ブログ「いらけれ」

先日公開いたしました「特別編-対話のボイスメモ#3:ボイスメモを公開する。」の、放送後記的なものです。第三回です。
まだお聞きでない方にはぜひ、この回だけでも聞いていただきたいです。ここから聞いても大丈夫ですよ。

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ブログについて
「書きあげるまで、書けると思ってなかった」っていい言葉だなあ(自画自賛)。実は芸術の肝はそこにある気がする。どんな作者だって、作品を作る前は作れると思ってないんですよ、きっと。
人生が、芸術の側にフラッと"傾く"ということ、それだけが人生において素晴らしいと思っている節があり、また、それこそが楽しいんだという思いがあり、とにかく「書いてみほ」ということしかないですね。あと、ブログのネタバラシというか、結構裏側をしゃべっていて恥ずかしい気もしないでもない。ブログを真に受けないでほしいというのだけは念を押したい。
(あ、それと、言いたかったのは「空」ではなくて、能の「離見の見」です)

観光客の倫理について
多摩川のバーベキュー客問題から、観光客の非倫理的な振る舞いについてなど。これは、例えばインターネットの匿名問題(匿名ならば何でも言えてしまう)なんかにも繋がっているなあ、と話し終わってから気付いたりもしました。めちゃくちゃ政治的なこと言っているが、これはそんなに恥ずかしくないのは、とても大事な問題だと思っているからなのでしょう。ナショナリズムの隆盛の理由の一端をここに見たりしています。僕の思想のテーマは、「責任が無くても、倫理的に振る舞う」にはどうすればいいか、どういう仕組みを作ればいいかということだったのですね。この時に気付きました。あと、後ろで何かが削れています。

芸術の再現不可能性について
すっごーいぼんやりした質問をしてしまった!とにかく僕が「芥川賞を取りたい」として、芥川賞受賞作から、その受賞した理由?受賞するほど素晴らしい要素?を、どうやったら取り出せるのでしょう?という話。模写や剽窃ではない形で、あの小説の「いい感じ」を再現することは可能なのだろうか。自分のブログではそれをやっているつもりなのです(え!そうだったの!!)。ただ、名作といわれるような作品を書いた大作家でも、その後に、駄作ってしまう(そんな言葉はないけれども)こともあり、「そういうお前(芸術)の一筋縄ではいかないところが好きだよ」って芸術に言葉をかけたいですね。

次回予告
帽子の話
好きなものコーナー
次回について

波乱の第四回、はてさてどうなってしまうのか……必聴だ(?)

ブログ「いらけれ」

先日公開いたしました「特別編-対話のボイスメモ#2:ボイスメモを公開する。」の、放送後記的なものです。第二回です。
まだお聞きでない方にはぜひ、これを機会に聞いていただきたいです。ここから聞いても大丈夫ですよ。

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政治の話にからめて、最近の風潮について。
「お笑い/イデオロギー/時代精神」というのは、僕の関心領域のど真ん中であって、以前に近い話もしましたね。(「とくにないよね #71 真面目にお笑いを」)もちろん、それぞれ独立した話題ではあっても、緩やかにつながっているのではないかと思っています。
「お笑い」それ自体がはらむ負の側面を、いつも考えています。そのパターンは、間違いなく現実の弱い者いじめにも転用されているし、そのお笑い的な感性が、力の強い側に付く人を増やしているのではないかと感じています(「勝ち馬に乗りたい」というワードは、これも東京ポッド許可局で話されていたことで、それを参考にしています)。
とにかく、「多数決で勝った方が偉い」という時代の感じが、僕は本当に嫌だ、浅はかだから。嫌なんだなってことが伝わっていたら嬉しいです。

「遊び心論」について。
東京ポッド許可局「遊び心論」を受けて、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を読んだ感想を混ぜたりしながら語りました。ネタ元にしてばかりで、本当に東京ポッド許可局様様という感じですが、あの論に少しでも何か足せていればいいなと思います。1930年代の時点で「遊びがなくなっている」と言われていると知ると、また感じ方が変わりますよね。

現代の思想・哲学の潮流から、思想的な興味について。
「観光客」は、第三回でまた出てきます。よく覚えておくように。
中庸的なことを語る思想はパフォーマンスか?という問題。中庸こそが真理なのか、極端まで行くと真ん中に戻るのか、という。
個人的にはソフィストの話ができて満足。「フィロソファーかソフィストか」、「フィロソファーの中にソフィストがいるのではないか」という問いで、議論が深まった"気"がしています。

バカが芸術をやるべき理由について
間違っている人は、間違ってしまうような人だからこそ、自己ツッコミなしで、コミュニケーション的な問題を、とても活発に、縦横無尽に起こすわけです。だから、もうインターネットでコミュニケーションってダメだと思う。そういう人を避ける術が少ないから。で、どうするか。みんな芸術をやれ、私みたいに!って話です。ツイッターからインスタへって、実はそういう流れですよね。過渡期なのかな。

