ブログ「いらけれ」

「僕が知りたいのはそういうことじゃなかった」「Let me tell ya now」
韓国のアイドルが、現代日本で「I WANT YOU BACK」をカバーするという事象の理由と、意味と、力学について考えたり、またしてもMVが映画をイメージした作りで、プロデュースしている人が何を意図しているのかを考えたりしていた。しかし、「つまり、彼女たちは映像の中に生きることによって、この現実から遊離した存在としての崇高さを……」とか、既存の"サブカル批評"やっても意味ないしなーとも思うので、やっぱり、僕にしか書けない切り口の何かが思いついたら何か書こうと思います。まだ見つかっていませんが。

「流れ」と呼ばれるものがある。私の観測範囲において、その語られ方の中で、「流れ」が頻出するのは、野球と麻雀である。
野球では、守備時の好プレーが、無関係なはずの攻撃に影響を及ぼすとされ、「良い流れで攻撃に向かえる」などと、実況解説されることも多い。また、麻雀においては、一日、あるいは半荘(一試合)という単位で、ツキのあるなしや、相性の良し悪しがあり、その日の運のあるなしを読んで、麻雀のスタイルを変えるような人々がいる。そうした「流れ」を重視しない立場の人々は「デジタル」と呼ばれ、そして、デジタル派の人々によって、「流れ」という科学的根拠のないものを信じる人々は、前時代の遺物として「オカルト」と呼ばれていたりする。
一般に(?)、「流れ」の捉え方には、世代によって違いがあり、若年層の方が「流れ」否定派が多いように思えるし、また、理知的であると自認する人々にとって「流れ」は忌むべきものと見なされているようだ。
つまり、私は「流れ」否定派だと見る向きが多いのではないか(お前のことなんて誰も興味ないわ!)と思うわけだが、私は、「流れ」はあると思っている。より正確を期するなら、「流れ」を感じてしまう人々のする行為には「流れ」はある、といったところだろうか。
人々は、出来事に影響を受け、それをフィードバックをしながら、次の行為へ向かう。三者三振という結果を前に、攻撃していた側は「やられた!次の守備は大丈夫だろうか」と〈攻撃と守備は関係ないのに〉考えてしまいがちだし、何度も何度も上がっている人に対して「今日は勝てないんじゃないか」と〈次の局には何があるか分からないのに〉思ってしまう。思ってしまうということは、それによって気持ちや行動が変わるということで、つまり、前の事象が次の事象(守備時の配球であるとか、次局の切り順であるとか)に、精神経由で影響を与えるのではないかと思うのだ。
だから、「流れ」を本当に信じない「デジタル」な人々が増えれば、「流れ」は無くなるのかもしれないとも思うわけだが、しかし、プレイヤーが真剣になればなるほど、運とか雰囲気という「何だかよく分かんねー、自分の手の届かないもの」までもコントロールしたいと思うわけで、だから「流れ」は簡単にはなくならないだろうと思う。時代は、そういう流れだ。

「菊地成孔の粋な夜電波」6月16日放送分、いままでやってこなかった禁則を解禁するという企画の中で「アーティスト名がユニークだというだけで、盤を聞かずにプレイする」というものがあり、そこでプレイされたのがJ.LAMOTTAすずめの「Who Is Who」で、数日前にこんなブログを書いていた僕は、すごいビックリした。
フルヤフこと古谷アナも菊地さんも好印象らしかったが、とりわけ菊地さんが曲を評して「珠玉」と言ったのが嬉しかった(俺の耳に狂いはなかった的な意味で)。あと、「おしゃれなずいずいずっころばし」という古谷アナの表現には流石に笑った。

現代のドナドナを知った。あの四月の、あの薄曇りの日、本社の社員であるがゆえに、工場の実情を何も知らなかった人たちと空疎な会話をしながら、定食屋でお昼ご飯をご馳走になって、入社式を行った本社のある二子玉川から、勤務地である深谷工場へ向かう一時間半の車内。


VOOID / Campari金巴利 (live)

対訳が付いていることが素晴らしい。
「金巴利」は元曲が名曲なのだけど、アレンジがかなり変わっていて、別の曲みたいな瞬間もあって、あと、歌詞を読みながら聞いてると泣きそうになる(というか、彼らの曲を聞くとだいたい泣きそうになる)。
僕がVOOIDの応援をしたいと思っているのは、僕が彼らの曲をもっと聞きたいからで、彼らが上手くいくことが、僕の利益になるからだ。とにかく聞いてほしい。色んな人に。そのための力に少しでもなれればって、本当に思うよ。

