ブログ「いらけれ」

プロ野球の、契約更改って本当に好き。人の年俸を知るなんて、なんて面白いコンテンツなんだ。こちらから見て、思ったより高い、安いもあるし、選手も金額に対して高い、安いを言ったり、ときどき保留する人が出てきたり、自由契約になる人もでてきたり。僕は、お金も資本主も嫌いだけど、お金に右往左往する人間の話は好きだよ。あと、お金は嫌いだけど、ないよりはあった方がいいから、ください。

諸事情もあって、もちろんブログもそうなんだけど、平日の午前中とかに、家のパソコンで文章を書いているわけだけど、文章を書いているときにラジオを聞くようになって、TBSラジオなんだけど、今までは聞いていなかった午前や午後の番組を聞いて、「ああ、僕のブログも、こういう風になりたいな」って思った。つまりね、文章を書いているときは、脳のほとんどを文章を書くことに使っているわけで、聞いてるといいながら聞いていないというか、耳にしつつ、半分ぐらいは内容が入ってきてないというか、でも、その邪魔にならない感じがいいなって思ったんだ。で、ちょっと詰まったとき、休憩したときには、まあまあ面白くて、ときどき、すごく聞き入ってしまうような内容もあって、みたいな。だから、僕のブログも、スマホで音楽を聞きながらとか、ラジオを聞きながら読み流して、そんなに集中するものでもなくて、でも、読んだら読んだで、その人のなかに何かが少し残るようなものを。

大げさに言うと、感動に打ち震えながら、これを書いている。みなさん、ホットミルクって飲んだことあります?いや、あるよっていうね(笑)ほんとホットミルクなんて、何年ぶりに飲んだんだろう。忘れてしまったくらい昔のことだ。電子レンジに「牛乳」というボタンがあることも知らなかった。なにか温かいものを飲みたくって、それで何を入れるでもなく、ただ「レンジOK」というシールが、5年以上前に買った時から貼りっぱなしのコップに牛乳を注いで、チンしたものの、口を付けたら一度目はぬるかったから(「牛乳」というボタンなのに!)、二度レンジにかけて、パソコンの前に座って、ゆっくりと飲んだら……ほらあなた、もうホットミルクが飲みたくてしょうがないでしょう?

TBSラジオといえば、スペシャルウィークをやめるらしいね。『深夜の馬鹿力』でネタ(あの、リスナーを仲間にする感じが、深夜ラジオの手口だよなあと思った。分かってる側に付きたい、付くことが嬉しいという心理)にしていて、確かにスペシャルなゲストやプレゼントで聞く人は、結局いつも聞いている人じゃないわけだし、聴取者の数字を知りたいというのならば、普通の回で調べるべきだとも思うし、一リスナーとしても、スペシャル回より通常回の方が好きだったりすることは多いけどね。「スペシャルウィーク」をやめても、なにか番組自体や出演者に特別なことがあれば、スペシャル回もやるんだろうし、まあいいんじゃないのとは思うものの、これは前にも書いたけど、野球中継をやめたことや、『粋な夜電波』の打ち切りも合わせて、局の内側で何が起こっているんだろうというのは、すごい気になっている。

ブログ「いらけれ」

流通量自体の増大という問題は、間違いなくあると思う、言葉の。だから、明らかに不誠実なことを言っている人や、嘘をついている人、問題発言を繰り返す人が、多くの社会問題と言葉に埋もれて、薄まってしまっているのではないかと思う。大きな問題を、「大きな問題だ」と騒ぐことで、問題が矮小化されてしまうという構造があるわけで、やっぱり別の戦い方をしなければならない。

思い出すことと、繰り返すこと。動物のなかで人間は、動物らしからぬところがあるとすれば、思い出す必要のないことを思い出し、繰り返す必要のないことを繰り返すという、神経症的な性質ではないだろうか。

無理してでも読まないと、あ、書き忘れていた借りた本。『エンタテインメントの科学』って奴で、未来の僕のためになるかなあと思って。ほら、僕の目指すはエンターテイナーじゃない?サイケデリックな表紙のわりに、中身はまじめな感じなんだよなあ。というか、読み終えられるかなあ。また延長してしまいそうだ。

東京ポッド許可局で「東村山問題」が話題になっていたね(投稿者の局員さんのことは、以前からネタが読まれるたびに「東村山だ」と気にしてた)。僕としては、誰がどこに住んでようと気にならないし、東村山であることも恥ずかしいと思ったことはないかな。それこそ昔は、市外局番が03じゃないことが恥ずかしかったとか聞くけど、ぜんぜん、いや僕が特別に能天気なのかもしれないけど、何も思わないし、何かを思ったこともない。

また書けるようになって嬉しい。ここからもう一度、私が始められる。創作行為だけが、この世界の輪郭を浮かび上がらせ、解像度を上げる。この終わらない映画の、たった一つの動きも、逃さないように。

ラジオ番組が十周年とか、二十周年と聞くと、とてもすごいことのように感じるのは、番組っていうのが、入れ代わりが激しいからということからも、そう感じるのだろうが、でも、おじさん40年同じ会社に勤め上げました、みたいな、そう考えると、そっちの方がよっぽどすごいことに思える……てか、それが当たり前みたいになってるけど、そういう社会のシステムができあがって100年たってないわけで、ラジオが普及するようになってからも、まだ100年たっていないし、でも、なんでか分からないけど、ずっと、このままこうして、同じルールや仕組みのなかで暮らしてくんだっていう"感じ"が、はっきりとあって、そのなかで最適化しようとか、人生設計をしようとか考えるけれど、実は、はっきりと分かる形で変わってなくても、システムは変わってるし、変わってく。でも、それでも、このシステムが続くという"感じ"の方が、人々にとってはリアルなので、人々は変わらないと思って生きる。

