ブログ「いらけれ」

ポッドキャストを更新しました。「2018/06/13 今日のボイスメモ」
とにかく聞いてください、人助けだと思って(「石にかじりついて」を「岩にしがみついて」って言ってるとこは見て見ぬふりをしてね)。

経済成長にまつわる議論と原発問題の議論は相似形。良い悪いではない、正しい間違っているでもない。これらの議論が相似形をなしていることは、議論が持つある力、議論の人への作用を示している。

近頃問題になったあれやこれやに、僕がコメントしてないのは、知らないからでも、興味がないからでもなくて、おそらく僕が、先行世代の思想家や批評家、評論家たちの言動を見てきたからだろうと思う。影響を受けているのは、内容の面ではなく(そもそも影響を受けられるほどの能力ないし)、その振る舞いの方だ。言論は一つのゲームであって、生き残るためには、先行者とバトルするしかない。それができないヘタレは、誰も言わないことを言って存在感を示し、"おみそ"のポジションに置いてもらうしかないのである。だから僕は、(バトルは勝てないのでしない以上)その問題について、誰も言ってないことを言えないのならば、何も言わない。
「サブカル批評のサブカル化」の進行のおかげで、僕みたいなものでもその果実にありつくことができた。ラジオや読書が好きで、かつ、ペダンチックな性格のゼロ年代に青春期を過ごした人間たちには、例えば『文科系トークラジオLife』や、『思想地図』を避けることは難しかっただろうし、その本棚には、議論の詳しい内容も、議論の問題点も分からないまま、『動物化するポストモダン』、『カーニヴァル化する社会』、『ゼロ年代の想像力』等々が並んでいたりしたはずだ。そして、雑誌の創刊とか、会社を作るといった発表がなされる度にワクワクしたりしていただろう。
過去の発言が面白いのは、僕たちが簡単に未来人気分を得られるからだ(このフレーズは、タマフルの「雑誌・トゥ・ザ・フューチャー!俺たち未来人!!」という特集からいただいている)。僕たちは、色んなことがどうなるか、どうなってしまったかを知っている。僕たちは、スタート時に語られていた未来図や、これからの行動プランにワクワクしていた。そして、それはすぐに忘れてしまった。で、後に問題が起きるわけだ。そういう論争やいざこざは、それはそれとしてネタにして楽しんでいた。今、スタート地点に戻ってみると……語られていた理想が虚しく思える。
僕が見てきた世界では、思想ではない、人間的な理由の問題が起こりすぎていた。絶縁とか掲載拒否とか。やっぱり、どれだけ世界を明晰に分析できて、向かうべき社会像を提示できたとしても、頭が良くても、それを人間が実行するのは無理なのかなって思ってしまった。高邁な思想から作られた体制だろうと組織だろうと、携わる人間の体調や気分、性格難、コミュニケーション問題のせいで、絶対失敗する。
言論人たちは、バトルで残ってきているから、やっぱりバトルしてしまう。人間は誰しもさもしいのに、自分のさもしさに向き合わず、自分が間違わない前提に立って設計してしまう。賢い彼らが、その賢さをちゃんと使って、自己批判を踏まえた新しいシステムを作ることができるようにならないのならば、もうAIに期待するしかない。
(あ、でも『文科系トークラジオLife』や、株式会社ゲンロンは(形を変えながらでも)長いこと続いていて、それは本当にすごいことだと思う。)

野火止用水の、その側に大きな木が生えていることに今日気付いた。いや、ほんとにデカくて、川を跨いで根を張ってんの。1mくらいあるのよ、川幅。木の近くに橋が架かってて、木の根の下を水が流れていくのが見えんの。で、それが、ディズニーランドのアトラクションみたいだなって思って、いや、ディズニーランドのアトラクションがこういう自然を真似したんだよ!って、それは分かるんだけど、すごい木とかすごい滝とか、巨大な岩壁とかを見ると、アトラクション的な構造物を思い出すことが僕は多くて、それが興味深いなあって。


The Magic Gang – Getting Along (Official Video)

I can contemplate, but still I won’t remember
All the time it takes, can take until forever

曲全体も良いけど歌いだし、この歌いだしが、頭から離れない。脳内でループする。その歌詞の意味は、あなたが考えてください(僕は英語ができない)。

ブログ「いらけれ」

書き難いことを書く。それが練習になる。ジャンプジャンプしないと、ジャンプ力はつかない。文章でジャンプする、ジャンプするような文章を。いつかすごいとこまで飛びたい。ってこれじゃあ、今まで通りじゃん。

エモやんの解説聞くと、ありえなくてビックリする(エモやんキャンセラーが欲しい)。なぜサッカーの(地上波以外の)解説のように、野球を解説する言語が更新/論者が刷新されないのかというのは、本当に問題だ。
エモやんのするメジャー批判のようなものはハリー張本(そんな名前ではない笑)もするけど、それは、データに基づかない印象批評以下の何かだが、そういう話(日本の野球のレベルが高く、メジャーは低い)を聞きたい人ってのがいてね。願望を聞きたいのよ。「オンブレとロボ」でも書いたけど。
もし、データや事実ではなく、願望に基づいた言説の方がいい、そういうものが聞きたいって人がマジョリティになったらどうしよう、どうなるだろう、心配だ……というか、既に時代はそうなっている気もして、絶望するって感じもある。

