ブログ「いらけれ」

いつかのコラムのためのその一。「透明雜誌の透明ディスク(第1回)」より引用。

その後エレキ・ギターのサウンドにどんどんハマっていった僕の生活は音楽一色になり、スーパーチャンクの『Slack Motherfucker』が毎朝のテーマソングとなった。僕は片時もイヤフォンを離さず、音量をMAXにして自分自身と外の世界とを隔離していた。
こんなふうに没頭するのは子供っぽいと言われてしまうかもしれないけれど、当時の僕にとってはとても楽しい時間だった。

イヤホンやヘッドホン、イヤーマフを使うことが「自分を世界から隔離する」のだとしたら、アイマスクを使うことは「世界から自分が隔離される」行為ではないか。耳を塞ぐことは、(感覚を)コントロールすることを意味するが、目を塞ぐことは、(状況の)コントロールを放棄することを意味する。耳を塞いで「聞こえな~い」は、相手を馬鹿にしているが、目を塞いで「見えな~い」とするのは、その者が馬鹿である。

承前)文体について、高橋源一郎氏の話は、では自分の文体を持たないためにどうするか、その方法は「書かない(ずっと書かないでいると書き方を忘れるから)」という方向に行く。言葉の、それ自体の運動性というのは避けがたく存在す、確かに、それに頼ることに問題があるのは間違いないとして、もう書き始めてしまった文体をつくらないように書きたい人はどうしたらいいんだろう。

「絶対的な正しさ」が、それぞれの立場に裂けた後、「絶対的な誤り」だけが残った(という感じだ)。イデオロギーは脇に置き、非人道的な行いや、差別、不正、文書改竄などを指摘する。「これこそが正しい」と言えない人々の、「少なくとも、これは間違っている」という叫び。

【音声配信】「本格的な登山シーズン到来!改めて考える山のリスクマネジメント」羽根田治×荻上チキ▼2018年5月15日(火)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)
都立東村山中央公園付近で、変な顔をして歩いていた奴がいたとしたら、それは僕だ。変な顔を具体的に言えば、目を見開いたり、舌を出したりという具合だ。それは、この特集を聞いていたからだ。タイトルから想像していなかったが、事例の紹介として、ある家族(さなえ、母、妹、父方の祖父)がハイキングを計画するところから朗読は始まる。神奈川県の丹沢・大山に登った彼女たちは、休日の一日を楽しく過ごしていた。中央公園のあざやかな緑は、僕を物語の中へ没入させた。しかし、下山に取り掛かったところで、雲行きは少しずつ怪しくなっていく。荻上チキさんは、のどかだった朗読が段々と状況が悪化していく、「かまいたちの夜」を読んでいるようだと言う。僕は分かるよと思う。ストーリーは進み、日帰りだったはずが、ビバークを余儀なくされ、翌日も帰ることが出来ずに、また次の夜、次の夜……。南部広美さんの朗読も相まって、ずっしりと重い恐怖と焦燥が、ダイレクトに伝わってくる。溢れ出る涙、祖父の見る幻覚、通り過ぎるヘリコプター。もう心がどうかしてしまって、僕は普通の顔を保てない。彼女たちはどうなってしまうのか……それは聞いてのお楽しみだ!

空堀川沿いの道と、都立東村山中央公園を繋ぐ住宅街の中の一軒、その家の郵便受けの投函口に付いている蓋には「配達ごくろうさまです♪」と書かれたシールが貼ってある。二度と会わないどころか、一生の中で一度も顔を合わせないかもしれない誰かを思いやる人が、少なくとも一人、ここに住んでいた。

小説以前の、小説になる前の、小説とはとてもいえないものは、嘘と呼ぶしかなく、だから僕は嘘を書いている(嘘は何を描いている?)。もし、書かれていることの全てが本当だと思っている人がいたら、それはそれで、かまわない。僕はずっと、嘘を書いていくつもりでいる。

ブログ「いらけれ」

批評はギリギリの嘘を通すテキサスホールデムみたいなゲームなんじゃないの

最近のブログの記述が錯綜しているのは知っている。それが狙いなのか天然なのか、自分でもよく分からない。おかしなことは”現実”にあり、それを言葉にし、記述するためにはおかしく書かなければならない。国会答弁のような現実を写すように書きたい。