ブログ「いらけれ」

あらゆる人間には暗部があるだろう。当然、表現者にも。暗部の濃さによって、表現されるものの輝きが変わるのではないだろうか。つまり、深い闇があるからこそ、創作によって、強烈な光を放てるのではないだろうか。ちなみに、僕の暗部は濃い。もちろんそれは、あなたには分からないだろう。なぜなら暗部として、慎重に、執拗に隠されているからだ。今はただ、自分の暗部に飲み込まれるように、光は内側に向かい、少しずつ巨大化している。

今日は暖かくて、ゆったりとした気持ち(を持ちたい、そのためにはどうすればいいのかと、参考にならなそうな、せわしない墓場のカラスを見ながら思った)で、普段はしないのだけれど、小平霊園の中をぐるりと散歩して、小春日和というかなんというか。敷地の外に出て、公園の遊具を見ながら、「絶対に安全な遊具」について考え、そんなものないよなと思い(どんな遊具でも、危険に遊ぶことができるし、本当に、その危険の芽すら摘み取ってしまうならば、もうそれは遊具ではない)、事故も世界の一部分なのだから、やはり(自分も含めて)確率的に人間が処理されて、しばしば思ってもいないような悲劇の弾が、どこかの誰かに当たり、それはそれでしょうがないというのが、望ましいのではないかと思う。神の視点を持つことができれば、それでいいのだろう。しかし悲劇が、自分や自分の近しい人に降りかかるのは御免だという気持ちは、拭い難く誰にも存在していて……ここで、スマートフォンでツイッターをのぞくと、タイムラインが「ゲートウェイ」という文字で賑わっている。確かに、通常あり得ないセンスだろうが、しかし、しかしである。自分の人生は、この「ゲートウェイ」を付けてしまうセンスを馬鹿にできるような、おしゃれでセンスのいい暮らしをしているだろうか。僕はだから、何も言わないで黙った。

WordPressで作られた我がサイトのテーマ("ないもんねだりはずっと人生のテーマで")である「Luxeritas」を、久しぶりに更新した。細かく細かく、いろいろなことができるようになっていて、テーマ自体も軽いし、本当に良いと思う(使いこなせていないけど……)。読んでいる人には分からないことだが、ブログの入力画面が、更新の度に少しずつ変化していて、文字の大きさとか見た目が、それによって(微々たるものかもしれないが)、ブログの内容も変わっているのではないかと思う。目に見えるもの、表に出ているものの裏側で、さまざまに起こっていることがあって、語られることのない真実で、目に見える世界はできている。


GRAPEVINE「TIME IS ON YOUR BACK」from 15th Anniversary live at NHK Hall (2012.09.26)

ブログ「いらけれ」

「M-1グランプリ」を見ていた。本当に年末なんだなあって思う。全然、そんな感じしないけどね。子どもの頃は、M-1つったら、テレビにかじりついて見るもので、熱中、没入しながら、真剣に分析するものだった。あの「お笑いコンテスト番組」に対する熱、それが『東京ポッド許可局』に出会うことにつながった(TBSラジオで番組になる前、ポッドキャストだった時代に、M-1の感想を三人で語り合う特番をやっていて、一人で考察しながら、悶々としていたときに、誰かの意見が聞きたくて、検索で見つけたのだった)わけで、兄弟の影響で「お笑い」の英才教育を受けていた僕は、同世代よりも早く、『爆笑オンエアバトル』のチャンピオン大会を、深い時間を無理して起きて見たりとか、あの頃は、もしかしたらプレイヤーとして向こう側に立てるかもしれないという可能性を見ていたのかもしれず、とにかく「テレビでやっているお笑いのネタ番組」には、並々ならぬ思い入れで未定て、今ではその頃の僕のように、お笑いに熱を持って、ツイッターにコメントをつぶやいている人を見ると、自分の冷めた気持ちを確認する。そういう人を否定しているわけではなくて、自分が年を取って変わったということ、自分にもっと好きなことや熱中するものがあるということなのだろう。ただ、見たら見たで、やっぱり楽しくて、普通に笑って、普通にネタの途中で他の番組に変えたり、スマホをいじったりしていた。細かい分析や考察もしないで、点数の予想や、審査員への批評もしないで、解像度の粗いまま、いいお客さんとして声出して笑っていた。「お笑い」というものへの幻想がなくなり、距離が取れたことで、肩の力が抜けて、いい感じだ。これがベストな付き合い方なのかもしれない。

片方の親指と人差し指の指先だけ、色が変わっていて、スマホが操作できるという手袋を、100円ショップで買った。まず、色が違わない手袋を作ってほしいし、高くなってしまうのかもしれないけれど、その指先の素材だけで作られた手袋がほしい。あと、これを書いているときに、久しぶりに「デジャヴュ」が来た。こんなつまんないこと、俺、もうすでに書いてんの?

ずっと気になっているのが、「私たちの世代は~」「男としては~」と、言いたいことを別の何かに代表させて言うか、あるいは、「これは私の好みなんですけど~」と先回りして、ツッコミや反論を封じてから何かを言うか、人々がこういう話し方をするようになっていて、やはりみんな責任を取りたくなかったり、反論されたくなかったりするのだろう。とかいって、僕もこういう手法を取ってしまうことがあって、だからこそ、「私は、これこれこうだから、こう思います」と、逃げずに話していきたいなと思う。


GRAPEVINE – Alright (Music Video)