ブログ「いらけれ」

まったく愛のない通りすがりなのに、生放送が始まるとなったら、とりあえずチャンネルを合わせる浮薄な私。点差が離れたら出かけようと、ふんぞり返って見ていた目が、画面に釘付けになった。
サッカーでも野球でも、オリンピックでも思うことだが、戦う相手の詳しい情報、戦力分析の結果を知らない(いや、僕が見ていないだけで、いつか/どこかの番組では、やっていたのかもしれないが)から、勝つことがどれだけすごいのか、きちんと理解できているとは思えない。でも、こういう無知のところにまで、アイルランドが強いことは伝わっていたし、だから、「どうせ負けるんでしょ」と見くびっていた。今となっては、とても恥ずかしいことだ。試合後の選手インタビューには、「多くの犠牲を払った」という趣旨の発言があった。私の知らないところで、弛まぬ努力が重ねられており、その上で、誇りをかけた闘争があったということ。そして、同様の思いを持つ敗者がいたということ。そのすべてに、畏敬の念を抱く。
知らない人が興味を持つことによってしか、文化は広まっていかないのだから、私の軽薄さを許してほしい。細かい技術論、戦術論と同じぐらい、そうした部分を捨てて、そこに響いていた大声援が、選手の背中を物理的に後押しているように見えた、といった事象を、美しい言葉で伝えることも必要だと考える。文学という切り口によってのみスポーツは、純粋なスポーツから離れて不純な、しかし豊潤な魅力を抱え込むことができるのだから。
何が言いたいのか、それは単純に、スポーツのノンフィクションは、スポーツと同じぐらい良いよね、ということなのかもしれない。いつか、今日の出来事も、新たな表現に変わっていくのだろうし。もう少し上手く書けないのだろうか。今の私にはまだ、あの感動を、そっくりそのまま誰かに渡す術がない。頑張りたい。

中央図書館が閉まってたから萩山図書館に行ったら閉まってた。そういえば、図書館で使われてるシステムを入れ替えるから、一定期間、市内すべての図書館が利用できないって、どこかで読んだのを忘れてた。そういうところだぞ、と思った。そんな僕だが、しかし、今日は片付けをした。偉い。ボードゲームが入ってたアマゾンと楽天の段ボール箱と、散乱していたチラシとティッシュとビニール袋で自分一汚かった部屋を、そこそこ汚いぐらいにまで戻した。頑張ったら頑張った分だけ片付くから、片付けは良い。午前4時まで日記を書いていて、午前8時半のスマホのアラームで起きた一日も、あっという間に終わる。できることなら、不細工な毎日の昨日より今日がそうであるように、今日より明日が素晴らしい日なんて、そんなことを当たり前にしたいものだね。

ブログ「いらけれ」

リビングのカーテンの端を手で退けた。ほんの数秒だけ、この夜中に散歩しようかと考えたからだ。窓の外には街がある。
その日の昼間には、梶井基次郎の「檸檬」の冒頭を読んだ。ツイッターでネタにされていたからだ。初めの方なら、一度ぐらい読んだこともある気でいたが、そこに並んでいたのは、まったく見覚えのない文章だった。それを読んだ僕は元気になった。だって、どうでもいいことばかり書いてあったから。虚心坦懐に読んでみてほしい。そこには本当に、良い意味でどうでもいいことが書いてあるはずだ。どうでもいいことは、やはり書いて良いのだ。ずっと昔に書かれた言葉が、僕を照らした。
裏通りにも街灯は並んでいるし、こんな時間に通る人なんていないのに、ずっと明るい。僕は立派な文豪ではないから、僕には、何十年も後を生きる誰かを元気にするような奇跡は起こせない。ただ、誰も通らない世界の裏通りに置かれた照明灯にならば、なれるかもしれないと思った。偶然、そこを通らなければならなくなった誰かを、少し安心させるようなライト。柔らかな白い光で、ずっと点いていよう。

何も知らないで名を連ねてしまったら、向こう側の人々とつながってしまう気がして、何もできないでいる。安易さを手に取ったら、別の何かが死ぬ気がする。そう言い訳をして、目前の不正義を見逃してきた人生だ。耐え難いね。

何だか分からなさを見ていた。棋士は一般に、寿命が短いと言われているそうだ。これが本当なのかどうか、エビデンスのある話なのかどうかは分からない。このインタビューによれば、受ける将棋を戦った次の日は、顎が痛くなるという。そこまでして争う理由があるのか、「でもやってんの将棋じゃん」は、渡辺三冠の有名な言葉だ。
今シリーズの王位戦の棋譜は、欠かさずにチェックしていた。そしてさきほど、AbemaTVで生放送されていた第七局の解説を、見逃しですべて見た。
木村新王位は、将棋の人気を高めた功労者の一人だろう。分かりやすい解説と軽妙なトークのおかげで、将棋ファンになったという人も多いはずだ。もちろん勝負師としても超一流で、何度もタイトル戦に登場し、奪取に"王手"をかけながらも、最後の最後で手が届かないという悲運のドラマは、将棋好きの間で語り草となっていた。
今回の初タイトル獲得で、最年長記録を大幅に更新したことは、もちろん途轍もない偉業だ。しかし、そこにあったのは、もっと大きなものものだったと言いたい。私の部屋に唯一飾られている扇子は、八段時代の木村王位が揮毫した「百折不撓」という言葉の書かれたものだ。精神と肉体と魂を削りながら、幾度負けてもなお戦い続けてきたことに感服する。崇高さとは、このようにしてしか生じないのだ、と思った。

ブログ「いらけれ」

とても安全で、何があっても大丈夫な場所を確保したつもりでも、大きな重機に壁を壊されてしまえば、そんな場所はすぐに消えてなくなってしまう。取り戻せないものも、引き返せない点もある。引き返せないと思ったら、いっそ、長い物に巻かれてしまった方が良いのだろうか。歴史が何かを証明する時には、事態に立ち会っていた人は、誰もいなくなっているのだから。咎められることもないのだから。高潔さを期待するのも、良心に訴えるのも意味がないのだとしたら、一体何ができるっていうの?


