ブログ「いらけれ」

今日は引用でちょっと楽します。まずは、是枝裕和監督の言葉から。

「invisible」という言葉を巡って

映画祭とは、自らの存在が自明のものとしてまとっている「政治性」というものを顕在化させる空間なのである。目をそむけようが口をつぐもうが、というかその「そむけ」「つぐむ」行為自体も又、政治性とともに判断される。しかし、このようなことは映画監督に限ったことではもちろんなく、社会参加をしている人が本来持っている「政治性」に過ぎない。日本という国の中だけにいると意識せずに済んでしまう、というだけのことである。

次に、NBAのニュース。

キャバリアーズもウォリアーズも「ホワイトハウスには行かない」で意思が一致

今回のイーグルスの招待取り消しについてもレブロンはこうコメントしている。「ゴールデンステイトかクリーブランドか、どちらがファイナルに勝つか分からないけど、誰もホワイトハウスに招待されたいとは思わない。この国には自由がある。誰しもマナーに敬意を払った上で、自分のやりたいことをする権利を持っている。行きたくなければ行かなくていい権利があるんだ」

僕たちの政治との距離。政治というものに、僕たちは無警戒になる。あるいは、警戒しすぎているのではないか。大切なのは、柔らかな日常の中に政治を取り込むこと、日々の営みの中で政治を考えることだ。野球監督の采配に居酒屋で文句言うように政治を語ったっていいじゃない。昼食のA定食とB定食に悩むように投票先を考えたっていいじゃない。それぐらい政治と生活は近いんだというリアリティを、今を生きる人が持てるようにするためにこそ、僕(僕たち)は行動(発言)していくべきなのではないだろうか。少なくとも、僕はそう思って書いているよ。
※追記
これを書いて数日置いた。僕が本当に書きたかったこととは違った気がした。本当に書きたかったのは、僕が大好きな棋士たちの、「第3回 将棋電王戦」の振り駒に来た、あるいは、羽生竜王が国民栄誉賞を貰ったときの、首相への態度だったのではないか。その無批判な取り入れられ方、利用のされ方を見てしまうと、NBAやNFLの選手たちの振る舞いに、やはり少し憧れてしまう。アーティストもタレントもアスリートも、一般人だって公では政治の話をしないのが"普通"な現代日本において、例えば、是枝監督の示す政治への態度は、日本的ではないのかもしれないが……もう少し何とかならなかったのだろうか。(もちろん、彼ら(棋士たち)の中には現政権支持者もいるだろうし、だからそういう態度なのかもしれない。もちろん、誰を支持するのも自由で、そういうことならば批判するつもりはない。)

「荻上チキ・Session-22」特集 すでに定額働かせ放題…学校教員の過酷な労働実態に迫る
少し前の教育特集のこの回を聞いたときにも思ったことがあり、それを書こうと思う。ただ、ぼんやり思っただけのことなので、そんなに目くじら立てたりとかは、やめてほしい。怒られると怖いから。
人権とか労働者の権利を教える場でもあるはずの教育現場が、異常な労働環境なのは、冷静に考えるまでもなく直感的に「おかしい」とみんな思うだろう。また、ブラック部活動やブラック校則といった非合理的な事態も存在している。合理的ではない。でも、そういう非合理的なことが教育現場で罷り通るのは、そもそも教育というものが非合理的だからなのではないだろうか。
なんで学校に行かなければならないの?何を根拠に何を教えられ、何を教えるべきではないとして、何を教わってないの?そもそも教えてくれなんて言ってないんだけど……。
教育には暴力性であったり、非合理性みたいなものが潜在的にあり、だから、教える立場にある人たちも、そういった教育の「そもそものおかしさ」を問わないように、現場のおかしさを問わないみたいなことがあるのかしら?などと、ぼんやり思った。確かに、多様な人々を校則で一律に縛るのはおかしい。その人に合ったあり方がある。しかし、そんなこと言ったら授業の時間が一律なのもおかしい(集中力に個人差があるのだから)し、登校時間が同じなのも変だし……みたいに、あれもおかしい、これもおかしいってなっちゃうような気がする。(ただし、言うまでもなく、極端におかしいものは正さねばならない。)

昨日のフィクションのネタ元は、「文化系トークラジオ Life」での東氏の発言です(東は西で、UNOは1=市、惑星は彗星)。久しぶりに聞いてみようかな、この回。抜き出された発言を見て、今聞くと、感じ方も違うのではないかと思った。例えば、記事にある「モスキート音で人間を管理するなら選挙とかやめれば?」という東氏の発言を含む話を聞き返せば、昨日僕が書いたテクノロジーか教育かという問題について、すごいヒントを与えてくれそうだし。

