ブログ「いらけれ」

今日日見られなくなってしまった雑踏を思い出していると、思い出された私は目を閉じ、耳を塞いでいた。緩やかにカーブしたレールの先には駅があり、異なる目的を持った人々でごった返していた。けれど、60兆個の細胞で構成されている人体ほどの複雑さはなかった。どれをとっても、生まれて死ぬだけの、人だ。

かくいう私も生まれて死ぬだけの人で、それはあなたも、あなたの大切な人も、大切な人のいないあなたも同じなのに、無数の出来事で埋め尽くされているこの世界は、この当たり前を忘れさせてしまう力で満ちているから、普遍的で特別な私たちは、日々のありふれた争いに、よせばいいのに、身を投じてしまうのだろう。

それでも、昨日より素晴らしいはず今日がここに、ここにありさえすれば私たちは、希望を抱きながら生きることもできるのに、その朝が来ないかもしれない人にかける言葉はなく、そうして初めて、手持ちの言葉が、前に伸びていく時間を前提にしているのだと知った。生の波打ち際で、消えゆく泡を見つめる者に許されていたのは、ただそこにいることだけだった。

人類を救う音楽が流れるイヤホンの向こう側から侵入してきた喧騒に目を開けると、そこは家で、それはそれは静かな部屋で、そこには人がいて、私もいた。泡のように消え続ける時間を見送りながら私は、もしも、この時間のことを知る人が、この世界からいなくなったとしても、ここにあったすべては、この宇宙の外側の、形も時間もない場所に、そのままの形と時間で保存されたはずだ、そうに違いないと確信した。同時に、涙がこぼれた。