ブログ「いらけれ」

これこそ"コントの基本形"というような、トラディショナルなスタイルの楽しい小芝居は当然コントなのだが、現代においてそうしたコントを見かける機会が少ないのは、個性が求められる時代に他者との差別化を図るのならば、コントらしくない何かをコントの中に導入しなければならないからだろうし、新しいアイディアが入ってないものには需要がないからだろう。その意味において、どうやらコントを理解していないらしき者(兎)たちによる、話がズレていったりツッコミが過剰だったりする小芝居は、まさしく若手芸人たちが作るコントのような気がしないでもなかった。

28歳にもなって何を今更という感じだが、人間というものは、それぞれに世界の見方が違うんだなあと思う。特に、演芸の見巧者の感想には、はっとさせられることが多い。私はどうしても、映画を観ても小説を読んでも、まずは構造に意識が行ってしまう。しかし芸能に詳しく、そして鋭い批評眼を持つ人は、演者の姿形や身体、振る舞いに注目し、自分の目に見えたものから考えを初めているように感じる。そうした細やかさが私にはない、そして、舞台上にあるものと私が交わったところに生まれているはずの"印象"を脳内に保ち、言葉を使って出力することができない。
もちろん特性は悪いものではないし、すべてをカバーできる人間はいないのだから、このような私の生きる道もあるのかもしれない。しかし、足りない部分ばかり気になってしまうというのが、人間というものだろう。

笑うことを「顔が綻ぶ」と言うけれど、笑いは綻びなのかもしれないと思う時、しかし、ただ壊れていればいいという訳でもないらしい、というあたりが私の、関心の中心である。「綻びる」を辞書(デジタル大辞泉)で調べると、「縫い目などがほどけること」が第一の意味として出てくるわけだが、縫い目がほどけるように顔がほどけてしまうような出来事は、確かに失敗や間違いが生み出すことが多いものの、しかし、むしろ顔を強張らせてしまうような失敗、間違いもあり、どこかに分岐点があるはずで、それを見出したいと思う。

なんというかこう、自分の厄介さというか、私は厄介な客なのだろうな。変なことばかり考えて、しかし、客席で難しい顔をしているタイプの人間ではないけれど。普通に笑っているけれど。気が付いたが私は、「○○とは何か」の空白に、いくつもの言葉が入れられるような、そして、それを考えたくなってしまうようなものを面白いと感じるらしい。ふーん、ならそういう文章を書くか、と思った。思ったところで書けなかった。

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支度が済んだら外へ出よう。駅のホームに電車が到着する。通りすぎていく車窓に、人影はまばらだ。私はそこに乗り込み、座った。「男らしさの終焉」を読んでいるうちに、いくつかの駅に停まったのだろう、ふと本から目を離し車内を見回すと、いつの間にか6人掛けの長い座席が8割方埋まっている。そして、ほとんどの人がマスクをしている。その白には威圧感があり、少し緊張してまうが、かく言う私もマスクをしている。花粉症だから、と言い訳したくなるけれど、病への恐れがあるのも事実だ。私を見る誰かにも、この緊張を強いているのかもしれない。

演劇に限らず、落語や小規模な音楽ライブといった舞台を見る時はいつも、始まってから少しの間、その世界に入り込んでしまうまで、とても緊張する。気分が悪くなったり、倒れたりしたらどうしようと、それは他のお客さんに迷惑をかけたくないというのもあるし、それ以上に、映画との比較で考えれば、私の振る舞いが舞台上に影響を与え、ステージを台無しにしてしまうのではないかという恐怖があるのだろう。観客、向いてないのかな。

「コントとは何か?」というコントを見ながら、私はさまざまなことを考えていた。「とは何か?」という問題は、とりわけ表現の分野において、大きなテーマになっていると思われる。自分の話をするのは恥ずかしいけれど、小学生の頃に詩を書きましょうという授業があって、書けなかった私はべしゃべしゃに泣いた。まず、詩がどういうものなのか聞いていない。聞いても、よく分からない答えしか返ってこない。だから書けないのに、クラスメイトはペンを動かしている。そのプレッシャーに耐えられなかった。
詩とは何か、多くの人が分かっていないのだろうし、そもそも、分かるものなのかも分からない。しかし多くの人は、詩という言葉に付着しているぼんやりとしたイメージで、分かった"つもり"になって、満足しているのではないか。その当たり前に、どうしても納得できない。
多くの詩と呼ばれているものを読んで、それを分類し、体系化することはできるだろう。だが、そのような分析の末に、詩らしく書かれた詩は、詩なのだろうか。それは詩のようで詩ではない、詩もどきなのではないか(その先には、なぜ詩もどきではいけないのかといった疑問も出てくるわけだが)。真面目に考えれば考えるほど、表現者は原理原則に向かわざるを得なくなる。詩を定義できなければ、詩が書けないからだ。
しかし、これは当然のことだが、それ(詩、コント、小説、演劇……)を定義することはできない。定義できたと思っても、その定義をすり抜けたり、拡張したりするそれが、必ず出現するからだ。あらゆるジャンルは、こうして揺さぶられながら進化を続けているのである。