ブログ「いらけれ」

2018年6月18日放送分、東京ポッド許可局「遊び心論」聞きました(論の名前で思い浮かんだのは、PUNPEEの曲だった)。
真面目に見えない遊びこそ、僕たちの日常には必要で。肩肘張らないではいられない、コスパ計算しないではいられないっていうのは、僕たちの、スマホ以降の時間感覚による切迫感ですよね。
ていうか、許可局を「緩い」って言っちゃう人は、自分でラジオやってみればいいと思う。ネタ的じゃないのに、お笑い的にキツキツに見えないのに面白いって相当テクニカルだよ。
あと、杜撰を、あるいは欠陥を楽しむっていうのは、あってもいい。それは高等な遊びだけど、そういう理不尽をなくそうとしてきたのが近代だしなあ、とも思う。
だじゃれのおかしみっての話の中で「二日後に花開くだじゃれもある」っていうマキタさんの発言があって、この言葉にこそ、おかしみがつまっていて感動した。
政策だけではなく、政局も実は歴史を動かしてきたことは、「歴史を忘れ去り、言葉を「凶器」として使う時代をどう生きるか」という、與那覇潤さんのインタビューでも話されていたので、読むといいかもしれない(ただ、與那覇さんの話は、別の方へ行くのだが)。
●聞き終わっての感想
しかし、許可局を聞くような局員は「分かってる人」なわけで、本当に遊び心を身に付けなければならないような、強い切迫感を持って生きている人は、そもそも許可局を聞かないだろうし、また、こういうった話を聞いても、その余裕を憎みこそすれ、決して変わらないだろう。
この円の外側にいる人にどう届けていくのか、許可局ワードでいうなら遠心力の問題は大きいなあ、と思った。

「ポスト「失われた10年」に語るべきこと~Part4」
文化系トークラジオの過去回ばかりを、ええ(最新回はまだ聞いていないのに)。内容全然覚えてなかった、というか、聞いたときには分かっていなかったことが多かったから、発見が多かった。
この総括でのチャーリーの、実存の言葉についての語りは、3.11以後の世界から聞き直すと、やはり少し意味が変わってしまっているというか、"社会が変わってしまった"のだな、と思ったよ。
で、でもこれが残っていることが重要だと思うんだ。10年後に聞き返せる/読み返せるということ。そして、時間を経て振り返ると、当時の意図を越えて、面白いと思えることを言っていくこと。
僕も、10年後に読み返したときに、「時代の空気が分かる」という地点を越えて、そういうのと無関係に、面白いと思われることを書いていきたい。真剣に、ちゃんと頭を使って書く。それが種を植えることになって、いつか花咲くというイメージ。だから、速報性はツイッターに任せて、時間を置いてサイトに書いていく今のスタイルも悪くないのだなと思った。
だが、10年後にこのサイトがあるのか、それは不明だ。サーバー代とドメイン代を払えるのかという問題!

トランプ大統領、G7で安倍首相に暴言か
マイナスとマイナスをかけるとプラスになるのは算数で、現実ってプラスにならないんだなって思った。
しかし、「トランプがキング」って、やっぱ〈現実〉は、悪い冗談なのではないだろうか。

もう会わない人がいるだろう。お互いの網膜に映っても、心が通い合わないと「会った」といえないのならば、もう会わない人がいるだろう。僕には。「でも、そういう人がいることこそ、あなたが人生を生きた証だ」とか、それは慰めにもならない言葉で、だって、僕は今でも好きだし。好きだし、だからこそ、何をしても無駄なこと、僕に対してはもう心が開かれないことが分かってしまっている。痛いくらいに。もし、僕がノーベル何とか賞を取ったら、連絡をしてくれるだろうか。もし、あの子がノーベル何とか賞を取ったら、僕は。


Glen Scott – Heaven

「InterFM897 Music Mix」で聞いて即チェック。YouTubeで見つけた(公式だよ!)ので、ループ再生しながらブログを書いていた。
このグレン・スコットって人天才では?ちょっと再生数少なすぎでは?「再生数の少なすぎる動画を広める会」の会長である僕としては見過ごせない!
……などと、Googleで検索してみたところ、この「Heaven」という曲は、発売された99年当時、日本全国のFM局でパワープレイされるヒット曲になり、彼の来日公演も行われたらしい。佐藤竹善は、この曲を聞いて、この曲のエンジニアと仕事をするためにナッシュビルへ行ったらしい。
色々な歴史の集積が、知らないたった一曲にもあって、すごいなーと思った。