次回予告
ブログについて
観光客の倫理について
芸術の再現不可能性について

次回、第三回もお楽しみに~。

ブログ「いらけれ」

今日は、先日公開いたしました「特別編-対話のボイスメモ#1:ボイスメモを公開する。」の、放送後記的なものを書きたいと思います。(もちろん、ポッドキャストの宣伝でもあります。)
まだお聞きでない方にはぜひ、これを機会に聞いていただきたいです。

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席について、とりあえず間を持たすために頼んだコーヒーゼリーと、飲み物のコーラのマッチングが微妙だったことを後悔しながら、お相手のとびお氏とポッドキャストについて話していたら、ちょっとずつエンジンが掛かっていった感じ。(コーラは、氷の入ったコップと別に、ビンで出てきてビックリしました。)

『美しい顔』問題について。
話の流れ的に、かなり周辺的なというか、それを批評する人々について語っていましたが、もちろん僕の興味の中心は、実在の人の〈声〉を、フィクションの中に取り込むことの是非です。石原慎太郎の『天才』が、故人を題材としていながら、おとがめなしなのはなぜか、とか考えていくと、表象=代弁の行為の中でも、問題になる、問題を含むものと、そうでないものがあって、難しいですね。僕は、誰かの代弁をするならば、そのまま取り込むのではなくて、自分をその誰かの立場まで追い込んで新しい言葉を書くような、そういう態度でいたいし、そういうものが読みたいなと思います。

現状への不満について。
この「何でこういう本や記事がないの?」的な感じは、荻上チキさんも言っていました(「セッション22 2018年7月13日(金)の番組オープニングトーク」)。面白い人、もの、ことはたくさんあるのに、それがつながっていないのが「もったいない」と思う、これも編集者的に偏った視点なのかもしれませんね。

透明な私→愛→口出し→意識高い系問題について。
結局、何を読んでも、何をやっても、実はその人の振る舞いの「感じの良さ」が問われている面はあって、その属人的なところから離れられないのならば、戦略的に、なるべく育ちの悪さを隠して品よくいるしかないなと思うと同時に、しかし、読み手としては、あまり人に引っ張られず、文章をちゃんと読まないとなあとも思いました。

『HINOMARU』問題について。
愛国VSリベラル的な、ある種のイデオロギー対立に矮小化されていく雰囲気はあって、それは違うかなと。僕はずっと、ライブでの言動も含めて表現として拙いことが嫌だと思っていて、もうちょっと表現として頑張ろうと言いたくて。まあ、矮小化されやすい批判的言説の内実の多様さ(=一様じゃなさ)を示せたことは良かったかなと思います。

次回予告
政治の話にからめて、最近の風潮について
「遊び心論」について
現代の思想・哲学の潮流から、思想的な興味について
バカが芸術をやるべき理由について

実は、この先の方が面白くなっておりますので、お楽しみに!

ブログ「いらけれ」

「「とくにないよね」2018/03/26 The Bitter End」
……いつまでリンクがあるのか分からないけれど。

2016年の7月に始めて、ただただ続けていたラジオが、3月に終わった。
終わったというか、正確には僕が終わらせた。
終わることに決めたのだった。

終わらせることにした理由はいくつもある。
しかし、その詳しい顛末は書くほどのものではないと思う。

僕たちには、たくさんの問題があった。
それには二人で抱えているものもあったろうし、個人に降りかかっているものもあった。
それは、間違いなくラジオの質の低下にも繋がっていただろうし(自分たちを客観的に判断することはできないけど)、だから、聞く人も減ったのだろうなと思っていたし、誰にも聞かれていないことが、また新たな問題となった(完全なる悪循環)。

会うことや話すことが、様々な事情もあり、色々な意味でキツくなっていた。
お金になるわけでもないのに、続ける理由を見出せなくなっていた。それだけのことだ。

しかし、(これを読んでいるあなたが知ってるかは分からないが)オリエンタルラジオがオールナイトニッポン生放送中にした喧嘩が一つの"伝説"になっているように、問題とは「ネタ」なのかもしれず、それこそが面白いと思う人も多いのかもしれず、僕の一存ではどうにもならない部分もあるとはいえ、無理にでも何とか続けて、もっと殺伐としたやり取りを公開した方が良かったのかもしれないが……今となってはもうどうでもいいことだ。少なくとも今の僕にとっては。

今の僕と違って、(もうあまり覚えていないけれど)始めたときには理想があった(と思う)し、間違いなく自信もあった。
しかしそれは、上手くいかない"現実"の中で失われた。
何かをするとき、表現するなどというときに必要なもの、それは"根拠"のようなものだと思うが、それがなくなってしまった。
意欲がなくなってしまった。自分のすることが面白いと思えない。

僕にさせる気がないので、このラジオが復活することはないだろうが、人生は続く。
思い返せば高校生時代、誰に見せるでもないノートに、誰に言われるでもなく評論や詩のような文章を書いていた。
すべてはその延長線上であって、病気のようなもので、どうしようもなく、僕はまた何かをすると思う。
僕がまた何かをしたその際には、よろしくお願いします。

後藤