綺麗で悲しい

ブログ「いらけれ」

「ロースコアで進行してきた試合は、緊迫した空気に包まれていた。中盤5回裏の満塁のチャンスを逃したホームチームの6回裏の攻撃。1-1の同点。粘って繋いで作った再びの満塁のチャンス、ここでクリーンナップに打席が回る。狙い澄ました一振り、鋭い打球はショートの頭の上、それをジャンプ一番ナイスキャッチ!大ファインプレーで、試合の均衡が保たれたのだが……」
白熱した試合、この場面を見ればく~と悔しがるしかなく、そして、これだけチャンスを逃してしまったら、もうこの試合で追加点を取ることは出来ないのではないかとさえ思った。しかし次の回、先頭打者がホームラン。結局ソロホームラン二本と長打二本で、あっさり三点入る。野球見てるなって思う。
僕は野球の、いや世界の、こういう"元も子もなさ"が剝き出しになる場面が大好きだ。1000点を争っていたところであがる役満とか、大将が全員倒す団体戦とか。さっきまでのなんだったんだろう、ってなるのが至上の喜びなんだ。世界が、ありがちなストーリーの"物語"ではないことが、なんだか非常に清々しい。(文字通りの意味で)お話にならないことが、ここにはある。

ブログを書くということは、いつも考えているということなんだけど、僕の場合、始めに「書きたいこと」の総体を考える。このネタだったら何行(何文字)くらいで、起承転結がどうでって。で、だいたいその通りに書いていく(もちろん変わることも多いし、書く中で発見があって変わってほしいとすら思っている。)んだけど、今日「僕は、サラリーマンであろうが、大金持ちであろうが、どんないい暮らししてようが、辛い思いをしているだろう。それは、僕の気質や性質によるものだ。つまり、どう生まれ、どう生きようと、生まれつき毎日苦しいのだ。そう分かったとき、すごい気が楽になった。」というのが総体として出てきて、これはマズいと思った。内容についてではない、内容はこんなもんだと思う。マズいのは、自分が気が楽になるという感情まで先回りして出てきているからで、本来ならば、アイディアと感情が一緒に出てきてはいけないだろう。アイディアを自分の中で見つめて、そうして初めて感情が呼び起こされなければおかしいから。自分の感情まで、書きやすい通りのいい言葉、理解されやすく受けのいい言葉に蝕まれていく。感情すら自分のものでなくなってしまう、そのことには本当に気を付けなければならないと感じる。

あじさいがきれいだなあ。あじさいが一番好きだ。あじさいと、傘の中が好きだ。あじさいは過小評価されている。桜でお花見をするなら、あじさいでしてもいいのではないか。咲く時期に雨が多いのと、見上げる感じになりにくいので無理か。
あじさいを見ると、子どもの頃のクイズ本にあった、「Q.あじさいの根本に拳銃を埋めていたのがバレたのはなぜかA.銃が錆びて土が酸性になり、花の色が青く変わったから」というのも思い出す。20代中盤の方で、この本を子どもの頃に読んでて、知っている方いないかなあ(読者諸君の情報求ム)。あとあと、椿屋四重奏の「紫陽花」を思い出すよね、っていうか椿屋四重奏っていたなあってそっちに懐かしくなるよね。20代中盤の方で、青春時代に聴いていて知っていた方いないかな(読者諸君の情報を求ム)。
もっとあじさいを見ようと、咲いている川辺を見たら、近くの木にビワがなっていることに気付いて、もうあじさいよりビワの方が気になっている。花より団子だ。


近所の団地横のあじさい。

終わりましたあ。(何が?人生が?)いえいえ~、エキサイトメールで登録されているサイトの、登録アドレスの変更ですう。めっちゃ面倒くさいい!あ~、でも、面倒だったことも、やれば終わるんですねえ。だから、今面倒なことを抱えている方も、やると良いと思いますう。やると終わるのでえ。(お前が言うか)

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