「人に歴史あり」と思うのは、荻上チキ氏は、今でこそキリッとあんな感じ(報道番組の顔的な)だけど、2009年、「文化系トークラジオ Life」をパロッたラジオ(ニコニコ動画で今でも見れるよ、探してみよう)で、番組中、東浩紀氏と論争して(喧嘩を売って?)、で、その会話の中で「ある種」という言葉をめっちゃ使ってて、ニコ動のコメントとかタグで「アルシュ荻上」っていじられてた時代を知っているから。だから、こんな風になるなんて、本当に未来は分からないよね。(そして、あの頃は彼と彼も仲よかったのに……あんなに一緒だったのに。)

楽するつもりが色々書いてしまった。今日はフィクションはなし。だから、フィクションなしで言うけど、今読んでいる貴方のために書いてます……本当に。

ブログ「いらけれ」

冷静になると楽しくない時は頭をおかしくするのがいいよ

長く書くということがどういうことなのか、文章を読むだけの頃は分からなかったし、もちろん、毎日WordPressの文字数カウントが1500を超えることを目標にブログを書いている今も分からない。引用をしているから、全て書いているという訳でもないが、しかし、毎週1万字以上書くというのは大変だ。退屈なブログも、冷蔵庫の取扱説明書も、薄い新書も、書くということはそれなりの困難で、何についても、大変な思いをして書いている人がいると思うようになった。長さ、量、データ、書くための手の動き。それ自体が意味であることに気づいたが、この地点に人の気配はなく、荒涼とした景色が広がっていた。

「ほぼ日刊イトイ新聞 -読み直す2003」より

保坂
記憶を細かくつっついていくことは、
取り調べ室にいる刑事でもできるでしょう?

で、あんなやつ、
利口なわけがないじゃない。
細かく事実関係をつっつくなんていうのは、
知的な作業じゃないんですよ。

面白いなあ、と思って全部読んだ。前に一度読んだ気がするが、そんなことはどうでもいい。小説をめぐる思考。
保坂さんの言葉は、他の人があまり言わないことだから面白い。僕はよく、保坂さんの発言を引用したり、リツイートしたりするけど、保坂さんの言うこと全てが正解だと信じていると思われると困るし、引用した発言が正解だと思われると困る。言うこと全部正しい人などいないわけだし、でも、もちろん小説については保坂さんの発言が参考になるのは間違いない、プロの小説家なのだから。言葉を面白いなと思うこと、それを手に取ってよく眺めてみること、なにより自分の頭で考えることが大事だ。そうなんだ!ではなく、そうなのか?とし、ゆっくり湯船にでも浸かりながら、考えてみる。そういう態度が。
とにかく、僕のブログ記事は流し見でいいから、ぜひリンク先を読んでほしいといつも思っている。面白いから。あと、YouTubeで保坂さんの対談動画を検索し、見てほしい。面白いから。僕も先日、新しいものばかりではなく以前見たものも含めて、あるもの全部見た。

WordPressの子テーマが反映(有効化)されず、また、子テーマを編集しているつもりで、元のテーマを編集していたことに今気づいた。いろいろ試すが、なぜ有効化されないのか分からなかった。検索してたどり着いた情報に、有用なものはなかった。がっかりした。土台無理な話だ、サイトを運営するなんて。そもそもの知識がないし、勉強する気もないのだから。でも、思想家の西が、評論家の市田を「彼は雑誌『Comet』を作ったから偉い」と評価したことを思い出す。その言葉を思い出し、僕も衒いもなく思う。僕も、サイトを始めたから偉いと。

J.LAMOTTA すずめ – Chance

またP-VINEかと思った。Run For Cover RecordsとP-VINEのYouTubeアカウントはチェックしている。信頼しているから。あと、良いなと思うものの大半は、FLAKE RECORDSが先回りして取り扱っている。有難い話だ。
とにかく文章だけのブログってのは書いてられないから、読んでる方も読んでいられないだろうという感覚があり、なるべく記事に世界と通じる窓を作りたいと思っていて、だから写真を載せたりしているんだけど、YouTubeは今や一番の世界との窓になるから、良い曲に出会うと、本当に心から嬉しい。
良い曲だったのはいい。とにかく名前の「すずめ」とは何ぞやということで、お得意のネット検索探偵を発動、英語の情報を先に探したものの見つからず、「J.LAMOTTA すずめ sparrow」で検索し、ページを進んでいったらあった。J-WAVE「TOKIO HOT 100」の番組ブログによれば、自作の「Sparrow」という曲が収録されたEPのアートワークを手掛けたのが日本人デザイナーで、その人が命名したそうだ(「2018年03月01日 WHO IS WHO / J. LAMOTTAすずめ」)。将来有名になったときに(おそらくなるだろう)残しておいた方がいい情報だと思うから、ここに書いておく(まあでも、有名になったら絶対名前の由来を聞かれるだろうけれどね)。

