ブログ「いらけれ」

2018年12月18日に、渋谷らくご「しゃべっちゃいなよ」を見てきた。一年間行われてきたネタおろし会の傑作選であり、そのなかから大賞を決める回だ。僕は、2015年の第一回から3年連続で見てきて、今年で4年連続となった。毎年、奇跡が起こる回だし、なんなら、その年一番声を出して笑うのが、この回かもしれない。それは今年もそうで、だから皆さん見に行かれるといいと思いますよ、来年の12月には。チケットは争奪戦だけど。



「渋谷らくご大賞 おもしろいい二つ目賞」を受賞した柳亭市童さんと瀧川鯉八さん。市童さんは、今年高座を見ることができてよかった。「夢金」すごかったなあ。同年代ということで、応援していきたい落語家さんの一人だ。鯉八さんは、今年この日の高座まで見ることができなくて悔しかった。ラジオだけじゃなくて、本業の方も追いかけていきたい。ああ、帰りに「大成金」のチケットを売っていらしたのだが、「ちゃおら~です」と言うべきだった、言うべきだったことに今、気付いた。相変わらずぼんやりしている。


「ペラペラ王国」で「創作大賞」を受賞をした笑福亭羽光さんと、それを囲む4名。それぞれに特色があり、ワールドを持っている人同士の争いで、「創作落語」と言いながらも、まったく違う山を登っている人たちなのだなあと、そりゃ審査は難航するだろうなあと思った。しかし、なかでもこの日の羽光さんの高座は、やはり飛びぬけていたように感じられた。落語でありながらメタ構造を用いて、しかし、複雑な構造がちゃんと理解できて、物語が面白いだけではなく、さらに語られる言葉の、細かいツッコミまで笑えるという。また、おじいさんと孫が、あることに気づく(ある可能性に言及する)途中の展開にはぞくぞく。そこからつながるオチも見事で、本当に素晴らしかった。

昇羊さんは、以前現代を舞台とした新作を見たことがあったので、創作古典でのチャレンジに驚いた。そしてその完成度が非常に高かったので、不利なトップバッターながら大賞を感じさせる高座だった。仕草だけで、あの爆笑を巻き起こすのだから!

きく麿師匠は、シブラクの生配信で見た「だし昆布」に続いて、この日もすごかった。笑い死ぬかと思った。衝撃を受けたという意味では一番。だってだって…と分析して語りだすと、1時間ぐらいかかるような(実際1時間ぐらい友人と話しました笑)、この体験を反芻しながら、これを自分の創作に取り入れたい!(無理!)

鯉八さんは、いつもの世界観炸裂。小さな心の動き、機微を二人の会話で増幅させて、コミカルに描くのがすごい。「都のジロー」にも、通じるところがあるような。ただ、羽光さんが下ネタを封印して大賞だったように、チャレンジが受け入れられやすい場なので、むしろ鯉八さんらしくない創作の方が、コンテスト的には有利だったのかもしれないなと思った。

昇々さんも、同じ理由で不利だったように思う。また、最後という順番も、客としての体力的に笑い疲れていたところが(少なくとも僕には)あった。でも、それでもあの爆笑ですもの。高座での動きを含めた生の魅力や、その面白さは、もう誰もが認めるところ。僕は、昇々さんの作る落語の、登場人物の人間らしさが大好き。勝手ながら、この先も新しい落語を作り続けてもらいたいと思う。

いや~、やっぱり「しゃべっちゃいなよ」は最高だし、そのクオリティと、この先の未来を担保しているのは、なんといっても彦いち師匠なのではないだろうか。だって、一番ムチャクチャな話をしてるんだもの!大将が、一番破天荒というところに勇気をもらい、希望を感じましたとさ。おしまい。

ブログ「いらけれ」

書く人間の生活。書き始めた人間の生活は、書かなかったころには分からなかった。書かない人間には、書く人間の生活が分からない。書くことが中心にある生活。それは例えば、初めて「自転車に乗る」ということの感覚を掴み、しかし、そこで止まり、そこから降りるための手段を持たない少年のような、回転し続ける足。少しずつスピードを出せるようになって、公園の芝生の上ならばどこへでも行けるようになって、安定して進み続けているものの、夕暮れになれば、転んで終わることを運命付けられている。転ぶまで、走り続ける。自転車に乗れない人間には、さっぱり分からない例え。

