ブログ「いらけれ」

愛が、全ての人達へ…。
あぁ、全てが人並みに…。あぁ、全てが幸せに…。
あぁ、この幼稚な気持ちが、どうか、永遠でありますように。

中村一義/「永遠なるもの」
j-lyric.net/artist/a002631/l008021.html

※これは『海街diary』から考えたことですが、映画本編とはほとんど関係ありません。

繁栄した国の権力者は皆、それが永遠に続くことを願った。願うのはそれが、永遠には続かない、それどころか、いつ終わるかわからないものだからだ。

ユートピアのようなものがあったとして、そこで生きるのはきっと退屈だ。不幸せになれないという不幸。

日常とは実は不安定なものだ。子供は成長してしまうし、大人は老いてしまう。そしてどこかで必ず死んでしまう。時代に左右されもする。

ちょっかいを出すような幸せ、ありきたりな幸福を見るのは少し切ない。それは、終わることが約束されている。それは、日々の辛さの上にある。
人生には、破断や、あるいは真綿で首を締めるような苦しみがある。しかし、だからこそ、幸せがある。いつか終わってしまうけれど。

それは、もうどうしようもなくそういうものだ。良いも悪いもなくそういうもの。
だから、受け入れるようにして生きていくのだ。いつも、幸せを願いながら。ときどき、幸せを感じながら。

ブログ「いらけれ」

立川談志いわく、落語は「業の肯定」だそうだ。この言葉だけ、ずっと前から知っていた。特殊な文脈の中で。

好きになった落語家が「噺家は良い悪いではない、合う合わないだ」というようなことを言っていた。その言葉に納得している。

古典しかやらない人が多いが、創作(新作)だけ演じる人もいるし、両方やる人もいる。同じ演目でも、演者によって違う表現になる。それは、大きな違いだ。階級やキャリアが違う人を並べるのは失礼だろうが。

たとえば、どこまで落語と呼べるのだろうか。扇子と手ぬぐい以外の物を使ったら。あるいは、落語の文法に沿った形で話された、聞き手に全く落語的ではないと共通して判断されるような話だったら。

成立しているジャンル。何かに乗っている送り手と、それに乗っている受け手。ある見方や評価軸、一つのルール。しかし、創造性や逸脱によって更新されているからこそ、価値がある。

違うものが同じものとして保存されている。とても勝手で、とても面白い。

分からないから書いている、どんなことにもいえることだ。(音楽だって、映画だって、小説だってそうでしょう?)

ブログ「いらけれ」

あなたはヤフーのニュースとか読みますか?あれにコメント欄あるじゃないですか。あれはどうでもいいのですが。(酷いの分かってんのに、たまに読んじゃったりしませんか?あれ、なんなんですかね。)

あのコメント欄、フェイスブックからついたコメントも読めるんですよ。それを読むのが好きなんです。すごいので。

そのコメントは、ほとんど実名です。所属や会社が載っていることもあります。おじさんが多いです。それで、「意識が低い」んですよ。意識が低いおじさん(プチ鹿島さん風)。

いま、芸能人がツイッターで書いたら炎上しそうなコメントばかりですよ。でも、ある種の本音であり、ネットではない場所ではよく聞く意見だったりします。

ネットが無ければ、書かれなければ、それはそれでよかったのかもしれない。でも、できてしまった。書けるようになってしまった。そして、「意識が低い」人ほど、自分の意見と相違するものに対して、「けしからん!」と書きこんでしまう。そして、それって残酷だなぁと思います。

しかし、掲示板的なものから進化した、潔癖症、他罰的な、さらにいえば幼児退行(菊地成孔さん風)した言説に対しても、もちろん違和感を感じますが。

ブログ「いらけれ」

 

昨日も行ってまいりました「渋谷らくご」。すごいものをみた感がすごい(バカ語)、素晴らしい会でした。

ここからは感想ではなく、考えたことを。

「落語に行く/行った」と言うと、言われた側がだいたい半笑いになる。「へえ~w」みたいな。これは、ぼくが「ヒップホップを聞く」と言ったときの反応とほとんど同じだ。なんだろう。

きっと、「あの落語」や「あのヒップホップ」を思い浮かべるからだろう。笑点的な、あるいは悪そうな奴はだいたい友達的な。それらは、ジャンルを代表しているのは間違いなく、偉大だ。しかし、それがゆえに馬鹿にしてしまいたくなるようなイメージを作っている。そして、先入観を作り、そのジャンルについて知ることを結果的に阻んでいる。

でも自分だって、きっとそうなのだ。半笑いなのだ。何かについて。何かのジャンルについて。

”それだけ”じゃないということを、その内実の多様さを、伝えるのも知るのも難しい(だから「渋谷らくご」は試行錯誤しているのだろう)。

このブログは、そのためにやっているところがある。これは予告であり、目標である。