貧しい言葉が作る貧しい社会について

2018年6月5日(火)「荻上チキ・Session-22」「森友学園をめぐる決裁文書改ざん問題。財務省の調査報告書を荻上チキが読み解く」
「結果としてこの小学校に通う子供はいなかったわけですけど」、「やらなければ意味ないぞ」って真面目なトーンで入れてこないでください、爆笑してしまうので(本当は笑ってちゃいけないくらいヒドイけど)。
ニュースに、ふつうにツッコむだけで爆笑って感じの社会で、お笑い芸人は大変だろうと思う。けど、逆に生き生きしてる人もいるしな。
しかし、やっぱり現代日本、ボケがデカい。もうちょっと繊細に行こうぜ。

以前Twitterで、あるラジオ番組(ニッポン放送『大谷ノブ彦 キキマス!』なんだけどね)が終わるって話に、「やっよ終わるのか。よかった。」ってコメントしている人がいた。もちろん、何にムカついてもいいし、何を嫌いでもいいし、番組内で話されたことに間違いがあったのならば批判すればいい(し、大谷氏に問題がないなんて言わない。)。しかし、思うわけだ。「お前、番組聞いてなかったよな」と。どうして聞いてないラジオ番組が終わることを喜ぶのか。番組が変わったからといって聞かないだろうに。終わろうと終わるまいと、お前に関係ないではないか。
なぜか、自分の嫌いなものは世界からなくなればいいと考える人が多い(多くなったように思える)。別に、それがあっても社会的に問題があるわけでも、存在することで自分に被害があるわけでもないのに。それに、それを楽しんでいる人もいるというのに。冷静に考えさえすれば、おそらく発言者も気付くだろう。その言葉と、その心が間違っていることに。しかし、これは実際に書かれた言葉なのだ。人の冷静さを奪い取る、あるいは、人の愚かしさを剥き出しにする何かがSNSにはある。
こんなことを書かせてしまう/読ませてしまうSNSには、精神を失調させる効果が間違いなくあり(SNSでおかしくならない人は、元々おかしかった説)、だから、人々の書く”終わった言葉”たちを読むたびに、「ああ、この人が生きる時代にSNSさえなければ」と、かわいそうに思う。そして、もっとSNSから距離を置こうと思う。僕とSNSとの距離は、もう、かなり遠くなってしまった。

人身事故のアナウンスに「死ぬなら人に迷惑かけずに勝手に死ね」とつぶやいたあなたに、今から大事な話をしようと思います。少しだけ、耳を貸してください。
その言葉には、その言葉を発することには問題があります。誰かの死の背景を想像しようとしない、死者に冷淡な言葉が流通するような社会は、様々な人を追い込みます。だからこそ、悲しみや苦しみの中で、人は死にます。そして、人の死ですら自分の損得と結び付けてしまう、迷惑だと言って憚らないあなたのような人が、様々な人を傷つけています。だからこそ、あなたに迷惑がかかるように、人は死にます。
しかし、こんな説明があなたに通じるわけないって、私は分かっています。こんな当たり前のことにすら、思い至らないあなたなのですから。だからせめて、せめて黙っていてはくれませんか?

上記の文章について、以前「2018/06/13 今日のボイスメモ」で話した。話したように、心を込めて書いた。僕は、どちらかといえば、あのような貧しい言葉に傷付く人のために書いた。もし、そういう人に届いたのなら嬉しいし、届くようにもっと頑張らなければならない。僕みたいなのにだって、できることがあるのだから。

BSでやってる1978年のワールドカップ決勝の、その不鮮明な映像。洗練されていないフットボールには、本当のカオスがまだある。行ったり来たりするボールが、ただボールに集まるプレイヤーたちが、フットボールはスポーツじゃないって言っているようだ。正確にはアスリートではないというか、今よりも、ただただ蹴る才能が問われていたように見える。(そして、すでに今年のワールドカップは開幕した)


宇多田ヒカル 『初恋』(Short Version)

この曲がラジオで流れてきた。歌いだしにビックリした。かなり特殊な歌のように思えた。
あと、唐突に思い出した。「人間活動」ってなんだったんだろう。宇多田ヒカルほど才能があったら、「人間活動」するって宣言しても、どうしてもまた歌いだしてしまうものなのか。「天才には、人間の人生は生きられない」ということだろうか。