僕は運命の人なんていないと思っている。東京ポッド許可局の「運論」で、マキタスポーツさんが、モテている人はチャレンジしている、打席数が多いという話をしていた。それはそうなのだろう。
僕は運命の人なんていないと思っている。打席にはしかし、満塁で回ってくるものもあれば、消化試合の打席もある。あなたがお金をかけなくても、この世界のどこかでルーレットはどこかで回っている。そこでも赤か黒が出ている。あなたはルーレット場に入り、その出目を見る。赤黒赤赤黒赤赤。あなたはベットを決意した。瞬間、次の一回の赤か黒かが、あなたにとって、突然全く違ったものになるだろう。
僕は運命の人なんていないと思っている。誰への告白の成功が満塁ホームランで、消化試合のホームランなのか、もちろん分からない。そして、これはややまやかしのようだが、ホームランを満塁にするのも、消化試合にするのも、あなたと相手次第であって、恋愛や結婚は野球ではない。
僕は運命の人なんていないと思っている。話が、言いたかったことから大幅に逸れてしまった。僕が言いたかったこと、それは、同じような試行の中にも重みが違うものがある、ということだ。重要な一回も、どうでもいい一回もあり、しかし、それは同じ確率や偶然、運のようなものに統べられている。
僕は運命の人なんていないと思っている。でも、運命はある。それはそれはしょうもない偶然の下に。

喋りが上手くなってる気がする(「ボイスメモを公開する。」)。いや、前々から上手かった、それなりに。でも、乗れないというか、ゾーンに入れないというか、そういう感じだったんだけど、最近は集中できるようになって、で、集中できると脳内に何か物質が出るような感じがあって、それで、色んな話題が出てくる。
大事なのは、そのトランス状態を目指すことではない。とにかく喋りたいことを喋ろうと一生懸命することで、その本気が、自分を別の状態にする。そして、その状態に入れたら、客観的に、冷静になったりせずに、とにかく心のままに踊ること!
とか、言ってみたりして。まあなんだ、ポッドキャストを聞いてくれだ。

近づいたり離れたりする男は「なんで短期間で大幅に痩せることって激ヤセっていうんだろう」と考えていた。「激」は、『大辞林 第三版』の「激」の項目によれば、

( 接頭 )
(形容詞の語幹の上に付いて)程度や勢いのはげしさ・強さが普通ではない意を示す。 「 -辛から」 「 -安」

ということだ。激ヤセが定着する経緯には、激安の語感も影響しているだろう。
スマートフォンで検索していたこの間も、男は、近づいたり離れたりしていた。


この一手(▲5一飛打)って、すごい「次の一手」っぽいと思った。この局面で、家のApery(ぼろパソコンですが)では、30秒読ませてやっと発見する。それまで他の手(▲5三歩打、▲7二飛成)で評価値1000行かなかったのが、この一手を見つけると1500を超える。で、それを指したのが、この俺(自慢)。この数手前から、この飛車捨ての筋は見えてて、時間もなく、思い切って指した(読み切れてはいなかった)。対局後に検討してみても、悪い手じゃなかったみたいでホッとしたよ。あ、あとこの後ですが……負けましたっていうと、オチが付いていいんだけど、普通に勝った。現実は物語ではない。

ブログ「いらけれ」

ダイエットをしている。体重は落ちるものの体脂肪率が変わらず、ダイエットと筋トレの関係を調べていた。筋肉をつけるには、タンパク質を摂取することが大事らしい。しかし、タンパク質って言葉はなんか良い。インパク知みたいで。インパク知って知ってる?「ボキャブラ・マトリックス」のエリアね。「ボキャブラ・マトリックス」は、バカと知的、インパクトとシブイという軸で作られてるわけだけど、これかなり有用だよね、ネタの分け方として。そして、何よりマトリックスが良いのは、マトリックスがマトリックスの外(アウトオブマトリックス)を作るからで、マトリックスに入らないものを意識的に作ったら、それすなわち新しいものってなる場合が結構ある。それでこれ、なんの話だ?

菊地成孔氏は、韓国映画『密偵』を評する文章(「菊地成孔の『密偵』評:「日帝時代」を描くエンタメ作が凄い勢いで進化している現在って?」)の中で、歴史教育は近現代史からやるべき説、歴史を教えるのなら現代から遡っていくべきという説に対して、以下のように言っている。

完全な無知という状態から「目の前の、今のこと」を学ぶには、その前提となる近過去の理解が必要であり、それを学ぶには、その前提的な、、、と無限軌道の果てに「やっぱ起源から」という、これまた極めて有効性の低い方法が導き出される可能性が高いのは、ほとんど自明である。

