ブログ「いらけれ」

やったことがないから、書くことがない。日記なんて書いている場合ではない。僕なんて一人称を、考えもなしに使っていてはいけないのであって、いち早く、まだ青年であるという自己像から、抜け出さなければならない。
生活のすべては、もう、何が何だか分からない。だから、何か言いたいことがあるわけではない。このようにして書くことだけで、生計を立てることができるのならば、それ以上何も望まない。そうではないから、書き続けなければならないと、そう思っているというわけでもない。
内容のない毎日を綴っていても、何にもならない。そのことが分からないほど馬鹿ではない。つまらないはずの日記だが、アクセスはなくならない。誰かが読んでいることは把握できても、向こうからのアプローチがないと、読んでいるのが誰か、知ることはできない。顔の見えない誰かが読んでいるという事実によって生まれた義務感から書かれる日記は、日記とは言えないのかもしれない。しかし、これはもう日常で、どれだけつまらないとしても、僕は、書かずにはいられない。だから、それで良い。

気分の落ち込みというのは厄介で、本当に暗くなって、沈み込んで、うずくまって……というイメージとは違う形で、僕にやってくる。ちょっとのやる気が出なくなって、したいことができなくなって、逆に、したくないことをしてしまって、自責の念に苛まれているものの、自分の気分が落ち込んでいるせいで、そうなっていることに気付けなかったりする。それは、これといった明確な原因がなくて、心に積もったストレスや、季節の変化みたいなもののせいで、引き起こされるからなのだろう。
言い訳は終えた。日中はだらだらと過ごし、暗くなってから出かけた。それでも外へ出る自分は偉くない?と思う。偉いと思う。グレイブヤードに一人きり。前も後ろも真っ暗で、上に月があるだけだ。強がりを言うならば、全然怖くない。怖くない?と思う。怖いと思う。
ラジオを聞いていたのだが、「バンッ」と音がしたので、片耳のイヤホンを外した。そうしたら、小さな祭囃子が聞こえた。遠くの方で、子どもたちのはしゃぐ声がする。破裂音は、花火だったのだろうか。しかし、どの方向で祭りが行われているのかがさっぱり分からない。十数分、少しだけ早足歩いて、敷地内から出た。駅前でも、帰り道でも、祭りなんてやってなかった。もしや、「夜は墓場で運動会」的な何かだったのだろうか、偶然以上心霊未満だ……と、震えながら帰宅したのだが、今調べたら、僕が行かなかった方角の、線路の向こうの神社で、「秋の例大祭」が執り行われていたらしい。これで、安心して眠れます。おやすみ。

ブログ「いらけれ」

昨日公開された日記を書きあげたのは、結局、今日の午後6時だった、と書いている僕は、9月8日の0時にいる。つまり、当然のように、公開されてからこれを書いている。毎日の日記がカツカツの、自転車操業になってしまうのは、ひとえに、僕がサッカーゲーム、あるいは将棋に興じてしまうせいなのだが、やめたいと思うだけではやめられないのであって、意志で依存を断ち切れるのならば、この世の苦しみのほとんどがなくなることでしょう。

申し訳なさで胸をいっぱいにしています、と書けば、恐縮している感じになるのが文章の良いところだな、と思う。声のトーンも、顔の表情も振る舞いも、それらしくしなくていいのだから。謝罪会見は大変そうだから、謝罪文で済ませたいところだ。

上書きされる前に、昨日の日記を読めた人はラッキーだということに、させてはくれないだろうか(くれないだろうな)。そこにあったように僕は、遊んでいたんだよ。誘いを受けるというのは、とにかくありがたいことだと思う(だから今、誰からも誘われないあなたに、僕は声をかけたいけれど、あなたの電話番号もメールアドレスも知らないし、そもそもそんな人がいるのかどうかも分からないから、遊びに誘えないのがとても残念)。「天気の子」についてひとしきり喋ったり、カラオケに行って「この曲を歌っている有名歌手は誰だか分かるかなゲーム」で遊んだりしていた。

今更言及するまでもなく"愚鈍の子"である僕は、それでも何とか社会との関係をつないでいくために、さまざまな社交テクニックを身に付けてきた。その表れとして、元気におどける自分を自分が発見したところか、一つ上の視点で物事を考えるという癖が付いた。
つまり、"表れ"と"こじらせ"の粘土を捏ねくった果てがこれで、それでもまあ、それなりに一生懸命に暮らしてきたから、僕のあり方が、言うことが、面白いと受け取ってもらえていたらいいなと思う。それだけは、とても素直にそう思う。もちろん、そのためにもっと頑張りましょう、とも思うけれど。

楽しい時間はすぐに過ぎていったから、思い出の手触りを確かめるように、深夜1時の街を歩いた。人通りの少ない道に、客引きばかりが立っているいびつな街を。洪申豪のことを話したから、スマートフォンで「Light Coral」をかけた。やっぱり、曲が始まった瞬間に、ここにすべてがあると思った。それは、勘違いや気のせいの類なのかもしれないけれど、合っているか間違っているかなんて、そんなこと、僕にとってはどうでもいいと思えている現在の方が、ずうっと大事だと思う。世界のすべてが嘘だったとしても、そう思ったという真実だけは、決して動かせないのだから。