ブログ「いらけれ」

「6.チャンス・ザ・ラッパーとシカゴの政治/文化|アメリカ音楽の新しい地図」
この連載、僕はかなり好きなんですが、新しいこの記事も非常に面白くて、今ブログを書いてます。
まああの、チャンス君って政治家の息子だったの!っていう驚きはあって、これ有名なんでしょうね。僕は不勉強だからか初めて読みました。そういう背景のある人だったんですね。
モノ消費からコト消費(代表例としてのチャンス・ザ・ラッパー!)へ、っていう話と、イデオロギーの対立がアイデンティティーの差異に置き換えられた、っていうのを繋げるのはポピュラーなんでしょうか。僕は不勉強だからか初めて読みました。それぞれ個別には、よく言わているのを知ってはいたんですが。
そして、それらを全て繋げる構成が見事すぎますよね。すぎますよね?映画を巡るツイッター論争から始まって、途中に出てきた曲や単語を回収しつつ、チャンス・ザ・ラッパーのアルバムのポテンシャルと問題点を描き出す最後なんて、なんかウルっときたし。ウルウル。
大和田俊之先生には、「来月更新という予定を守って」とは言いません。これだけ学術的な内容を含みながら書くとなると(とても勉強になります)、また、書籍や論文、動画を引用しながら書くなると、時間がかかると思います。そう思いますから、「来月更新という予定を守って」とは言いませんが……僕は早く次回が読みたいです。また、お願いいたします。

それはもう大分前のことで、いつだったか思い出せないが、RTされてきて読んだのが「“非正規”歌人が残したもの」という記事だ。この記事を読んだことと、その後の私が連作短歌「孤独なボウリング」を作ったことに、どの程度の関連があるのかは自分でも分からない。が、それは今どうでもいい。
短歌界には他にも「鳥居」という人がいて(参考リンク:「「施設の新聞で字を覚えた少女」が絞り出す歌 セーラー服の歌人・鳥居に共感が集まる理由」)、私が彼女を知ったのは、ラジオでいとうせいこうが絶賛しているのを聞いたからだ。読めば分かることだが、間違いなく彼と彼女は言葉を持っていて、私はそれに複雑な気持ちになってしまう。
状況が人を詩人にするといったのは、他ならぬ私で、この言葉に責任を持たなければならない(先に紹介した連載に合わせて、状況は〈経験〉と呼び変えてもいいかもしれない)。だが、ある状況におかれた人が皆同じように詩人になるわけではないし、詩的に優れた表現を、作者のおかれた状況の"おかげ"だとするのにも問題がある。また、その状況から語られた言葉を気安く消費すること/過度に絶賛することは、そうした状況の再生産につながる、とまでは言わないが、それが本当に状況改善の契機になるかどうかは疑問だ。

「声を上げられない人の声というか」
「マンガとして表現されなければ世に出ていない人の声」

これは、文化系トークラジオLifeという番組の「日常と愛国心の間で」という回で、森山裕之が古谷実や井上雄彦のマンガを指して言った言葉だ。こういった(私の言い方でいえば)言葉を持たない人たちのことは、先のカンヌのスピーチに合わせてインビジブルピープルと言ってもいい。しかし、言葉を持たない誰かの状況を、当事者ではない表現者が代弁すること自体にも少なからず問題がある。「それは私の言葉でもなければ、私たちの代表の言葉でもないし、そこで描かれているのは、私や私たちの実情ではない」といった不満を、当事者たちが持つこともあるだろうし、また、表象されているのが言葉を持たない人たちである以上、そうした不満の言葉が出てきにくいという事情もある。
もちろん問題はあるものとして、とにかく先に進めば、この世界には、状況に対して「言葉を持つ人々(私もここに当てはまる……のかもしれない)」「言葉を持たないが代弁してもらえる人々」がいて、彼らの状況に光が当たっているというのが現状だ。しかし、本当に考えなければならないのは「言葉を持たず代弁もしてもらえない人々」ではないだろうか。
「言葉を持たず代弁もしてもらえない人々」……。そんな人いるのかっていう反論が聞こえる。不平不満の声も上げず、マンガにも映画にもならない人々なんて、そんな状況なんて、お前の脳内にあるだけなのではないかと。しかしそれは、私たちが個別的な〈経験〉に裂けていることからも、古谷実や是枝裕和が特別な天才であることからも、容易に証明できる。"非正規"や"虐待"という、すでに存在が知れ渡っている状況ではない、そして、これから表現されることを待つ状況が、必ずある……ということを、私の見てきた世界の〈経験〉から語れたらいいのだが、私は彼らではないし、これは作品ではないので難しい。
代弁してもらえない状況にいる人々は、まだ本当に見えないままにどこかにいて、きっとその不可視の存在を、世界に預けている。彼らを見ることはできるだろうか?あるいは、不可視のままに救済することは可能だろうか?何かをきっかけにして立ち現れた時、私たちとその社会は、受け止めることができるのだろうか?私たちには言葉を、受け皿を作っておくことしかできないが、しかし、見えないものは見えず、私たちはエスパーではないのだから、とにかく世界が豊かであらねばならない。

誰も読まないと思って、軽い気持ちで書いてたら、上のアレが1500文字になって、僕も驚いている。最近は書きたいことを書きたいように書けるようになってきた。そのことに、何だかとても満足しながら、ここで一曲。

TWICE「I WANT YOU BACK」Music Video

コレ、色々考えるべきところがあるよねー。みんなも繰り返し見て、考えてくれ!なんか思い付いたら、コメントしてくれよな!