高橋源一郎氏は(今は考えが変わったが)、二十代の終わりの何も書けないときに「吉田健一が取り憑いた」「吉田健一っぽくなら書けるかなと思ったら書けた」「吉田健一の文体で、吉田健一が書くようなことを書いていた」「(生きるとは、文明とは、時間とはなど、自分の境遇とかけ離れた、考えてもいないことが)ビックリしたのはいくらでも書ける、何も考えてなくても、考えてないことを書ける。文体すげえ」「(その後、小説を書き始めたとき)それがいい訓練になった、文体をつくってしまえば、全部嘘でもいいんだ」「言いたいこととか、書きたいテーマが何にも無くても大丈夫」「だから、文体を持っている奴は全員信用できないなと。どうせこいつ言うことがないんだろうと」という考え方を一度通過し、文体を疑うようになったと語っている。出典:「高橋 源一郎(作家)×五所 純子(文筆家)「世界」は「小説」でできている!?――いま「日本」を語る「ことば」についてのおはなし」16分頃から

記述が錯綜しているといえば、「【コラム】Childish Gambino – “This Is America” | アメリカからは逃げられない」の「ただこのビデオは銃による暴力など~」というところも、記述が錯綜していると思った。別に批判じゃない、グルーブ感が生まれている気もするし、いい記事だと思うし。批判じゃないといえば、「This Is America」の評価が自分の中で定まらない。最初の一発(途中の二発目)があるからだ。もちろんダンスなど、たくさん美点があるのは承知で、その一発の衝撃に、自分がやられている可能性を否定できないというか。俺は最初のいい一発にやられているだけじゃないのかと、自分を疑ってしまう。

「This Is America」は、話題になってから二日後くらいに見た(だから、見たのは結構前だ)。なんか、それが自分にとって、すごい良かった気がした。誰かの熱に過度に同調するのでもなく、かといって、無視したり否定するのではなく、冷静に見ることが出来た気がした。ツイートは、ツイートした24時間後にやっと表示されるくらいがちょうどいいのではないだろうか。対象との(精神的)距離を導入せよ。

「プロならば批判されて当然だ(だから、何言ってもいいんだ)」という人へ向けて。

「スポーツ選手は“強く”あるべき?メルテザッカーの“独白”への賛否」

彼の告白を「この世界では数少ない、正直な瞬間」と評価した『ターゲスツァイトゥンク』紙は、「メルテザッカーは、プロ選手として感じる重圧と苦悩、失敗することに対する恐れを明かした。その正直さには驚きを禁じ得ない。そしてこのことは、サッカー界がロベルト・エンケの悲劇以降も、根本的にまったく変わっていないことの証左である」と指摘する。

ドイツ代表だったGKは重いうつ病に苦しみ、09年に電車に飛び込んで自ら命を絶った。ドイツサッカー界は戦慄し、当時のDFB会長テオ・ツバンツィガーはエンケの棺の前でこう誓った。

「メディアが伝える、表面をなぞっただけの情報に踊らされるな。人間の内面にまで目を向けよう。サッカーがすべてではない」

しかし、結局何も変わらなかった。

あなたが人であるように、相手も人である。

僕は、心療神経科で今月あったことを聞かれて、余計な色をつけて話してしまう。心理神経症の症状に当てはまるようにエピソードを盛っていく。気分が落ち込んだ話をペラペラと語っていく。話している自分の「躁」状態を、自分が見ている。先月ドクターから「新薬が出るから、次はそれを使いましょう」と言われていた。試しにというニュアンスが強すぎて、自分がモルモットみたいだと思って帰った。だが、新薬は二週間分しか処方できず、四週間に一度通院している僕には使えないことを失念していたらしい。「その代わりに」と言って、寝る前の常用薬を朝にも飲むようにと言われるが、病気の治療ってそういうことなんだろうか……。単純計算で薬が二倍に増えるということだから、お金も二倍になるのだろうと思って、ビクビクしながら調剤薬局のレジに立っていたから、1090円を1900円だと思って2000円出して、薬とたくさんの小銭を手渡された。薬は、もう何か月も前から飲まずにたまっている薬たちの中に仲間入りした。

承前)「では、参考になる振り飛車とはどんなものか?」という問いに、「第11期マイナビ女子オープン五番勝負第3局 加藤桃子女王 対 西山朋佳奨励会三段」は、答えているのではないだろうか(初手7八飛戦法!)。61手目7七歩や、87手目2三歩、良くなってからの手厚い指し回しなど、当然真似など出来るわけはないが、振り飛車らしさを学ぶのには適していると思う。西山三段ぱねぇ(あと決め方がえぐい)。

