと考えて分かった。つまり、"面と向かえる"ものなのだと。カメラも扇風機も、私たちと対峙する。だからそれは、人間の顔が、人間にとって対峙すべきものであるように、私たちと面と向かう顔を持っているのではないか。……そう思ったか、それか、寝ぼけていたかだ。

教室に二人だった。朝早く待ち合わせて、二人で一緒に歩いて、二人で一緒に階段を上って、ここまでから当然だ。その時はたくさん笑っていたように思う。笑っていたことだけを覚えている。その後に仲違いすることになる僕たちが、同じ時代に生まれたことには、果たしてどのような意味があるのか。違った場所で生まれて、違った場所で生きていればよかった。今となっては、全部過ぎてしまったことだから。


detune. / ムシバメルモノ PV

夏が終わります。僕の夏が終わってしまいます。希望と絶望と後悔を思い出にして、おそらくもうすぐ終わってしまうようです。
それがなんであれ、終わってしまうということは、せつないことですね。せつなさは、ぼくの中で「ムシバメルモノ」と繋がっていて、せつないときには頭にこれが流れます。
些細なことが、取るに足らないことが、一晩寝たら無くなってしまうような心の動きが、そういものを集めたものが人生だって、そう思います。やっぱり人生って、ただただ人生だってだけで、本当にせつないものですね。

ブログ「いらけれ」

書こうと思っていたことがあったのだが、ちょっとした都合によって当てが外れて、それを書くことができず、今困っています。今あなたは困っている人を見ています。しかし、書けない書けないと言っていても、新しい一日はベルトコンベアに乗ってやってくるわけで、やはり毎日ブログを書くというのは、とても大変なことなのだなあと思う。そういう感じでスタートするブログ。

日常を書くんだ、日常こそが面白いんだ、という強い思いがある。日常に足つけて、しっかりと今を生きていけば、書くものが勝手に"向こう側"に行くと信じている。……勘違いかもしれない、誰からも褒められないから。でも、誰かから貶されることもなくて、ずっと向こうまで静かな湖畔にでもいるような気分になる。あまりに静かな。

『なぜネット社会ほど権力の暴走を招くのか』が、面白くなくて困る。詳しいデータが挙げられているのはいいんだけど、思考の形跡が見えないというか、結論ありきの議論に思えて、論述についていく気がしないというか。一方『可能なる革命』は、序章まで読んだところだけど面白い。分かりやすいし、説得的だ。でも、これは知っている面白さだ。そういうの、なんだかなあって思う。
とにかく金になるのは知っている面白さなんですよね。アクセスを集めたり、リツイートされるのは。めちゃくちゃ狭いところで、それを分かる固定客相手にやるか、一番メジャーなことで、国民全員に薄くやるかしかないわけです、今のところのインターネットでは。僕がやりたいのはそのどちらでもないってことは、いつも読んでくれている皆は分かってくれていると信じているけど、なかなかどうして、やりたいことをやっているだけでは苦しいです。でも、世界のためになるのは、僕のやろうとしていることの方だと確信しているから、続けていきますよ、金のためじゃないんでね。

大変な災害ばかり起こって言葉もない。どこかに静かな場所がないかと、世界を見つめてしまう。落ち込んでいると、心に新しい火をつける出来事があった。その話は明日できればなと思う。あと、心の中に狼を飼っているという話は、明日しようと思う。とにかく今のいろんなことが嫌だって話も、ツイッターでは書いたけど、詳しくは明日書こうと思う。また明日、あなたが読んでくれると嬉しい。


クイズを語る。【WOWOWぷらすと】


いまさら聞けない「人狼」【WOWOWぷらすと】

クイズの話、めっちゃおもしろいなあ。広大な知らない世界が深掘りされる、まさにぷらすと的な回。もちろん僕が、もともと裏側の話が好きだということもあるんだけど。
人狼、将棋の棋士が人狼やる番組とか見ていたし、なんならカード持ってるし、知ってはいたんだけど、久しぶりにやりたくなった。前のバイトで、どうしようもなくバイトが集められた時に、やったことあるんですよ、僕だって。あれは楽しかったなあ。今は友達いないからなあ。

ブログ「いらけれ」

台風21号(名前:チェービー、韓国語で燕の意)が上陸した日のことを書こうと思う。

朝から頭がぼんやりと痛い。気圧が関係しているのか、それとも偶然なのか、よく分からないけど頭が痛いのは本当で、何もしたくない。

「荻上チキ・Session-22『遠野物語』から考える〜怪談は現代にどう受け継がれてきたのか?」を聞く。聞きながらいつの間にか眠ってしま
って、覚えているところまで戻って、聞き直すけどまた眠ってしまって……というのを何度も繰り返してしまう。テーマが怪談だったからか、なんだかすごい夢をいくつも見た。

寝たら頭痛もだいぶ良くなったので、昼間から酒を飲む。ブログを書こうと思うけれど、書きたいことが何も思い浮かばない。ここのところ、ずっとスランプみたいな感じだ。

台風の風のなか、病院へ。こんな日は出かけない方がいいのだろうが(病院も休むべきなのだろうが)。行きは雨も降っていなくて、風もそこまでではなかった。西友に寄ってBluetoothイヤホンを見るけど、ネットよりだいぶ高いのでやめる。