ブログ「いらけれ」

「619」は僕らを繋ぐ暗号。顔の横で、指をクルクル回して。

「2018/06/18 今日のボイスメモ」
傘を差しながらしゃべっているので、若干首が詰まった話し方になってます。降りたたたみ傘に四苦八苦している姿を想像しながら聞いてね!

カスタマーレビューが分からない。カスタマーレビューに点数が付いている、それが分からない。
リンゴとバナナのレビューを考えてみる。「リンゴは硬すぎる。歯ぐきから血が出たので☆一つ」とか、「バナナは男性器の比喩に使われすぎていて、子どもに見せられないから一つ星にしました」とか……なんでもいえるじゃろがい!!!!
単純に、質の違うものは比べられないだろうし、比べられないものに点数は付かないはずだ。僕が信頼する人は比べない人で、僕がよく読んでいる東村山のグルメ日記を書いている人も、ただ自分が美味いと思ったかどうかとか、自分が受けた店の印象しか書かないし、点数なんてつけない。なのに「食べログ」には点数が付いているし、それが最大手だし、頭がおかしいとしか思えない。世界が全部バカ。食べ物にも、映画にも、本にも、アルバムにも、点数は付かないと知れ。ただ、「アマゾンの星なんて参考にしたことがない」とは、とてもじゃないが言えない。僕だって、バカの一人だ。

髪を切りに行った。面接がある、それは、履歴書を出すということで、履歴書の写真は髪が短かったころのものだったから、しょうがない。
近くの千円カットは混んでいて、歩いて歩いて隣駅の近くの店に入った。その日は、それほど暑くはなかったが、しかし、初めての店に緊張しているのもあって、じんわりと汗をかいてしまって、理容師の人に申し訳ない気持ちになって、帰るときの「ありがとうございました」をしっかりと言おうと思ったけど、でも、相手もプロだから、気にしていないのかもしれなかった。
切られている間、ユニゾン・スクエア・ガーデンが2曲立て続けに流れたから、そういう店なのかなと思ったけど、それはたまたまのようで、次に流れてきたのはファンキー・モンキー・ベイビーズだった。久しぶりに聞いたそれは、正しく"キセキ"のゼロ年代という感じだ。あの頃の、あの退行の流行はなんだったのだろう。10年代は、一筋縄ではいかない歌詞を書く星野源が流行ったりしているわけで、よくわからない。とにかく時代の空気というものがあった、陳腐な言葉が"一周回らず"ベタに受けた時代だったし、僕もベタの側に、居心地悪さを感じつつも同席させられていた。
僕の心の中で、新しい髪型にすることと同じ位置にあるのは確定申告だ。なんというか、面倒な手続きという感じで、「やらなければならないもの」としか思っていない。だから、僕はおしゃれじゃない、おしゃれにはなれないということなんだろう。外見に気使うよりも、「Down Since Day One Ish」、「Walk With Elias」、「Monday Night Rollins」と書かれたTシャツを着たい、つまり、プロレスTシャツを着たいということだが、マキタスポーツの言葉を借りるならTシャツのデザインは「プロパガンダ」だ、つまり、着ている者の思想が前に出すぎている。そのことは、古田新太を傍から見ているときは分かる(プロレスラーの服着すぎ)が、自分の事となると途端に分からなくなってしまう。でも、今ではアイドルもバンドマンもプロレスラーもTシャツ屋さんだ、ファンは思想を現前させたがるし、客商売は帰依を強いる。長渕のライブでタオルを買わない奴はいないだろう。マーチャンダイズには、客の自己顕示欲と、金儲けの欲望とがクロスしているのだ。
……という考え事をしている間に、驚くほど髪は短くなっている。「ありがとう」と言って街に出ると、脳内にウーソズのエントランステーマが流れた(っていうか「Down since Day one ish」って何?)が、僕は双子ではないから、超かっけーけど移入はできないなあって思った。

The Usos – Done With That (Day One Remix) [Entrance Theme]

文化放送のニュースの伝え方には若干アイコクが入ってるし、今度配信される「I WANT YOU BACK」のジャケのフォントはダサすぎるしで、今日は終わり!上記したように明日は面接。少しだけ早く寝るつもり……だったが、フットボールを見てしまうのだった。
追記:面接については「黙して語らず」でいかせてもらいまーす。