ブログ「いらけれ」

「矢野利裕のEdutainment」を、久しぶりに覗く。
矢野利裕さんは、『SMAPは終わらない』『ジャニ研!』も読んでいるが、最初に知ったのは佐々木敦著の『未知との遭遇』の書評だ(と書いて、また読み返してしまう)。
どれも面白く読んでて、それで「1991年と小室哲哉のコンプレックス――LL教室の試験に出ない90年代J-POP[1991年編]に向けて」の、本筋とは関係ない「「プロレス」的フィクションが受け入れられなくなった時代」という記述について、そういう流れがあったのは確かなのだろうが、しかし、アメリカのプロレスの黄金期はその後(1991年以降)に来た(WWE-Wikipediaによれば「Monday night warsが繰り広げられた1990年代後半は全米で空前のプロレスブームが起きた。」)ことを、そしてそれが「アティテュード路線」という過激さを売りにしたものだったことをどう考えればいいのだろう、などと考えていた。どうやら僕が書くべきことは、この日本に、まだあるらしい。
そんなことは置いておいて、やっぱり「矢野利裕さんには一度お話を伺ってみたいなあ」と、「ポエジーをいかに獲得するか――文化系トークラジオLife「超絶! ポエム化社会」感想戦」とか、ブログを遡って読んで思うのだった。

「羽生善治竜王とは何者なのか? 10人の縁深い棋士たちに聞く」
一般的にプロとは何か、と問うことに何の意味があるのか。ただただ僕は、将棋のプロが好きだ。「プロならば批判されて当然だ」という人がいる。じゃあ、お前の中継や放送されない仕事は、”どんなもん”なのか。お前は何のプロなのだ。お前はその仕事でミスしないのか。など、その仕事をなじりたい。というのとはまた別に、将棋のプロが好きなのである。将棋のプロの、その滲み出る人間らしさが好きだ。行方尚史八段のコメントに打たれてしまう。その人となりを、少なからず知ってしまっているがゆえに!

現代の将棋において、最序盤で、右側にいる飛車を左側に移動して戦う戦法「振り飛車」の旗色が悪くなり(とはいえ、振り飛車戦法には利点もあり、言うまでもなく実戦においては有力であり、タイトル戦の勝負でも度々登場している)、居飛車の方が優秀とされることが多くなった理由の一つは、プロを凌駕する強さを持つ将棋ソフトたちの、振り飛車に対する評価が低いことだ。インターネット上では「不利飛車」と揶揄されることも多い振り飛車を専門に指す将棋ソフト「Honey Waffle」は、第28回世界コンピュータ将棋選手権の決勝リーグに残った(結果は最下位の8位、しかし、決勝に進出すること自体がすごい)強豪ソフトである。
今は素晴らしい時代で、開発者の方々が、手塩にかけて強くしたソフトたちを無償で公開してくれており、ダウンロードして、対戦したり将棋の検討に利用したり出来る。「Honey Waffle」も公開されている、先日それを知った私が、早速ダウンロードしたことは以前書いたから皆知ってると思うけど(えっ)、早速手元にあった通称たぬき(正式名称「the end of genesis T.N.K.evolution turbo type D」)と戦わせたところ、三戦して(ハニワ側から見て)二勝一敗と勝ち越した。で、ソフト先生の強さが異次元過ぎて&対戦相手もソフトだと序盤が独特過ぎて、参考にならないことを知った(あと、若干端攻めを軽視する傾向にあるように思った)。僕が、振り飛車党に戻る日は、まだ遠そうだ……。

もちろん歴史が示すように、人間は邪悪で、それは「現在進行形の歴史」でも繰り返されている。

「納豆好き?」という話が流れてくるイヤホンを耳に挿し、市役所近くの道を歩いていると、路肩の植え込みの花を見ているおじいさんを、団地の駐車場に止まっている黒い大きな車の運転席から出てきた、黒のスウェットパンツ、腕にプリントの入ったダボっとした白いパーカー、色の薄い大きいレンズのサングラスという、ドンキホーテの駐車場で採集できそうな出で立ちの、おばあさんが呼ぶ。病院に行って、帰りにもう一度市役所の近くを通ったけれど、もう駐車場に車はなかった。

今週の「東京ポッド許可局」でプチ鹿島氏が推薦していた書籍『罪の声』を書いた塩田武士氏の姉の塩田えみ氏がアシスタントしているラジオ番組のパーソナリティーの桂春蝶氏が毎月出演している「渋谷らくご」をキュレーションしているサンキュータツオ氏も「東京ポッド許可局」のパーソナリティーである。ただ、そうだということである。スモール・ワールド現象について言及したいわけでは断じてない。ここから何を読み取るも、あなた次第である。

