ブログ「いらけれ」

濃い青色のユニフォームを着たホームのチェルシーと、薄い水色のユニフォームのマンチェスター・シティの試合は、首位を無敗でひた走るシティ有利という大方の予想に反して、チェルシーが勝利した。同じようにボールを握り、パスを回して相手守備を崩すスタイルを取る両チームだが、らしさを出せていたのはシティの方だったように思う。しかしフットボールは分からないものだ。アスピリクエタに代表されるような、最後の最後の一歩、粘り、体を投げ出す献身が、チーム全体として我慢を続けたことが、実を結んだということなのだろうか。ただ、普段のシティならば、どんな我慢の表面張力も決壊させてしまうような、決定的な仕事をしてしまうものだけれど。圧倒的な個と、緻密なタクティクスから生み出される、驚くほど正確なプレイが、この日ばかりはわずかにずれ、少し狂ってしまっていた。

終了のホイッスルが鳴らされて、陶然としたりインターネットしたりしていたら、午前4時になってツイッターのタイムラインを見たら、『粋な夜電波』の実況ツイートが流れてきている。そうか。僕は、主にアンケートに答えるという、やらなければならないことを終えたら出かけようと思う、早朝に。タイマー録音された『粋な夜電波』を聞きながら、真っ暗な街に繰り出そう。目論見通り、午前5時にはドアを開けることに成功した私は、もし可能ならばポッドキャストを、どこかで一人しゃべりを録音しようとICレコーダーを持って出た。

『粋な夜電波』で「アンニュイ・エレクトリーク」がいきなりかかって、小躍りしながら歩き出したのに、おかしい。僕は、そこそこ暗くなっていた数時間前にも外にいたはずだ。その時と同じ外套を羽織っている。しかし……とにかく寒いのである、とにかく恐ろしいほどに。死ぬかと思う。歩いている内に、温かくなるなんてこともなかった。意地で、プランしていた中央公園までは歩いた。園内で、シリアスなコントが流れているときに、すべての疑問が氷解した。

もう午前6時になっていたが、暗い。この時期は、こんなものだったかと、人のいない商店街を行くと、右手の空が少しずつ明けていっている!その美しさに感動して、少しだけそちらの方へ歩いて、一本違う道へ入ったら建物で空が見えなくなってしまった。家に向かってふらふらと、それに合わせて徐々に明るくなっていく。その色がまるで、チェルシーとマンチェスター・シティのようだ。夜が終わって朝が始まることを、僕の細胞や遺伝子が喜んでいた。昼間は暖かくなればいいな。きっと太古の昔、人が人を始めたばかりのころに生きていた人も、僕と同じ気持ちで夜明けを見たはずだ。

ブログ「いらけれ」


小沢健二 – ぼくらが旅に出る理由(Single Edit)

心がわりは何かのせい?

またTwitterの名前を変えた。ずっと懸念としてあった、ラジオその他に投稿しようという思いが強まってきたこともあって、「頭痛派」という名前を、僕「後藤」の一人ユニットの、ユニット名にしようかなと思って。コーネリアス型というか、タブーレーベルから最近デビューしたオーニソロジー型というか。「頭痛派後藤」だと、なんだかよく分からないしね(まあ、「頭痛派」としたところで、なにかが分かるようになるというわけでもないが)。それで、将来的には僕を教祖とする宗教団体「頭痛派」を創設したいですよね、嘘ですけど。でもでも、"頭痛派"を、本当に複数人からなるグループにするつもりはありますよ。ただ参加してくれる人がいないだけで。あなたが加入してくれれば、すべてが解決するのですが……君も頭痛派になってみないか?

自分のものを読んでもらうためだけに、僕が「note」にあげている駄文にハートを押す人がいて、そういう努力をしなければ読んでもらえない(努力をしていない僕は、だから読まれていない)という現実があるとしても、「僕は嫌いです」と、ここでちゃんと言っておこうと思う。

散歩をしているときに、高校時代の同級生の名前を思い出した。その日は朝から調子が悪くて、風呂に入って、こたつでうたた寝をしたら、体が熱を持ったみたいになってしまっていた。冬の空気が冷たかったのがよかったのか、名前も思い出せたし、コンディションも改善されたようだった。
夜には借りていた本を、明日返さなければならないと焦って読み始めたら、どうやらチョイスミスだったみたいだ。モノを知らない僕でも、ビンビンと違和感を感じる記述が一杯出てくる。読むのが辛い。頭に入ってこない。横になりながら読んでいたら、眠くなって、少し寝る。深夜に起きて、早く読み終わらなきゃと、再び本を開いたものの、「筆者が釣りに行って、魚を釣り上げたときの写真が~」という文章と、笑顔の知らないおじさんの写真があったときに、「あー……」と思って、これが決定打となって読むのをやめた。
うんざりした気持ちで、テレビをつけたら、ちょうどフットボールのビッグマッチが始まるところだった。選手同士が、危ないタックルを巡って揉めている。数年前には、実際に同じチームだった選手だっているのに、なぜか今のチームのために本気になって勝とうとしたり、仲間のことを思って怒ったりする。今揉めている二人も、いつか同じチームに所属するかもしれないのに、激高して、喧嘩して……この話は続いて、あなたがうんざりした気持ちになった(なっている)としても、明日には、そのことが書かれるだろう。

WOWOWぷらすとの「2017年もありがとうSP」を見ていた。2018年が終わろうとしているというのに。人生の負の期間に、ずっと見られていなくて、今年後半はなんとかアーカイブを消化できたので、やっとこの回を見ることになった。面白かった。
番組の回数が減り、終わりかけて(?)いる今、僕に何ができるだろうと考える。もちろん、すぐに何かできるわけではない。10年後は36歳で、もうM-1優勝者は年下だけど、とにかく今から頑張らなければ、10年頑張って何者かになれば、番組に対して、どんな形であれ恩返しできるかもしれないと思う。働いて、潜伏して、勉強して、きっかけをつかんで。

ブログ「いらけれ」

※WordPressが更新されて困っている問題、とりあえず「Classic Editor」というプラグインを導入することで、ひとまず以前の入力環境を手に入れることができたので改善されました。もしお困りの方がいらっしゃいましたら、導入してみては?

