Let me tell ya now

「6.チャンス・ザ・ラッパーとシカゴの政治/文化|アメリカ音楽の新しい地図」
この連載、僕はかなり好きなんですが、新しいこの記事も非常に面白くて、今ブログを書いてます。
まああの、チャンス君って政治家の息子だったの!っていう驚きはあって、これ有名なんでしょうね。僕は不勉強だからか初めて読みました。そういう背景のある人だったんですね。
モノ消費からコト消費(代表例としてのチャンス・ザ・ラッパー!)へ、っていう話と、イデオロギーの対立がアイデンティティーの差異に置き換えられた、っていうのを繋げるのはポピュラーなんでしょうか。僕は不勉強だからか初めて読みました。それぞれ個別には、よく言わているのを知ってはいたんですが。
そして、それらを全て繋げる構成が見事すぎますよね。すぎますよね?映画を巡るツイッター論争から始まって、途中に出てきた曲や単語を回収しつつ、チャンス・ザ・ラッパーのアルバムのポテンシャルと問題点を描き出す最後なんて、なんかウルっときたし。ウルウル。
大和田俊之先生には、「来月更新という予定を守って」とは言いません。これだけ学術的な内容を含みながら書くとなると(とても勉強になります)、また、書籍や論文、動画を引用しながら書くなると、時間がかかると思います。そう思いますから、「来月更新という予定を守って」とは言いませんが……僕は早く次回が読みたいです。また、お願いいたします。

それはもう大分前のことで、いつだったか思い出せないが、RTされてきて読んだのが「“非正規”歌人が残したもの」という記事だ。この記事を読んだことと、その後の私が連作短歌「孤独なボウリング」を作ったことに、どの程度の関連があるのかは自分でも分からない。が、それは今どうでもいい。
短歌界には他にも「鳥居」という人がいて(参考リンク:「「施設の新聞で字を覚えた少女」が絞り出す歌 セーラー服の歌人・鳥居に共感が集まる理由」)、私が彼女を知ったのは、ラジオでいとうせいこうが絶賛しているのを聞いたからだ。読めば分かることだが、間違いなく彼と彼女は言葉を持っていて、私はそれに複雑な気持ちになってしまう。
状況が人を詩人にするといったのは、他ならぬ私で、この言葉に責任を持たなければならない(先に紹介した連載に合わせて、状況は〈経験〉と呼び変えてもいいかもしれない)。だが、ある状況におかれた人が皆同じように詩人になるわけではないし、詩的に優れた表現を、作者のおかれた状況の”おかげ”だとするのにも問題がある。また、その状況から語られた言葉を気安く消費すること/過度に絶賛することは、そうした状況の再生産につながる、とまでは言わないが、それが本当に状況改善の契機になるかどうかは疑問だ。

「声を上げられない人の声というか」
「マンガとして表現されなければ世に出ていない人の声」

これは、文化系トークラジオLifeという番組の「日常と愛国心の間で」という回で、森山裕之が古谷実や井上雄彦のマンガを指して言った言葉だ。こういった(私の言い方でいえば)言葉を持たない人たちのことは、先のカンヌのスピーチに合わせてインビジブルピープルと言ってもいい。しかし、言葉を持たない誰かの状況を、当事者ではない表現者が代弁すること自体にも少なからず問題がある。「それは私の言葉でもなければ、私たちの代表の言葉でもないし、そこで描かれているのは、私や私たちの実情ではない」といった不満を、当事者たちが持つこともあるだろうし、また、表象されているのが言葉を持たない人たちである以上、そうした不満の言葉が出てきにくいという事情もある。
もちろん問題はあるものとして、とにかく先に進めば、この世界には、状況に対して「言葉を持つ人々(私もここに当てはまる……のかもしれない)」「言葉を持たないが代弁してもらえる人々」がいて、彼らの状況に光が当たっているというのが現状だ。しかし、本当に考えなければならないのは「言葉を持たず代弁もしてもらえない人々」ではないだろうか。
「言葉を持たず代弁もしてもらえない人々」……。そんな人いるのかっていう反論が聞こえる。不平不満の声も上げず、マンガにも映画にもならない人々なんて、そんな状況なんて、お前の脳内にあるだけなのではないかと。しかしそれは、私たちが個別的な〈経験〉に裂けていることからも、古谷実や是枝裕和が特別な天才であることからも、容易に証明できる。”非正規”や”虐待”という、すでに存在が知れ渡っている状況ではない、そして、これから表現されることを待つ状況が、必ずある……ということを、私の見てきた世界の〈経験〉から語れたらいいのだが、私は彼らではないし、これは作品ではないので難しい。
代弁してもらえない状況にいる人々は、まだ本当に見えないままにどこかにいて、きっとその不可視の存在を、世界に預けている。彼らを見ることはできるだろうか?あるいは、不可視のままに救済することは可能だろうか?何かをきっかけにして立ち現れた時、私たちとその社会は、受け止めることができるのだろうか?私たちには言葉を、受け皿を作っておくことしかできないが、しかし、見えないものは見えず、私たちはエスパーではないのだから、とにかく世界が豊かであらねばならない。

誰も読まないと思って、軽い気持ちで書いてたら、上のアレが1500文字になって、僕も驚いている。最近は書きたいことを書きたいように書けるようになってきた。そのことに、何だかとても満足しながら、ここで一曲。

TWICE「I WANT YOU BACK」Music Video

コレ、色々考えるべきところがあるよねー。みんなも繰り返し見て、考えてくれ!なんか思い付いたら、コメントしてくれよな!