タイトルを先につけてみたものの、そのような内容にはならなかった。なりゆきってやつだ。

ブログ「いらけれ」

青山ブックセンターで、『「私」が小説なのか?佐々木敦 × 山本浩貴 × h トークイベント』を見てきた。本も買ったし、予定も空いていたし、今月から僕は動くことにしているから行った。佐々木はツイッターで、集客が厳しいという話をしていたし、以前に青山ブックセンターでイベントを見た時も、開始時間の20分前ぐらいに会場へ行ったら人がほとんどいなくて、なんだか気まずいなあと思いながら席に座っていると、直前に混み始めるという感じだったから、今回もそうだろう、何ならギリギリでも空いているかも、なんて思いながら5分前に入ったら、結構な客入りでビックリした。僕が一番後ろに座った後にもどんどん人がやってきて、目の前の空いている席はすべて埋まり、さらに、後ろにも椅子が置かれるまでになった。

それと、知っている人がたくさんいたことにも驚いた。あー、あの人だーと思いながら居た。自分にも、まだミーハーな心が残っているのだなあと思った。書籍の刊行記念イベントなのに、まだ1ページも読んでいなかったから、待ち時間で読んだ。なかなか始まらなかったので、1章の終わりの方まで読めた。

人々により会場が暑くて、眠くなってしまった。その度に、マクドナルドでコーラを飲んだことを忘れて、自販機で買ったコーラを飲んでいた。コーラを飲む度に、一緒に食べていた月見バーガーの味を、少しだけ思い出すのが面白かった。

いつも小説を書きたいと言っている僕が、このイベントに行ったからといって、本当に小説家になりたい奴だと思われたら恥ずかしい。全然、そういう本気さはなくて、ただ面白い話が聞ければよかった。

そもそも、なんでわざわざ小説を書く/読むのかが分からない。同じように、(ドキュメンタリーではない)映画も演劇もマンガも分かってない。書かれている物語や登場人物に、何かしらのモデルがあったとしても、基本的にそれはフィクションということになっている。言ってしまえばただのほら話を、誰かが書いて、誰かが読む。

物語が全部だったら、あらすじを読むだけで感動できるはずだけど、なかなかそうはいかない。だから、それなりの長さでもって、要約した際には出てこないような些末な場面や、やり取りが重ねて描かれている、のだろうか。

私小説は、日記でもエッセイでもないということになっている。それをそのまま書けば、小説になるというわけではない。そもそも、言葉は現実ではないから、そのまま書くということはできない。「晴れていた」というようには、晴れていなかったということ。よって、そこにあった事実ではなく、そこにあったはずの真実を書き残すためには、報告書や調書では、はっきりと足りない。だからこそ小説では、文章のレベルで特別な操作が行われている、のだろうか。そんなことを考えずに帰った。

ブログ「いらけれ」

あと、あの露骨なプロダクトプレイスメント(そりゃ広告だからね!)も、一考に値するのではないだろうか。こちら側の注意を逸らさんとばかりに、画面上に現れる現実。ああ、ソフトバンクだなとか、グーグルだなとか、サントリーだなといったように、僕たちの世界とつながるアイテムが、散発的に登場する。考えてみれば、東京の街だって徹底的にリアルに描かれていて、その書き込みは偏執的と言ってもいいほどだ(映画の舞台となるのは、あくまでも"東京"で、あれがああなった後、埼玉や千葉がどうなったのかは、まったく言及されない)。それなのに、猫の姿はああだし、警察の髪型はリーゼントだし、須賀のキャラクターは加持リョウジを彷彿とさせるし(検索したら、同じこと思っている人がいっぱいいて安心した)、主人公はあれで、ヒロインやお姉さん役となるキャラクターがあれという、とにかくマンガ的/アニメ的な想像力で進んでいくわけで、それは、聖地巡礼が特別ではなくなった世界の、虚構のあり方なのかもしれないけれど、僕にとっては、そこが問題の中心点なのではないかという気が、書きながらしてきた。

あと単純に、雨の表現にはあれだけ凝るのに、花火になると突然平凡な描写になるの、なんなんだろうって思った。思って電車に乗った。座席に座ったら眠くなったので眠った。山手線に乗り換えて、渋谷で降りた。16時半ぐらいだった。

そこから歩いて、青山ブックセンターの方面へ向かった。近くのマクドナルド(!)に入って、月見バーガーのセットを頼んだ。店内は、まだ早い時間ということもあり、そこそこ空いている。中心には、少し高くなっている大きなテーブル席があり、女学生6人組が大きな声で喋っている。エネルギーが会話している感じ。隅の二人掛けに座った僕は、イヤホンをしながらこれを書いている。月見バーガー、一つだけだと物足りないな。でも、セットのポテトは全然なくならないな。ポテトをつまんでいる内に、少しずつ空腹が満たされていくと同時に、少しずつ混んできて、席を探して諦める人もちょくちょく見るようになったから、ポテトを食べ終わった僕は、イベントまでゆっくりするという計画を中止して、外へ出た。

青山には、スーパーマーケットがほとんどないという事実が、結構な驚きをもって僕に受け止められる。犬を散歩している人や、ビニール袋を提げている人もいるから、ここに暮らして、日々の買い物をしている人だっているはずなのに、西友の一つもないなんて。西友の便利さを思う。僕はおそらく、西友か、それに類するお店にある街に住んでいくのだろう、一生。

いつの間にか暗くなってきた東京で、ベンチに座って休憩する。少しだけ目を閉じる。(続)