クリニックの待合室のテレビのチャンネルは、いつも日本テレビになっている。映っているミヤネ屋で関西方面がどうなっているか、そこで初めて知る。どんどん言葉が失われていくような、そんな光景で、今日のことをブログに書いていいものだろうかと思う。診察はすぐに終わった。

調子に乗って、コジマまでイヤホンを見に行こうとしたのが失敗だった。強烈な風と雨。状況が酷くなるほど、テンションはあがる。テンションが上がっているということは、状況が酷いのだ、ということを教訓として覚えておこう。なんとか生きて帰って来られた。それだけでよかった。

前方からの強風に、大きな道路を挟んだ向こう側の歩道を歩く小学生たちが楽しそうな声を上げる。子供はそれでいいというか、子供にはそれでいて欲しい。雪が降るときも、大人はしかめ面しかしない、それが間違っているのだと思う。でも、大人には責任があるから、小学生たちに付いていた保護者はしかめ面をしていて、それは危険から守る必要があるからだし、それはそれで正しいと思った。

家に帰ったら、少しだけ書けた。

夜は王座戦の第一局(イケメン対決だなあ)をメインに見ていた。ずっと先手が良さそうではあったものの、後手の勝負の仕方が上手くて、終盤は非常に難解になった。ドキドキしながら観戦していたら、付けっ放しにしていたテレビのヤクルト-中日戦の9回裏がすごいことになっていく。6点差を徐々に縮めていく。途中、武内の4年ぶりのホームランなんかもあって、追いつかないだろうと思いながらも、なにかすごいことが起こっていることは分かった。嵐の夜だ。

結果、王座戦は先手の挑戦者が勝って、ヤクルト-中日戦はヤクルトスワローズが延長11回にサヨナラ勝ちした。この劇的なサヨナラ勝ちを、この日に、帰れなくなるかもしれないこの嵐の日に、わざわざ球場に行って、目の前で見た人は一生ものの思い出だろうな。

あと、ブログも書けた。こんな毎日の中で、僕は生きている。

ブログ「いらけれ」

僕たちには知らなくていいことがある。今の僕たちは、知らなくていいことまで、あまりに知りすぎている。とはいえ、知るべきことだけ知るなんて無理だし、知らなくていいことを知らないふりできるかといったら、そういうわけでもない。知ってしまったら、知ってしまったように生きるしかない。しかし、本当に知るべきことは、本当に知りづらいところにあるものだね。

「倉本聰の偉大さについて——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」17」
ライターにとって、怖いコラムだった。確かに、カルチャーを扱うサイト(アレやアレ)のインタビュー記事って、今大体こういう感じだよね。文体は、無意識のレベルで作られているという面があり、それが恐ろしいわけで。
しかし、多くの人がアレを読みやすいと思っているとしたら、PVが伸びるだろうし、むしろああやって書くだろうというのも想像できる。これは難しい問題だなって思ったり。
とにかく、金もらって物を書く人は、内容よりもまず文章に対して特別な気づかいをしなければならない。最低限。その先ってなると、また違うものが問われるってことで。(全部わざとだよ)

『ぐっとくる題名』を読み終えたので、図書館で返却。次はなに借りようかとふらふらしていたら、大澤真幸の『可能なる革命』を手にとってしまう。"しまう"って書いたのは、大澤真幸の本なんて何度も読んでいるわけで、「知っている著者の本を借りない」という自分ルールに反しているからだ。でも、読んでみたかったんだもの。それで、時間的に厳しいし、だいぶ負担になるけれど、二冊借りることにした。社会学の棚で目に留まったのはジュリア・カジェ『なぜネット社会ほど権力の暴走を招くのか』で、それにした。書名が興味の中心に近いというのが大きな理由で、著者プロフィールに「夫は『21世紀の資本』著者トマ・ピケティ氏。」ってあったから借りたわけではない。でも、それはそれで後押しにはなった。読み終えられるかな、まあ無理なら人生で初めて延長すればいいか。


洪申豪 – Morning / 吠吠狼TV

自分のブログを見返すことも、一度聞いた曲をもう一度聞くこともあって、それで、僕にとって大事なものが、他の人にとってはそうではないかもしれないことが、鮮烈に分かった瞬間があったんだ。
僕がこうして"かろうじて"生きていること、この今にいることを可能にした宝物だって、誰かにとっては道端の石と変わらないのかもしれない。でも、それはそれでいい、それはそれでいいだろう。誰かの宝物だって、僕にとっては道端の石だ。
ただ、それが僕の中で、とっても大事であることを尊重してほしい。大事だと思っているものをではない、大事だと思っていることをだ。その思いをだ。それはもちろん、誰かが何かを大事だと思っていることを、僕は尊重しようと思うという、そういうことでもある。
お互い大事なものを抱えて、そして、お互い大事にしているものがあることを尊重しあうなんて、なんと素晴らしいことだろうか。僕たちの間に、それが実現したとしたら、どれだけ素晴らしい世界になるだろうか。これが、僕の理想。