本当に一人になること。「好きにならずにいられない」感想

コラム「後藤の超批評」,映画

何かを書く前に一応と思って、公式サイトをみたら、だいぶ色んなことが書いてあって、映画に納得いかなかった人、映画をまだ観てない人には、まずはそれを読んでほしい(ストーリー説明には大いに不満があるが)。

映画について、傑作だとか駄作だとかは、ちゃんと観れば分かるはずだ。だから、そんなことはどうでもいい。私がただ、とても楽しんだので、それを書きたいと思った。でも、ネタバレはしないでおく。

「好きにならずにいられない」は良いタイトルだと思う。それは、主人公である非モテ男のフーシが抱く感情の説明だけではなく、周りの人間がフーシに抱く感情の説明であり、観客がフーシに抱く感情そのものでもある。だから、観終わってから上手いなあと思った。宣伝への色気を出し過ぎて、「タイトルやポスターで思ってたのと違う」という反応が起きてしまったのは、残念なことではあった。

では、なぜ観客はフーシを好きになるのか。ときどき、フーシを「不器用な男」と評する感想を見かけるけれども、決してそうではないと思う。ここは強く言わなければならない。だって、ガスバーナーでブリュレの焦げ目を付けられるし(そこ?)。いや、真面目にそう思うのだ。手先が器用なだけでなく、ちゃんと相手の欲しい物、必要なものを分かって、それを何とかして送ろうとしているのだもの。
ちょっと過剰なだけの、フーシは誠実な男だ。その誠実さに、惹かれるのだ。

問題は、シェブン(劇中、フーシが名前を聞く場面はなく、観客は結構あとの方で名前を知ることになる)になぜそこまでするのかである。

この映画はステレオタイプなオタク的な人物の解釈をしている。一人で(フーシには友達がいる!しかし、その友達には子供がいて、恋愛のアドバイスをする)楽しんでいる人を「社会化しなければならん」という考え方は、いいかげん古いだろう。そして、劇中その考え方が相対化されるわけでもない。これは、物語上仕方がないという面もあるが、重要なのは、同時に、フーシ自身も社会化を望んでいただろうことだ。

ここは難しいポイントだ。本当に「一人が良い」のか、逃避のために一人がいいと思いこんでいるのか。あまり突っ込まないでおくが、どうやらフーシには後者の気がある、あるいはシェブンと出会ったことであったことがわかった、いやそもそもダンスに行った時点で……(やっぱり難しい)。

とにかく、実は逃避的に生きて、遮断してきた男(象徴としてのヘッドホン)を、開いてくれたのがシェブンだったのだ。それが「来週もダンス教室で会おう」的な軽いノリだったとしても。フーシにとって、どれだけ有難かっただろうか(すさまじく有難かっただろう!)。だから、それに応えようとすると、いきなり旅行になってしまったり、ガラス割ったりしてしまうのだと思う。

三人の女性の話をしなければならない。母親、近所の少女、恋する人。
フーシはそれぞれに、家族愛、友情、愛情をもっているわけだが、それは様々な形で、裏切られることになる。(この映画の女性の描かれ方には、まずいところがある。フーシは、母親に、近所の少女に、恋する人に、振り回される。わがままで、悪者のようである。ある女性観に沿って撮られているように感じる。観ながら、監督は高い確率で男性だろうと思った(実際、男性である)。)

女性たちとの「別れ」を経験することになるフーシは、それぞれに何かを残していく。それは、私には、逃避ではなく「一人が良い」と思わせてくれたことに対しての、恩返しのように思えた。人とのつながりを経験し、ある挫折を経験し、そして、本当に一人になることを選んだのではないか。

新たな自由を得てフーシは、どこか晴れやかな顔で、旅立っていくのである。

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Posted by 後藤