ブログ「いらけれ」


涼しくて、歩くのにはいい季節になった。長い距離を歩く趣味があるから、うれしい。
もう10キロくらい歩いていて、夕方になっていて、巨大な霊園にそった長い真っすぐの道を通って帰る。
もう少し寒さが進むと、顔が本当に冷たくて、体が辛くて、人通りが少なくて、お墓の向こうの夕焼けが本当に綺麗で良いが、今日はまだそこまでじゃなかった。

しょうもないセンチメンタルな気分と分かっていても、ポッドキャストから音楽に変えて、ランダム再生で「歓喜のうた」が流れてきたりすると、本当に泣きそうになる。

ちょっとだけ、本当にちょっとだけだけど、心がほどけるようだ。だから、明日も頑張らなければ。

ブログ「いらけれ」

・つぶやきはすべて悲鳴かな。SNSの問題は仕組みと個人の間にある気がする。

・また別に、理論的な支えのないもの、疑似的なものに惹かれる問題も考えている。理論より感情が優先されてしまう現実。

・と、まあうだうだいうておりますが、それが楽しいという。

・一つの解決策というところにはいかず、複数の仕組みを各々が心地いいように調整するしかないのかなあ。それでも問題は残り続けるけど、少しは楽になるだろうということで。

ブログ「いらけれ」

「誰かが幸せである(満足している、何かを為している)ことを不断に見せつけられ傷つき、また、自分もリア充アピールしなければならないという状況に疲れる。」的な世界……。

SNSを使わないって手も、もちろんあるけれど、それはそれで一つの主張をもった選択になってしまう。それほど普及している。

ツールとしてもっと改善されたり、別の何かが出てきたりするかもしれない。でも、解決されない問題として残るだろう。

最終的には「個人の向き合い方」というところにいくのか?
SNSが、たくさんの人を不幸にしても?

ブログ「いらけれ」

SNSは、リア充アピール(あるいは非リア充アピール)という、満足の表明をし続けなければならない仕組みですよね。満足というか、充実というか。
発信するものが、ネガティブなものでも、たとえ不満を漏らす声だったとしても、それは慰みであって、裏面の充足の表明として機能している気がしています。(私の中では「ご冥福をお祈り~」問題とつながっています。)

これを『断片的なものの社会学』「手のひらのスイッチ」と合わせて考えると面白いと思います。(良い本だからみんな読もうぜ!)