LIBRO【MV】マイクロフォンコントローラー feat. 漢 a.k.a.GAMI , MEGA-G

人生が続いているから、この曲がすげー良いってことに気が付くことができた。蒔かれていた種が、芽を出すことってあるんだなーと思う。生きていたから、この前はドン・キホーテに行った。ボードゲームあるかなあって。曇り空で、過ごしやすい外気。調子良く歩いていたら、走る車に水鉄砲を撃っているおじさんがいて、ああ、この国は本当に、発狂してしまった(参照:「サイダー」)のだなあ、と思った。
ドン・キホーテには、溢れる物のなかに、紛れ込むように、アナログゲームのコーナーがあった。「はぁって言うゲーム」や「ボブジテン」、「キャット&チョコレート」といったものが、ああいった場所に置いてあるというのは、一つの希望なのではないだろうか。遊びに向かう心を持った人々は、それが時間の無駄であることを了解している限りにおいて、基本的には愛らしい。しかし、僕が求めるような(パーティーを開けるだけの友人が集まらない人向けの)ゲームはなかったから、どこかからずっと良い匂いがしているフロアから離れた。
イオンや西友では見つけられなかったが、意外なことに、イトーヨーカドーにはあった。次の日だった。文具やビデオゲームが置かれている階に、ホビーと呼ぶべきものが、数多く陳列されていた。時折、上に乗ってうねうねと進む子どもを見かけるボード(「ブレイブボード」というらしい)や、各種スポーツ用のボールのとなりに、ドン・キホーテにあったものとほぼ同じ種のアナログゲームがあった。イトーヨーカドーには、まだ、余裕があるのだと思う。生活に奉仕する物品で、売り場が埋め尽くされていく今の感じは、とても息苦しい。

力なく、それでも、今日もここまで来た。やっぱりアナログゲームはインターネットにかぎる、と、3つほど購入した。それを遊ぶことのできる日が僕に来るのかどうか、分からないけれども。なんとか仲間を増やしていきたい。これこそが、個人的な闘争の始まり?いや、ただの見て見ぬふり。

ブログ「いらけれ」

どーでもいいから諦めるんじゃなくて、どーでもいいからぶつくさ言ってるうちに、どーでもよくなくなるのであって、それは、問題じゃないものを問題化してるとも言えるんだけど、すべての問題は本質的に隠されているのであって、つまり、そのようにして見つけなければならないのだし、発見しないかぎりにおいて反転することもない。

いとう 対話って、つなぐだけじゃないよね。切ることもある。個人的な思いが広がりすぎると、客観性を失う場合があって、それに浸っちゃうっていうのはよくわかる。だからあえて切る、みたいなことも必要だよね。

いとうせいこう、星野概念『ラブという薬』株式会社リトル・モア、2018年、p.125

『ラブという薬』を読み終えた。大事なところだから、このようにメモした。この前段には、(人によっては)長い時間をかけて話すことで、妄想が体系化してしまうことがある、とも言われている、と書かれていた。こうして毎日書くことが、妄想を作りあげないように、気を付けてるつもりだ。
常に世界の反転の可能性について考えている僕は、当然だが、すべてを心や性格のせいにして、押し込めてしまうつもりはない。怒るべき時というのが、誰の人生にもある。それを踏まえた上で、しかし精神なのだ。これは、僕たちはインターネットに言葉が溢れ返っているせいで、勘違いさせられているのではないか、そこで行われているのは、論理ではなく感情のやり取りなのではないか、ということについて、よくよく考えた末に辿り着いたアティチュードなのだ、ということは、残念ながら伝わらない。
幻聴について、実は、幻聴が聞こえていたとしても、それが全然辛くない人(応援してくれるらしい)もいるんだ、という部分を読みながら、自分のことを考えた。幻聴とそれ以外、僕は、幻聴を聞くことに集中すれば、幻聴を聞くことができる。子どものころから、自分の脳内で"考えた"言葉ではない、文章ではない声を、耳で捉えることができる(だから目を閉じて、それを聞き取って、ここに書き記すこともできるけれど、それでは日記とは言えなくなってしまうから、していない)。だがそれは、頭の中で何かを考えている時の声と同じだ、と思う。幻聴と思考には、あまりに差がない。物事を考察している時の、何かを思い付いた時の、その声は僕ではないという感じがあって、悩んでいる時の自分も、閃いた時の自分も怪しい、誤っているに違いないと思っていて、だからそれは、そこにいるのは一人の他者だ。このことが僕を、あらゆる最悪/災厄から遠ざけていると同時に、とても沈鬱な気分にさせているのだろう。


TWICE “Feel Special" M/V

音楽的にも映像的にも状況的にも、驚くべきことが結構詰まっていて、だから僕は、その通り驚いている。この、なんとも微妙なSFみは、誰かに読み解いてもらいたいところだ。とにかく、再び何かが始まる感じがあった。僕の中で。