ブログ「いらけれ」

久しぶりに夢を見た、と目が覚めた。起きる必要がないから眠った。

『チャパーエフと空虚』は”花婿とは、アーノルド・シュワルツェネッガーのことだったのだ”という超面白い一文がある小説で、夢/幻覚が描かれている。

読んでいたからかもしれないが、私は知らないスーパーマーケットにいる。病室のような引き戸があり、その向こうに日用品の棚がある。日用品としか言えないのは、無数の商品が並んでいるからだ。一つ一つが潰れている。私は、それを扉を開けた瞬間に見た。

夢を見て、そこで見たスーパーマーケットなどなく、あるのは私の脳だけだ。それでも、私は私が見た、と言うだろう。私には、その光景が私のなかにあったという実感はなく、私には私が見たという実感がある。

つまり、私が家を出る前に、家の外が私の中にある。スーパーマーケットがあり、スーパーマーケットの店内がある。仮構された都市がある。私は、その虚構に無自覚だ。無意識の構えがある、だからこそ驚くのだ。予想がなければ、予想外はない。

私の夢を作ったのは無意識の私だが、その無意識の私に、私は会いたい。無意識は意識できない、意識できないものを無意識と呼ぶ。だから、無意識の私に会うというのは、叶わない夢だ。

ブログ「いらけれ」

ゴールデンウィークのせいで仕事が溜まっていた。少しずつ片付けても、片付けたそばから別の仕事が振ってきて、終わりそうにない。朝から晩まで、大げさではなく休みなく働いていた。疲れた。

ファミマの「ガトーショコラ風チョコ」で命をつないでいた。おいしいものを食べると元気になる。これとプロテインドリンクで三大栄養素を補給しながら、ずっと働いていた。疲れた。

かかってきた電話の対応をしながら、別の案件のデータをエクセルに打ち込んでいる。まともな人間のフリをして、ペラペラ話している私を滑稽だと思う。自分ではないみたいだ。

パソコンの画面を見て、一日が終わっていった。私は何がしたかったのか。何をしたくなかったのか。そもそもしたいことなんてあったか?考える余裕も気力もないまま流されていく。

東京ドームから大勢の人が出てくる。皆が電車に乗り込む。ユニフォームの人がいないから野球ではなく、グッズを身に着けた人がいないからアイドルのライブでもなく、若者は少なく、皆が普通の格好をしているから、ツイッターで検索したらミスチルのライブだった。「国民的」というのは、こういうことなのか。特徴のなさが、なんだか好ましかった。

各々が各々で生きて、各々で死ぬ。自分もその内の一人。親が死んでからというもの、死を身近に感じるようになった。死ぬまでにできることをしたい。今すぐできることだってあるのに、面倒に思ったり勇気が出なかったりして、諦めたりしない。そういうのはもうやめる。

編集者になりたかった、というわけでなかったが、なったものはなったし、もう少しこの仕事を続けるつもりでいる。この世は地獄よりも終わっている場所だ、だからこそやれることをやったらいい。間違いないよ。

ブログ「いらけれ」

仕事終わりに東京ドームの三塁側でヤクルトファンを謳歌できるほど水道橋に職場があって、しかし仕事は終わらないのである。休憩する暇もなく、じっと手を見る隙もない暮らし。

なんで生きてんだろか。分からなくなりそうだったから昼休みを捻り出して歩くと、すぐに神保町に着いて、通りすがりにブックカフェに入って見る棚に「頭の体操」と「人間失格」が並んでいる。

これまで出会わなかったであろう二人だ。並べちゃいけない感じがする。目に入った"体操"と"失格"が、対義語にさえ思える。

「頭の体操」が呼び起こす微温的な向上心と「人間失格」がイメージさせる前のめりなアンニュイがぶつかっているのだ、私は分からなくなった。

めまいで店を出ると夏さながらの日差しだ。そうだ。私には、体操も失格もいらない生活があったのだ。まあ、これはこれで悪くないか、と思った。

ブログ「いらけれ」

小説の登場人物ががんになり、私は「身体に力が入らない」という震える声を思い出した。私は、その言葉になりきらない声を聞いた瞬間に理解していた。世界は悪い列車で、頼んでもいないのに発車して、それぞれの苦しみに向かって進み続けているということを

仕事が終わって、スーパーの惣菜コーナーで、全部の弁当の中身が土か粘土みたいに見えて、とても困った。食べることを拒否したかった。唐揚げ弁当を買って食べた。暴力を振るっているような、あるいは振るわれているような気分になっていた。

生活が苦しく、人生が苦しく、いずれ訪れる死が苦しいのなら?それでも生きる理由もないのなら、わざわざ生きる意味もないのだから、いつまで生きていられるのだろう。

去った昨日より生き抜く今日よりもマシな明日が、どこにあるのか、私にはまだ分からないでいる。