「カップヌードル 北海道ミルクシーフー道ヌードル」
今年の11月から発売されているという、このカップヌードルの新商品。もちろんポテト感があったりするので、ただ牛乳を入れたものとは違いますが、あの、シーフードヌードル(よく食べます)に、牛乳を入れるのって普通ですよね?まあ、もうインターネットとかでも散々こすられている食べ方ですし。そりゃ僕も、食道の道場生として試しておりますし、ほぼ毎回のように入れて作っておりますから。せっかくの新製品ならば、もっとアバンギャルドな、意外性のある組み合わせがほしいところですよね。ごま油味とか?

『荻上チキSession-22』を聞いているから、聞きたくもない、大臣のひどい答弁などを聞くわけだが、そういう国会の音声を聞いて思うのは、やはり二人称的な問いかけの正しさと、それを聞いた聴衆がどう捉えるのかというのは、まったく違うということだ。どれだけ正しく詰問していたとしても、第三者がそれを聞いたときに、質問者側に悪い印象を抱いてしまうということはあって、だから、真の意味で議論に力を持たせるためには、聴衆に訴えかけるやり方を考えてほしいと思う。しかし、そうやって聴衆の感情や印象に訴えかけようとする、ある意味において詐欺的な手法を、一番使っているのが誰かといえば、権力を持っている彼らなわけで、基本的には、僕らが賢くなるのが望ましい。

三年間一緒だったのに、夢のなかに出てきた高校時代の同級生の名前を、夢のなかで思い出すことができなくてショックで、そして今も思い出すことができていない。積み重ねたたくさんの瞬間も、そこにあったものも、起きたことも、取っておくことなんてできなくて、止めることのできない大きな川のような時間によって、すべての存在が流されていく。可能ならば外側に立って、ずっと思い出を保ったままで、川の流れを、たばこを吸いながら眺めていたい。


SPARTA LOCALS「ハート」

今、感じてるイラだちも 良い思い出とすり変わる

いつかこうして、書いていることも思い出になって、ルールが変わって、好きな番組も終わって、ミュージシャンも芸人も死んで、親も死んでしまって、愛すべき暮らしが、いつまでも続くわけがないことを思うと切なくなる。心が三人称視点になって、すべてが虚しくなる。

嘘だらけ バカばかりさ だけど踊れ

ブログ「いらけれ」

あー、あー、あー、読めていますでしょうか。いやー、Wordpressを更新したら(5.0になったそうですよ、奥さん)フォーマットがだいぶ変わっておりまして、、、めちゃくちゃ使いづらい感じをしております。困ったなあ。文字数も表示されないし、文字入力する度に、なんか画面が白くちらつくし、かなり厳しいですね。12月7日の22時だっていうのに!いろいろ衝撃的で、書きたいことを忘れてしまった……ブログ最大のピンチだ。と、いうことで、これは一旦グーグルドキュメントで書かれているということを頭に入れながら、読んでいただくといいかと思います。ああ、辛い。

そういえば今日の昼間に、このサイトのお問い合わせから、初めて日本語のメッセージが来ていて、topmediaの鈴木幸子って人から、広告を出します、お金出しますみたいな内容のものだったんだけど、秒でググったら、やっぱりこれスパムというか、メールしても返事が来ない系のやつらしい。てか俺の人生、こんなことしか起こらねえのかよ!

出版社から、名前もなく「各位」とだけ書かれたお祈りの手紙が届いて、あり得ないなーと思うと同時に、ああ、またこのことを書こうと思う自分もいた。すべてをネタにしたいわけじゃない、ネタにでもしないと、やっていられないだけだ。

入社二年目の僕に、初めてできた後輩は女の子で、まあ、世間的に見ればそれなりにかわいいのだろうということは、彼女によって社内の男たちが、それまでと何一つ変わりないつもりで、いやらしく浮足立っていることからも分かるわけだが、僕はどうしても中学の担任、いつもジャージの体育教師、松岡修造に憧れて熱いメッセージを言おう言おうとする吉田に、どこか似ていることに気づいてしまったときから、「顔、吉田の風味が入っているなあ」としか思えなくなった。

僕が「つくりたい本」というお題で、書いた作文がこれだ!!


普段の生活のなかで「つくりたい本」がよく浮かびます。例えば、このほど人気ドラマの『相棒』が、薬物依存の表現で物議を呼びましたが、「フィクションは現実の丸写しではない。フィクションであることを明言しているなら、どんな表現をしてもいい」という考え方と、「たとえフィクションであっても、特定の人々に対して、偏見を助長する表現はやめるべき」という考え方は、どちらにも理があるように思えます。この先には、劇中で犯罪を美化して描くことはどうか、ヘイトスピーチが出てくるものはどうか、といったことも問題となるでしょう。こういった日常の問いを、専門家の知見で捉え直すような本を作ってみたいです。
また、今年読んで心に残った本が『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』というアニメーションの表現史を扱った本だったので、例えば、アニメキャラクターに付された声に、よりフォーカスして表現史を辿るような本も手掛けてみたいです。


受からなかったけれど、自分の考えは変えないし、自分の書いたものには、少しだけ、誇りを持っている。