ブログ「いらけれ」

LIBRO – 音信 @ りんご音楽祭2015

疲れている時には音楽を聞いていようと思う。それでいろいろ聞いていて、これを聞いたら「今じゃない、と嘘つく自分を見抜く」という言葉が、後ろ向きな言葉ではないと分かった。その前にある言葉は「お前の出番は必ずくる」で、つまり出番は今なのだ。今この瞬間に出番なのに、それを否定する自分を見抜く自分は、必要な勇気を持っている。臆病な私を否定した私には必要な勇気が備わっている。
嘘をついてしまう弱さのイメージに引きずられて、ネガティブな言葉のようにずっと勘違いしていた。生きるとは更新することで、私は保坂和志の 『ハレルヤ』を読んだ。『ハレルヤ』には「生きる歓び」が再録されているが、私は中公文庫の『生きる歓び』を持っていて、ずっと前に読んだときは、とくに感心しなかった。それが、帰りの電車で読んだら過去の印象とは違ってずっと良かった。
なぜ以前とは違って心が激しく動いたのか分からないが、小説の分かり方というのはこれしかないのか?言葉を超えて、あるいは言葉の手前で、頭ではなく全身で理解するようにして分かるしかないのか。
今の私は、本当に蹴り飛ばすべきものを蹴り飛ばすためだけに生きている。だから分かったのか?本当に蹴り飛ばすべきものとは単純な悪ではない、「人間を常態として萎縮させ」るような複雑な悪で、私はだから言葉を使って言葉と闘わなければならないと思っているし、人と人とが関わり合う上手いやり方を探さなければならないと考えている。このように更新された私に、小説が開かれた。

ブログ「いらけれ」

イーユン・リー『黄金の少年、エメラルドの少女』を買ったのはだいぶ前のことで、NHKラジオで「文庫で味わうアメリカ短編」という番組を聞いたからで、番組が放送されたのは2020年のことで、この頃は、2022年の世界に起きるすべてのことを、私たちはまだ知らなかったのだと思うと、過ぎていった時の大きさが理解できてしまい、心が重たくなる。この先も時間は、前進しかしないのだろうか。

番組で取り上げられていたのは「優しさ」という一編で、私はそれを読んだら、会社帰りの電車よりも心が揺れている。人間という存在の本当が、そして、人々の信じている愛や親切や優しさの観念がまったくの間違いであり、幸福は勘違いにすぎないということが、寸分の狂いもなく描かれている。

読んで、文学とか小説と呼ばれる何かが、私のなかで形を変えた。言葉さえあれば、人生や世界のすべてよりも大きいものが書ける。でも、なんでそんなものを書き、そんなものを読むのだろう。読んだところで、幸せは頭のなかにある影で、現実の痛みを忘れるための痛み止めでしかないという、最悪の真実に目覚めるだけだっていうのに。

ブログ「いらけれ」

仕事終わりに東京ドームの三塁側でヤクルトファンを謳歌できるほど水道橋に職場があって、しかし仕事は終わらないのである。休憩する暇もなく、じっと手を見る隙もない暮らし。

なんで生きてんだろか。分からなくなりそうだったから昼休みを捻り出して歩くと、すぐに神保町に着いて、通りすがりにブックカフェに入って見る棚に「頭の体操」と「人間失格」が並んでいる。

これまで出会わなかったであろう二人だ。並べちゃいけない感じがする。目に入った"体操"と"失格"が、対義語にさえ思える。

「頭の体操」が呼び起こす微温的な向上心と「人間失格」がイメージさせる前のめりなアンニュイがぶつかっているのだ、私は分からなくなった。

めまいで店を出ると夏さながらの日差しだ。そうだ。私には、体操も失格もいらない生活があったのだ。まあ、これはこれで悪くないか、と思った。

ブログ「いらけれ」

小説の登場人物ががんになり、私は「身体に力が入らない」という震える声を思い出した。私は、その言葉になりきらない声を聞いた瞬間に理解していた。世界は悪い列車で、頼んでもいないのに発車して、それぞれの苦しみに向かって進み続けているということを

仕事が終わって、スーパーの惣菜コーナーで、全部の弁当の中身が土か粘土みたいに見えて、とても困った。食べることを拒否したかった。唐揚げ弁当を買って食べた。暴力を振るっているような、あるいは振るわれているような気分になっていた。

生活が苦しく、人生が苦しく、いずれ訪れる死が苦しいのなら?それでも生きる理由もないのなら、わざわざ生きる意味もないのだから、いつまで生きていられるのだろう。

去った昨日より生き抜く今日よりもマシな明日が、どこにあるのか、私にはまだ分からないでいる。