この「物事の前提の説明には新たな前提が必要で、また、その新たな前提にも前提があり……」という状態に、大きなこと(社会や歴史)を語る、その全てが当てはまることに気付いて、それに今まで気付かなかったことにもガッカリし、また、それが引き寄せる困難に思い当たり、頭を悩ませていた昨今。
例えば、あなたが現政権を批判し、社会を分析するとして。あなたはまず、その行いのデタラメさを指摘し、次に、なぜそうなったのか、どうしてこうなったのか、何がそれを用意したのかという"原因"を説明するだろう。あなたは、2010年代前半に何があったから/世界情勢がどうだったから/社会の空気がこうだったから、等々の理由を述べることになる。そこで私がつっこむ。「その原因は?」あなたは、なぜ2010年代前半がそういう時代だったのか、それを説明するために2000年代の話を、それから90年代に、80、70……これでは文明の始まりにまで遡らなければならないではないか!
そう、大きなことを語るのは、かなり無理なのだ。しかし、語ろうとする人はたくさんいて、それを詳しく見てみると、
・本当に起源に近いところから、古代ギリシアとか、旧約聖書とか、古事記とかの話をして、それから間をすっ飛ばして、それらを今とつなげるパターン
・あるポイントを恣意的に設定、1995年とか、アメリカ同時多発テロ事件とか、民主党政権時代とかを原因として今を説明し、そのポイントを用意したもの、その原因については説明しないパターン
のどちらかであることが多い。
時間も紙幅も人間の能力も限られている以上、大きなことを語りたいときに取れる手段も限られており、しょうがないことではある。しかし、どこかに欺瞞があるのもまた間違いないのではないのだろうか。真面目な人は、大きなことを誠実に語ろうとすると、また、そんなことお構いなしに不誠実に語っている人々を見ていると、病んでいくだろうし、実際最近病んだ人もいた。

君がもし、僕のブログをいつも読んでくれているのならば分かっていることだと思うけど、僕は会話が作れない。会話は、自分が言いたいことを書くのでも、君が言いそうなことを書くのでもない。僕たちは、一人で会話できない。会話は、僕が君に言わなければならないことと、君が僕に言わなければならないことだ。だから、自でも他でもなく、その間にあって、自でも他でもあるものが会話だ。そのマジカルなエリアを立ち上げるのは、とても難しい。難しいことが分かったことは進歩で、会話を作ることが課題だ。

以前(だいぶ前のどこか)で、そもそも人間との恋愛は危険(人間はコントロール不可能だから、相手から嫌われたり、相手が死んだりするため)みたいな話をして、それで、キャラクターと恋愛する方が安全で、で、人間ではなくキャラに恋してはダメなのか?何が問題なのか?っていう話をしたと思うんだけど、「I’m a soldier in the world」で書いた絶対安全ジェットコースターって、同じことを考えている。見直してみると。うーん、僕は進歩がないのだろうかと思うと同時に、こだわっていることがあるのだなと思った。「僕らしさ」ってあるんだなって。

ブログ「いらけれ」

ピンみたくペットボトルが転がった テレビに映っていたボウリング

芸人が球でもないし芸人が股を広げて待ってもいない

突然に曲がるボールを投げている典型的なフォームの選手

プロボウラーと中二病にだけ許された手首まで覆うグローブ

床はピンとボールと関係を持つ 選手はボールを投げるしかない

投球の前に選手にかけられる大声 そういう応援なんだ

BSに多いクラシック番組 跳ねて倒れるピンの交響

ターキーはやったことないのに知っていてオープンフレームは知らない

顔面はボール同様穴がある 試合はどちらかが勝っている

口や鼻 目や耳があるだけのボール なぜこんなにも人の顔には

かわいい子とかわいくない子のボウリング決勝はかわいい子が勝った

負けてする爆発的な祝福が少女のようだ 飛び跳ねに跳ねて

男子選手から放られる青色の躊躇の無さが油を滑る

ボウリング選手が語る意気込み ボウリング選手らしいインタビュー

誰だってストライクくらいなら経験がありボウリングはすごい

ボウリングとは比喩である いやちょっと内気なだけのただのスポーツ

今までに取り残されたことがありバーに倒されるピンの気持ちだ

君が投げ 繰り返すこのボウリング ああボウリングみたいな恋だ

偶然の要素が少ないように見えスペアの方がよりテクニカル

ストライクがストライクを呼び点数は倍々ゲームさながら増えた

決着が10フレームを残して付いた 勝敗ではないただの投球

ボウリング終わって走るモンゴルの馬も同じアジアのどこかに


初めての連作短歌の題材がボウリングだし驚いていた

タイトルは読んだことない図書館の本の背表紙から頂いた

ピンアクションみたいに不確実 これは短歌ではなくボウリングです


もしこれを読んで面白いと思われた方がいらっしゃいましたら、毎日更新しているこのブログ「いらけれ」、あるいはポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」をぜひ。

ポッドキャストの最新回「2018/06/09 今日のボイスメモ」では、この短歌を作ったきっかけや、人間が詩人になるということについても喋っています。また、ラノベ作家のヘイトスピーチ問題についてや、分人主義について、自分の興味あるものしか興味がないという風潮についてなどなど、色々話していますので、なにとぞ。