この二日くらいで、『少年ハリウッド』を2期の終わり、26話まですべて見た。10時間ほどだろうか、本当に楽しかった。少ハリについては、僕はまったくの当事者であり、冷静に見ることも語ることもできない。「スパイシーフローラルフルーティー体育館」「ごぼう&バンバンジー」のように、いくらでも小ネタを書き連ねることはできるけれど、そういうことがしたい訳じゃないし。このアニメを見ると、クリスマスが特別なもののように感じるから不思議だ。年末に芝浜を聞くように、クリスマスには少ハリを見たいものだ。
もし続きを作るのならば、彼らはネットの生配信をしなければならないだろうし、SNSも、もっと活用しなければならないだろう。放送当時はあれでよかったアイドル事情とも、今では少し変わってしまったのだなあと思った。また、続きということならば、本格的な成功と、本当の終わりを描くことになるだろう。だからそれは、ぜひ見たいなあと思う(もちろん、頭の片隅にはTWICEのこともある)。
成功に伴い、劇的に忙しくなることで、メンバーの健康問題と労働問題は浮かび上がってくるだろし、上り調子だった人気が落ちていくということも経験するだろうし、人間のように、グループにだって、死は必ず訪れる……。だから、あの素晴らしい、パンチラインだらけの、緩急の付いた脚本で、その芯の通った構成で、これらの問題にアプローチしてほしいなあと。それを見ることができたら、これから先の人生に、どれだけ支えとなることだろうか。だから死ぬまで、続きを諦めないぞ、と思ったし、なんなら「俺が有名になって、一押しアニメとして紹介してやるぞ!」とまで思った。それは無理だけど。でも、日本にいるからこそ楽しめる部分もあるのに、多くの日本人が見ていないというのは、やっぱり損してると思うし……というか、26話の完全版上映、見に行くべきなのかなあ。

クリスマスだろうとなんだろうと、関係なく一人歩く僕が並木道を抜けて、通行禁止で柵の付けられた歩道橋の辺りで、彼女とすれ違ったんだ。赤系統のニット帽で、自転車に乗って、僕は「あ、サンタ帽」と思ったけど、そういうつもりだったのかどうかは分からない。ガン見してたら目が合って、ああ、恋というのは、こういうときに始まるのかもしれない。


Young the Giant: I Got (In The Open)

I got buried
No it won’t be long before I rise in

ブログ「いらけれ」

『少年ハリウッド』7話で、テッシーが言っていたことが、完全に忘れていたけれどJYP(TWICEの事務所です)の教え(謙虚な気持ちを忘れない)とまったく同じで、自分の中で一本芯が通ったというか、自分が好きなものの核心がそこにあるのだろうことが分かった。
というか、TWICEを好きになったのは、恐らくこのアニメを見ていたからで、そしてTWICEを好きになったことで、このアニメをより深いところで理解できていると思う。好循環。しかし、素晴らしいアニメを見ると、生きる気力がもらえるので、もっとアニメを見ていくべきだと思った。心のために。

フリーセルが、日に日に上手くなっている。毎日1時間ぐらいやってるからな。それで、なんになるんだろう、この技術。すべての技術に意味があるわけではないということ。無意味な修練というものがある。
一方で、将棋がまったく上手くならないという現実がある。毎日1時間ぐらいやってるのにな。こちらだって、上手くなっても意味がないけれど、どれだけやっても上達すらしないこともある。真理。