ブログ「いらけれ」

青羊さんのつぶやき→メタモルフォーゼの縁側(どっかで見たなと思って)→鶴谷香央理さんのツイッターという感じで、気分良くインターネットをサーフしている時に見かけた、ブルボン小林さんの「愛とは言語である」というコラムを読む。
ボンコバさんは、いつも「誰も気付かなかったり、言葉にしないが、そこにある大事なこと」を掴んで、それを伝えるために、表現に対して労力を惜しまない。本当はもっと、万人受けするように「こいつが悪い」という分かりやすい物語にしたり、自分を良くみせるように「俺はこんなに分かってるんだぜ」という文章にすることが、いくらでもできるはずだ。でも、しない。戸惑うべき出来事に対してちゃんと戸惑うし、断言出来ないことは断言しない。断言するツイートのリツイート数の多いこと!要するに、そういうのは気持ちいのだ。だから、それを放棄して読ませるのは難しい。だから、手を尽くす。こういう文章を書けるようになりたい、おそらくなれない。


Elliott Smith – Needle In The Hay (from Elliott Smith)

透明雑誌「Eの幽霊」(「Ghost Of E」)のEとは、

I Miss You Son of Sam And The Figure of Eight

という歌詞からも分かる通り、エリオット・スミスのことだが、音楽が好きだとか洪申豪のファンだといっても、ちゃんと聞いたことがなかった。知っている、とても恥ずかしいことだというのは。昨日の朝「InterFM897 Music Mix」を聞いていたらいい曲が流れてきて、それで調べて、エリオット・スミスだということが分かり、洪申豪の曲に、その影響が確実にあるのだということを知った。僕は全然分かっていなかった。

それで、また色々調べていて、話題になった「K-POPより透明雑誌」ということを書いていた人が、その後どんなことを書いていたのかを知る。これは、アテンション・エコノミー下における炎上商法だろう(そういえば『ザ・スクエア 思いやりの聖域』という映画の予告を見たら、炎上商法が出てきたな)。僕は、自分が炎上商法をしないので、それをする人に厳しい。

アクセス数的には、TWICEについて書きたいのだが、僕の潔癖がそれを許さない。「CANDY POP」の時にやったような、情報をまとめるようなものは、やっぱり違うと思った。僕がしたいのは、それを読むことに快楽があるのは承知の上で、情報を集めるようなトリビアルなものではなく、コンセプトや歌詞を読み解いたり、些末な振る舞いや言動から、アイドルという存在自体を問い直したりすることだ。東浩紀氏曰く、批評とは以下のようなものだ。


読んだ後に世界が変わること、そうでなければ!だし、そういうことをモメンタムとしたい。もし、何か書くとするならば、MVに頻出する映画的モチーフについてか、「Na Dub Cheng」についてか、「Like OOH-AHH」「CHEER UP」「TT」の作詞家としてクレジットされてるSam Lewisについて(検索しても日本語の情報は皆無なので難しいけど)かな。依頼があれば考えます。

先生は、僕の月給を、ニ時間の講演会で稼ぐ。先生は、僕がひと月働いて貰うお給料を、二時間の講演会で懐にする。先生は、慎ましい暮らしについて話し始める。先生は、高級腕時計はしていないけれど、先生の愛犬は、高級なドッグフードを食べながら、今も先生の帰りを待っているはずだ。僕は、ニューヨークのデモについて、ある批評家が話していたことを思い出す。問題は1%対99%にはなく、99%の中に「労働者」と「奴隷」の階級対立があることなのだと。「私たち99%」と叫ぶが、「私たち」の内実は一つではないのだと。先週から働きづめで、充分に眠れていない僕は、気を失いそうになって、先生の声は遠くなり、部屋の空気は薄くなる。先生は、1%だろうか、それとも99%だろうか。僕は、「労働者」だろうか、それとも「奴隷」だろうか。講演会は始まったばかりで、先生の話はまだまだ続く。

「ネット文体のようなもの」を駆使する頭のいい人が、それによって苦しんでいるケースが多いように見受けられる。つまり(これは、あのラジオの、あの黒幕の発言だったと思うのだが、記憶があやふやなので断定はしないでおく)、「リア充爆発しろ」といっている限り、自分はリア充になれないじゃん、ということ。文体の持つ諧謔精神による解放の効果も小さくないとはいえ。


Vooid 「新月」 (Audio)