「2018/06/09 今日のボイスメモ」

ブログ「いらけれ」

ただただ胃が痛く、そしてブログが読まれないことで心が痛い。腹痛と無気力。

『カフカ式練習帳』をペラペラしていた。短い文章を拾い読みしながら、参考になるなとか思っていた。小説の破片みたいな、この短い文章をそのままブログに転載したら怒られるのかなと考えていた。

BLが、友情やライバル意識といった、男性同士の互いの意識のし合いの中に恋愛を見出すものだとして、最近のドラマや映画でヒットするものが、特別なコンビだったりバディだったりする男女が、しかし、恋愛関係にはならないものである、というのがすごい面白い。恋愛でないものに恋愛を、恋愛になりそうなものは恋愛にせず、というのが。

二度祝福された西川遥輝。ナンノコッチャ&ワケワカンネーが集約された「幻の200盗塁」【えのきどいちろうのファイターズチャンネル#77】
ここで語られている事象こそ、「綺麗で悲しい」で言いたかった「世界が、ありがちなストーリーの”物語”ではないこと」で、これだからプロはすごくて、ちょっと嫌にすらなる。僕はまだまだで、作家なんて夢のまた夢、プロフィールは全部ふかしで、だからこそ、文章でもっと色んなことができるようになりたくて……なぜか短歌を作ってしまった。6月11日に公開予定なので、お楽しみにだぜ!

「菊地成孔の粋な夜電波」2018年6月2日放送分を聞きました(放送後記)。初夏のロレックス祭り。スズメバチとプーチン。チューバッカは毛が多い。
楽しかった。ミズノフの感じいいな。やっぱり、楽しいのが一番いい。楽しく行きたい。あと、菊地さんが「今夜はブギーバック」の歌詞がうろ覚えなところが面白かった。
中で、菊地さんが「自分で似てると思うのはタモリ」って言ってたけど、これ「GREAT HOLIDAY」の中継を見てるとき、僕も思った。だから、メールを送ればよかったって後悔したんだけど、でもこの話、以前菊地さん自身が話してた気もする。それを覚えてただけ(今は忘れているだけ)な気もするな。
僕は、全然誰が誰に似ているとか気付かないので、ネタを送れない。僕も、ボーっと生きているのかなと思う。

ヤクルトスワローズが連勝している。6連勝は三年ぶりらしい。ここまではピッチャーが抑えて、リリーフ陣が良い仕事をして勝ってた印象だった。中尾、近藤、石山。あと、カラシティー。しかし、今日は滅多打ちに打ちも打ったり打ち勝った。
今日は藤井七段の竜王戦の対局もあって、角換わりの難しい将棋のその中で△7七同飛成という解説の屋敷九段も「歴史的な妙手」というほどの一手があって、とても興奮した。気分がいいのはそのおかげだけだ。しかし、今日もブログは書けなかった。
書かれていないことは、まだ書かれていないから、まだない。私は、とても面白いことを思いついている。本当にそんな風に言えるのか?このまま書かないで私が忘れてしまったら、この世界から無くなってしまうのか?それは分からない。でも、とにかく書かなければ読めないのだから、これから書こうと思う。

「マキタスポーツ食道」2018年6月3日放送分を聞きました(第5回。ポッドキャスト)。今回はシチューの話。僕もクリームシチュー派、かつ、ご飯にかける派。
男性と女性でクリームとビーフの支持者の多数派が分かれるって話の中で、クリームの男性の支持者が多いのは家庭的というか母性的なイメージが影響しているのではないかと語られていたけど、言うまでもなく人間は食べ物だけではなくイメージも一緒に食べている。
それは僕だってそうで、僕は、シチューがかけられたご飯を食べるとき、いつも釈迦が食べたという乳がゆに思いを馳せる。文章でのみ知っている不確かな乳がゆというものに。もちろん、乳がゆはシチューをかけたご飯ではない。でも、シチューのミルク性と、それに浸るご飯によって、イメージが浮かぶのだからしょうがない。その不思議なイメージが、僕にシチューをご飯をかけさせるといっても過言ではない。
イメージといえば、番組中にオンエアされた矢野顕子の『クリームシチュー』を聞いて僕がイメージしたのはボーカロイドだった。矢野顕子の歌唱は、後のボーカロイドの歌唱に影響を与えているのではないか。あるいは、ボーカロイドの孕む心地よさを先駆けて持っていたのが矢野顕子なのではないか、などと思ったが、僕は音楽のことは分からない。さっぱり。