野菜炒め&鶏もも肉のソテーリベンジをやることにした。前回より長めにフライパンの上で焼いたので、しっかりと火が入っていた。そのかわり15分くらい暇だったので、一緒に買っていたクリームチーズのタルトとコーヒーを飲んでいた。シバハマラジオの金曜日を聞きながら、小さな黒い折り畳み式の椅子に腰かけて、ときどき鶏肉の様子を伺った。この時間に、このくたびれた人生のすべてが詰まっているような気がした。インターネットの文字をなぞって、弱火で炒めた野菜シャキシャキで、フライパンに当たらないほどの火で焼いたもも肉はジューシーだったし、一緒にウイスキーを飲んでいい気持ちになったけど、あの過去のあのくたびれた時間が、頭から離れなかった。うなだれた姿の僕が、これまでも、この先もずっと、そこにいるのだと思った。

図書館で借りていた『面白くて眠れなくなる社会学』を、明日返さなきゃと深夜に読んでいたら眠ってしまった(これが言いたかっただけ)。橋爪大三郎先生の本も読んだことあるし、初学者向けということもあって、あまり知らない話もないなあって、目を開けていられなかった。自分が既に、かなり詳しいのだということは、実は自分では意外と分からないことだったりして。もう入門ではなくて、少し前に進んでもいいのかなって思った。返すついでに、まったく見たことも聞いたこともなかった『もうひとつの愛を哲学する』という本を借りてきた。最近の本、当たっていないので、これは面白いといいなあ。


髭「TOMATO」

僕らしい視点や
僕らしい角度のアイロニー
それから…

ブログ「いらけれ」

ニコ生で一挙放送してたから、とりあえずタイムシフトしてた『少年ハリウッド』を見始めたら、やっぱり面白くて見入ってしまっていた(ブログ書かなきゃ……)。これが放送されていた当時は、アニメをすごい見てて、いろんな方法を駆使して、ほぼすべてのアニメの一話は見ていたし、かなりの本数最後まで見ていたというのに。今では、ほとんど見なくなってしまった。そんで、初回放送のとき評判悪かったよなあ、少ハリ。蒼井翔太さんの声も、すごい批判されていた。下手とか違和感あるとか。今では考えられないかもしれないけど。でも、僕だって最初は、テレ玉かテレビ神奈川かなんかでやっているのを、男子アイドルものでしょとかって、見る前から半笑いというか、少し馬鹿にしながら見て、あれなんかすごくねって、ニコニコ動画に公式で上がっていた一話を、繰り返し見た。それで、コメントとかアンケートとかで評判悪くって、世界に対して絶望を深めたのだった。話数が進むごとに、面白さを共有できる人が増えていって(というか、大部分の不満を言っていた人が去って)、その後に神回もあって、自分も本当にハマって。とりとめがなくなってしまったけれど、とにかく皆さん、少ハリを見ましょう。

ニコ生で大量のアニメをタイムシフト予約したが、これ年末までに見られるのだろうか。たくさんの一挙放送を、予約してしまったが。さて、なぜ僕がアニメをまた見始めたのかということです。僕の座右の銘は「ローマは一日にして成らず」(『少年ハリウッド』第一話より)ではなくて、「囃されたら踊れ」と「出会いに照れるな」なので、つまり、そういうことなのです。続報を待て!

アパートの並びのドアの真ん中に、何かのキャラクターの小さな顔がついていて、鼻のところから金属の、上に向いたフックが出ていて、そこにかけられたツリーの飾りで知るクリスマス。

「萌え」とは何なのだろうか。いわゆるゼロ年代批評で手あかのついた言説に代表されるように、キャラクターとは、大きな目や緑色の髪が表すように、記号の集合体であり組み合わせでしかないとしたら、萌えという感情も、キャラクターによって喚起される記号的な感情なのだろか。いや、それだけではないだろう。こちらもよく言われることだが、文学が描いてきたものは個別具体的な生であり、その具体性こそが人間一般を逆照射するのであって、キャラクターが私の中に生み出す感情は、キャラクターと私の間に生じる個別的なものなのだから、それは人間同士の恋愛のような側面を持っている。萌えとはつまり、振る舞いや仕草、「萌えポイント」という言葉に代表されるような記号と、私と〈あなた〉(というキャラクター)の間に生まれる割り切れない生々しさの混じった「半透明の感情」なのではないだろうか。