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今日からまた、気分を新たに日記を書き始めよう。月が変わり、このサイトのサーバーの更新月になって、やっぱり少し考えてしまった。でも、もう少し続けようと思えたから、クレジットカードで決済した(始めた時は3240円だったのに、3300円になっていた。増税の奴め!)。読む人がいなければ、やめていたかもしれない。幸いなことに、こんな日記を読んでくれている人がいるらしい。それだけが日々の頼りになっている。来年も契約更新できるように、健康的に不健康な文章を書いて、面白がってもらえたらいい。

しかし、どうしたら文章が面白くなるんでしょうねえ。分からない。何が面白いのか分かっていないから悩むのは当然で、毎日書き始める前に30分ぐらい、これは比喩ではなく本当に手で頭を抱えている。唸ったら名文が書けるのかといえば、もちろん書けない。
しかも考えた末に、それを使うとは限らない。例えば、「ギャラリー」の最後の段落は、「敵は我なり、届け雷」というLAMP EYE「証言」の歌詞の引用がしたくて、そうやって書き始めたものの、次第に書きたいことが変わっていき、あの内容になった。よくよく読むと若干脚韻を踏んでいるのは、こうした経緯があったからだ。
設定された「面白くする」というゴールはあってないようなもので、だから、神様の彫像を作っているみたいだ、と思う。見本がないのに正解を出さなければならない、という感じ。私程度でもここまで悩むのだから、表現で生きている人の苦しみは、想像を絶する。

配達人の鳴らしたチャイムで目を覚ました。Amazonが目覚ましだった。ずっと閉じていた目はぼやけていたが、それは眼鏡をかけていなかったからだ。受け取ったのはチョコと本だった。大きな段ボールの中身はすかすかで、申し訳程度にくしゃくしゃの紙が入っていて、緩衝材の役目を果たしたのか疑わしいが、特に表紙が傷付いたりはしていなかったけれど、その雑すぎる梱包に「ははーん、Amazonの人Amazon使ってないな」と思った。

その時間に起きるつもりではなかったけれど、起きて良かった。私は起きなければならなかった。ナツノカモ低温劇団本公演「月の裏側」は新宿プーク人形劇場で、午後2時から開演だ。冬のように寒いのか、春のように暖かいのか分からないからベランダに出る。その外の空気は今まで通りで、何一つおかしなところはないのに、やはり影が差している。平静は装わなければならないものだと知る。簡単に、おかしくなってしまうのだから。

ブログ「いらけれ」

数えるのをやめた。無駄な時間。死んだから。

暖かくなったり寒くなったり、どういうつもりなんだとキレたから、小高い丘の上から大声で叫んだ。エメラルドグリーンのフェンスの向こうに街があり、とても見晴らしの良い場所だ、ここは。子どもの頃から、何かあったらいつもここに来ていた。何があったかは、とてもじゃないけど言えない、だって今、(何があったっけ)と過去を思い返して、もう涙が出そうになっているもの。6月の早朝に、死ぬほど泣いた日。

目が覚める度に、また嫌な夢が始まるな、と思う。ずっと幸福でいられる錠剤だけを飲んで、そのまま忘れたいという気分の時は必ず、玄関の扉が重たくなるから体重をかけて開ける。この車は、湖の底に沈んでいるのかもしれない。

すれ違う女の子のピンクの、懐かしいあの素材の手提げ袋には何が入っているのだろうか、立ち止まって、袋に手を入れて、何かを確かめて、一足先に行ってしまった背中を目がけて、ばっと走り出した。学校帰りらしき子どもたちは一様に、重たそうなものを両手一杯に抱えていた。どうしてこうなった?

グレイソン・ペリー「男らしさの終焉」によれば、(習慣化されてはいなかったものの)19世紀までピンクは"男の子の色"だったという。大人の男性の赤い軍服のイメージから、この色が、小さい男性である男の子のものになったそうだ。その後、ピンクは徐々に"女の子の色"へと変わっていくわけだが、この変化をさらに大きく後押ししたのがアイゼンハワー大統領の妻・マミーで……という、さらに興味深い話については、本文を読んでいただきたい。

急だよ。自分の身体が路上に転がっている。植え込みにチューハイの缶が捨てられている。営業中の焼肉屋で世界が煙たい。電話を耳に当てているのは、カズーみたいな声の人だ。大学生の頃、肺炎で通院していた病院に、ショベルカーが刺さっている。移転したのは知っていたはずなのに、取り壊されると思っていなかった。もう、あのベッドや窓や木漏れ日はない。感傷に浸る間もない、前の薬局もない。それはそう、それはそうだろうけど早いよ。務めていた薬剤師の、思い出の場所もない。何もない。

ピラスターとは、付柱のことである。久しぶりに、建築学の本を読みたい気分である。あと、パチスロの〇号機みたいな、あの難しい歴史はウィキペディアでは足りないから、まとまった書籍で知りたいところだが、そういう本は出版されていないみたいだ、誰か書け。この通り、つまらない日常は装飾するしかなかった。だから生きて、日記を書いて、たまに読み返して、「この人は大丈夫なの?」って心配になって、それは何一つ本当ではないのにとても悲しくなるのは、なぜだろう。