ブログ「いらけれ」

僕のポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」が更新されています。「2018/06/05 今日のボイスメモ」
一人で、外で喋ることにもだいぶ慣れてきた感じはあるね。ただ、独り言はどうしても自省的になってしまう(懺悔、告解を想像する)。別の語り方へ変身していきたい。

ラジオばかり聞いている。
「荻上チキ・Session-22」特集「ヘイトスピーチ解消法施行から2年。ネットはヘイトにどう向き合うべきか」
人間の邪悪さ、あるいは邪悪な行いに対して、どう向き合うかというときに、様々な対処法があるんだけど、そういう時に「テクノロジーで対処する」っていうのが出てくる(社会学者の鈴木謙介氏のブログ記事「雑記20180212」なども参考になる)。この、特集の中でも、そういう話が出てくるし、ちなみにバックファイアー効果の話(過去記事「信じるということ」)も出てきて、聞きながら色々考えた。例えば、差別的な言葉をツイートしようするとエラーを返すようにするとかも、やろうと思えばできて、それにはそれの問題点があると思うんだけど、僕はちょっと違うことが気になっている。
最近ラジオCMで「もし心を許した人間が元少年Aだったら」っていうのがあって、で、やっぱりこのストーリーが多くの人に訴求するのは、皆元少年Aが身近にいたら嫌だとか、怖いだとか思うからだろう。でも、元少年Aは(詳しいことは分からないけど)少年院だったりで"更生"を目指した教育を受けているはずだから、それを信じるのならば、元少年Aだろうと何だろうと構わないという考え方もあるはずだ。でも、そう思えないのは、私たちが教育を信じられないからで、私たちは教育をどう捉えるべきだろう、と思う。
差別を、ヘイトスピーチをする人間と、面と向かって丁寧に話せば相手が変わってくれると、私たちはどれくらい信じられるだろう。きっと私たちはそれを信じない社会に住んでいる(そういう社会になっている)。相対主義的に考えるのならば、良いとは何かを定義できないのだから、教育は無理……とか、色々原因や要因もあるだろうけど、とにかくそうなっている。そもそも、好ましい方向に教育するのは難しいし、愛情を込めて悪い教育をする場合もある(タックルをけしかける奴もいる)。
「教育できないんだからテクノロジーで」って言われたら、反論は難しい。でも、人間の人間としての何か、人間の尊厳に期待するのならば、テクノロジーでヘイトできないようにするのではなく、ヘイトをしないような人間を教育し、ヘイトをする人間に止めさせるよう話し合って働きかけるべきではないか。
私たちは何に期待し、何を信じるべきか。人間に期待するのか?大きすぎて難しい問いで、まだ僕には答えられない。
そんな感じで、また明日もラジオの話をしよう。

この不浄の血が、サラブレッドの条件なのだとしたら、そんなものいらない。私が一生を賭けざるを得なかったもの。それには、常に父の影が付き纏っている。だが、悲しみは、誰にも伝えることができないまま、私は死んでしまった。

ブルボン小林氏の連載「俳句ホニャララ」が終わってしまって(「Vol.22 この世に傍点をふるように」)すごく悲しい。
自分の知らないこと、自分が知らない世界はいくらでもある。ネット時代は特に。でも、だからこそ、知らないことってどうでもよくなっていて、知らないことは知らないというだけで興味なし、そして無視しがちだ(あなたはどう?)。本当は、自分が知っていることも、知らなかった時期があるはずなのに、だ。いつの間にか、自分の知っていること、好きなことばかり贔屓してしまう。
俳句ホニャララは、知らない世界(俳句という世界)の豊かさを、とても面白く、大変興味深く教えてくれていた。それが一番難しいこの時代に。内を外につなげるテクニックに、いつも、びりびりしびれていたから、とても好きだったのだ。
しかし、なくなったものはしょうがない。今度は、僕がそういうものを書けるようにならなければ、だ。