ブログ「いらけれ」

夕飯を食べてゆっくりしていたら、眠くなって、眠っていたことに、目が覚めてから気が付いた。目が覚めて、眠っていたことに気付くように、失ってから初めて、それが大事なものだったと気づくように、ミネルバの梟が、夕暮れに飛び立つように……起きた僕には、無意味な明日がすぐそこに迫っていた。とりあえず、パソコンの前に座るために、氷の入ったコップに注いだウイスキーを、この前、自動販売機で百円で買ったポッカサッポロの「レモネードソーダ」で割ったら美味しい、というか、「レモネードソーダ」が美味しい。炭酸が元々弱めで、買ってから一日で、蓋を開けてもぷしゅっと言わなくなってしまったけれど、それでも。書き始める前に飲み干して、すべてを忘れたふりをした。

上がったボードゲーム熱が、グーグルマップで「ボードゲーム」を検索させた。忘れてしまいがちだけど、東村山ってやっぱり田舎だ。当たり前だけど、ボードゲームを遊べる場所も、ましてやボードゲームカフェなんてあるはずもなく、そういう時にはいつも、「これは俺がやるしかないのでは?」と思うものの、商売にするとか、利益を上げるってなると、まるで話が変わるのだろうな。まあでも、普段はボードゲームなんかが遊べるスペースとして営業しながら、時には、趣味の集まりに貸し出したり、小さなトークイベントを開いたりする「場所」を作りたいというのは、ずっと持っている夢だ。人生には、夢ぐらいないとね。
そんなことより現実だ。例えば、東村山市には「ふれあいセンター」という施設が地域ごとにあって、そこを使って、将棋クラブとかカラオケサークルとかが活動しているらしいんだけど、部屋が空いていれば、そして申し込めば、僕らも貸してもらえるようだ、ということも知らなかった。ずっと住んでいるのにね。そして、10畳の和室が午後1時~5時の4時間、350円で借りられるらしい……安くね?
自分の住んでいる地域に何があって、何ができるのかって、知らなくても生きていけるから、意外と知らない。でも、何かを始めたいとか、何かで困っているという時に、手を差し伸べてくれるものって、身近にあるのかもなあと思う。あと、そういうもののために、税とか払っているんだろうし。まずは、調べてみることだ(しかし、公共施設のホームページは駄目なものが多すぎて、ネットで調べるのが難しいね。5~6個ある市内の「ふれあいセンター」でも、予約状況が分かるのは一つしかなかった。大丈夫か君たち)。
僕は、遊べる場所がないか探しながら、街を歩いてみる。そのようにして彷徨うと街は、まったく別の見え方をする。都営アパートの集会所が、1時間300円で貸し出されているのも知らなかった。平日の昼間、そこに集まったおばあさんたちで、麻雀をやっているのも知らなかった。通りがかった喫茶店の前で、(いつか僕がボードゲーム会を開いて、大勢の人を集めることができたら、ここを貸し切ったりできるのだろうか……)などと考えるが、そんな予定はない。予定はないけど!その未来がないとは言ってない。

過ぎてしまった日々が、自分のためになったと思いたいから、あがいているしもがいている。と、書いている。

ブログ「いらけれ」

楽しかった日の帰り道、所沢から歩いて帰った。歩きながら途中、すごく眠くなって、気づかないうちに、頭が疲れていたんだなあと思った。ぼんやりと街は暗くなって、「クリエイト」という見慣れないドラッグストアの明かりだけが眩しい。その脇の道を真っ直ぐ、東村山駅に隣接している高い高いマンションを目指した。が、いつの間にか袋小路に入り込んでいる。何かの寮か、どこかの社宅みたいなものを中心に、ぐるりと道が回っていた。どうしようもないから道なりに円を描いて、出口の分かれ道では、少しでも駅に近づく方を選んだつもりだった。しかし、どれだけ歩いても、知っている道に出ない。おかしいなと思いながら歩を進めていた僕の目の前に現れたのがクリエイト!さっきの!
驚くとか、へまをしたとか、どっと疲れたとか、そういうことではなかった。僕は興奮した!山とか森でもないのに、道に迷うなんてありえない!ということが嬉しかった。迷おうと思って、迷うことはできないから、貴重な体験をした。そう思った。「クリエイト」の脇ではなく、踏切を渡る方の道に進んだら、あっという間に見知った場所に出た!日常を無駄にした。とても贅沢な時間だった。

家に着いて、家にあった何かを適当に食べながら、野球を見た。引退セレモニーというのは、いつだって、ドラマが横溢する催しなのだ。言ってしまえば、それは過剰なのだけど、その瞬間だけは許される過剰さなのだ。逆から言えば、過剰さが許される瞬間というのは限られているということだし、もっと言えば、限られていなければならないのだ。僕の言うことが分かるだろうか?分からなければ、まずは、どこかの球団のファンになるのだ。日記を読むだけで得られるものなんて、ほんの少ししかないのだ。

というわけで僕は、インターネットの外でコツコツと勉強することにしたので、『みんなの「わがまま」入門』を買ったよ!もともと、富永京子先生は面白いなあと思っていたので、来月の「デモクラシーカフェ」のテーマが、「わがまま」だったのが、良いきっかけになった感じだ。読む読む詐欺にならないように、今度こそ読むぞ……と気合を入れる。うん。


ヨーロッパ企画の暗い旅 #171「闇ゲームを開発する旅」(2018年3月17日放送)

最後に、面白い動画を紹介して終わる日記。あなたがまだ見ていないのならば、それはとてももったいないことだから、今すぐに再生するべきでしょう。人間という種が、闇を恐れずにはいられないのは、有史以前から……とか語ると、人文系っぽくて良いのだろうか。もっと単純に、ただ見えなくするだけで勝手に面白くなってしまう、それは理屈以前の、想像させられてしまう力だ。言わなくても良いことを、言わずにはいられない内は、まだまだなのだ。黙説法を取り入れるように。

ブログ「いらけれ」

充電ケーブルをスマートフォンに挿したときの「カチッ」という感触がなくなった秋。少し動かしただけで外れるようになって秋。わざわざ言うほどではない不快さで、イライラしている秋。

でも、今の僕には余裕があるのだ。今が楽しいからだろうか、それとも、先を見ているからだろうか。そのどちらでもあるのだろうと思う。少なくとも、今が楽しいのだ、僕の。
土曜日には、カラオケボックスでボードゲームをして遊んでいた。この僕に、そんなことって起こり得るんだなと思うが、起こったんだな、これが。起こりそうもなかったことが、起こる。いつかの僕も、結婚したり社長になったり、投獄されたりするのかもしれない。
さまざまなゲームで遊んで、それぞれに別の楽しさがあったのだが、なかでも一際盛り上がったのは「バトルライン」だった。いや、盛り上がったというと、「わー」みたいな、「きゃー」みたいなものを想像されるかもしれないから、えーっと、頭を使ってとろけた?みたいな。面白かったなあ、あれ。
どのようなゲームなのか、説明は難しい「バトルライン」(各自調べるように)のルールを解するのは、付属していた説明文の、独特の文体も相まってかなり難しかったし、実際、予備知識なしに遊び始めてしまったから、解釈を間違えていた部分や、見落としていた条件もあった。でもまあ、「ルール解説」としてユーチューブに上がっている動画にも間違いがあったので、理解しきるのは相当大変みたいなのだが……おそらく僕は、ほぼマスターした。なんてったって、終わってからめちゃくちゃ調べたからね!次遊ぶときに間違わないようにね!
そのようにして、細部までルールを理解することによって、さらに、ゲームの奥深さを思い知らされる部分もあり(戦術カードの使い道の広さよ!)、すっかりメロメロになる、という機会をくれた友人には感謝しかないなあ、あと、今度は僕も、なんかゲーム買っていこう、と思った。
誰かとゲームで遊んで楽しいのは、そのゲームが面白いのはもちろん、その人といるのが楽しいのだと思うし、そう思う僕は当然、一緒にいると楽しい人になろうと思う。ありきたりな宣言の前に、現実問題として、カラオケは値段が高いというのがあって、まずはそちらから善処していくつもりだ。

過去の日記を読み返すと、「この人は天才だ」としか思えないことが、ごく稀に書かれているので、今はまったく面白いことを書ける気がしないけれど、来るべき未来のために、この場所をキープしておこうと思う。奇跡を起こす場としての日記。

ブログ「いらけれ」

(承前)これは、「弱者男性」とか「KKO」と呼ばれている人々の、代弁をしているのか、そうではないのか。よく分からないけれど、よく分かった。つまり、社会的なやり取りのところでは全然"男"として認められていないのに、存在が"男"であるだけで否定されているという感じが、彼らに憎しみを生んで、間違った矛先として女性が選ばれているのだろう、そして、そんな自分を肯定してくれる、承認してくれる"聖母"を待ち望む心性とつながっているのだと。分かったところで、だが。しかし、それならばなぜ僕は、精神の清潔さを保てているのか、それとも寝ぼけているだけで、誰かから見れば僕も、そちら側に足を踏み入れているのかなどと、考えてしまうね。考えたところで、だが。

こんなことを書いて、誰かのためになっているのだろうか?現実の複雑さを、僕個人を慰撫するために、縮減してしまってはいないだろうか。恵まれた立場にいながら、そのことに胡坐をかいている。しかし、ここにいない誰かは苦しんでいるはずだと、勝手に憐れみを抱くのも不遜だ。せめて目の前にあればと思う。でも、事態に直面しても尽くせなかった過去ばかりではないか。無力さに、心がヒリヒリする。

道端の、古びたクリーニング店を覗くと、何の役割を果たしているのか分からない物たちで、部屋が埋め尽くされている。その中で、じいさんが両肘をついて、手の平で頬を覆うようにして、乙女のような姿勢で、物憂げな表情をしている、その視線の先には、とても厚いテレビがあった。とても小さな画面の中には、何かのドラマが映し出されていた。

そういえば古びた団子屋の、蔦の絡まった外壁の上の方が、台風の次の日に壊れて、崩れて、近くを通る電線にもたれかかっているのも見た。なんで忘れていたのだろう。見た瞬間、忘れることはないだろうと思った、今日の夕方の美しいうろこ雲も、いつか忘れてしまうんだろうな。それは悲しいことだ。

そこにいることが避けられないのならば、せめて、一緒にいる人が必要だと思った。傷つくことも傷つけることも避けられないのならば、アフターケアと反省の機会が必要だと思った。コストをかけて誰が引き受けるのかという問題はあって、坂口恭平のいのちの電話を思い出したり。誰かがやらなければならないのだとしたら、そのように思い出せる僕が、何かしらの何かを始めるしかないのだろう。誰かの役に立てるなんて、立派な思い上がりだとしても。