ブログ「いらけれ」

例えば、日本代表について書かれた記事のツイートにぶら下がっているリプライの、記事の読んでなさ具合。そして、ほとんどが的外れなこと言っている具合。ちょっとまえに「AI読み」ってのが話題になったけど、読んで頓珍漢な人と、読まずに頓珍漢な人の、どっちの頓珍漢ショー。うん、どっちもダメだよ。
おそらく、いや、確実に、もうすでに手遅れなほどに、コミュニケーションと言語に関する教育は失敗していて、まあでも、今から再教育するわけにもいかない以上、これでやっていくしかない。コミュニケーションの型が壊れているのも、文章が読めないのも、もうしょうがないのだから、そういう方々には、ヘタなコミュニケーションでも、文章が読めなくても、誰も迷惑しないように、せめて優しい心を身に付けてもらうしかないわけだが、そういう方々に限って、他者に攻撃的だったりするから困る。困るっていうか、もう、白目をむいて世界を見ないように、現実から逃避するしかない気がしてきた。

会話のテクニックとして、強い言葉を先に言って、それから常識的な言葉に言い換えるというのが、結構有効ではないかと思った。この前の面接の最中に。
例えば、「将来の夢は何ですか」と聞かれたとしたら、「社会変革ですよね」とか、(あくまでもユーモラスな雰囲気で)答えるの(マジな感じで言うと、引かれるぞ♡)。それから、「変革したいというのは、今の社会が良くないと思っているからで、つまり社会をより良くしたいんです。そのためには……」って、そっからなるべく普通のことを言う。
このテクニックの良いところは、ユーモラスな会話ができるというアピールになる、他と違っていると思ってもらえる、常識的な発言も相手の頭に残るというところだ。悪いところは、会話にテクニックとか持ち込もうとしている点で、人間は心からの言葉で話さなければならないし、その点で誠実さに欠けるし、著しく小賢しい。

サイトを作って良かったと切実に思うのは、面接とかの場面でウケがいいことですね。だいたい食いついてもらえるし、チャレンジをしている感じが出るし、パソコンスキルのアピールにもなるし、悪く思われることは、まあそうないので。
それに、読んでもらえることもあるし。たまに、ごく稀にだけど。承認欲求が満たされることもある。めったにないけど。
だから、みんなサイト作ってみればいいんじゃないでしょうか。ブログを作って、それを毎日更新するだけでも、それなりに何かしらの訓練にはなると思う。生真面目さとか、孤独に耐える力とか、無意味に身を捧げることへの躊躇が無くなったりだとか。
それで、書き続けることによって文章がどうなのったのか、上達しているのか、そこは問わないでおいてほしいけど、だけど、読んでくれている人には感謝しかないし、そのことに応えるために、面白くならなければならないと強く思う。

高層ビルの合間の、取り残されたかのような一軒家から空を見る。灰色で、梅雨だからか、今日も雨が降っている。
人間には、生命という贈りものは過分であると思う。生命の大きさに対して、人間はあまりにも足りない。そして、その足りない分を崇高さで埋めようとすると宗教に行きつくのだと思う。人々は高みを目指すように、上へ上へと向かおうとする。ビルはどんどん高くなる。
しかし、そんなに崇高じゃない生を、地面に立って、みっともなく生きていくべきだと思いがちだ、僕は。だから落語とか好きなのかもしれない。ただ、そうした生を無批判に肯定しているのではなくて、人間は足りないのだからしょうがないのだって地点から話を始めたいって思っている。
降っていた雨はやんでいるけど、僕がまた空を見て歩き出すときには、傘を持っていくだろう。


人工知能は映画にどう描かれてきたのか?【WOWOWぷらすと】

なんやこれ、めっちゃ面白いやん(見逃していた)。途中から映画があまり関係なくなってしまうのは、どうしても、「人工知能とは」という問いが立ち上がってしまうからで、しかし、そこから非常に興味深くなる(もちろん、SFおじさんズはいつだって最高)。
人工知能はただの機械とは違って、知性とか意識とか、生物に内在している(らしい/ようにみえる)ものを、同じように持っているのかが問われる。それを問うなら、「知性とは」、「意識とは」ということについても考えなければならなくなる。で、突き詰めると、人間だって電気信号のやり取りでしかなくて、意識なんてないのでは?みたいな話になってしまう。あるいは視点を変えて、脳を再現するとか、人間を機械化するとか、そういう方向に考えを進めていっても、それはそれで、人間との差異についての別の問題が持ち上がってくる。
人工知能について考えることが、結果的に人間(の定義とか、自由意志とか、脳とか)について考えることにつながることが面白いし、人間の姿が、その存在の確かさが揺らぐことが、とても楽しい。

ブログ「いらけれ」

「2018/06/23 今日のボイスメモ」
僕のポッドキャストが更新されてますヨ。僕のプライバシーがダダ洩れですヨ。
とかいいつつ、結構真面目にしゃべってるつもりなので、ぜひ聞いてください!

やっと「文化系トークラジオLife」の最新回(食がテーマの回ですね)を、ちょこちょこ聞き始めたのですが。
予告編でチャーリーがジジェクの話してましたよね。ノンアルコールビールとかの話のとき。
で、ぼく、少し前に「絶対安全」の話しましたよね、こことかで。絶対安全なジェットコースターに人間は満足するのか?みたいな。で、で、これ完全にジジェクのじゃんってことです。ジジェク、知らないならいいですよ?それは車輪の再発明であっても、有名な哲学者と同じことを思いついたってわけだから、そのことを誇ってもいい。でも、ぼく知ってたんですよね、ジジェクのこの話。本で読んだこともある、間違いなく。パクりだよね、なんなら。もう、ほとほと自分に呆れました。「勉強しなおしてまいります」って高座を降りたい気持ちです……。
追記:本編も聞いた。僕は、真上から撮影されている料理動画が気になるかな。あれ結構増えてるよね、最近。ツイッターの短い動画だけじゃなくて、テレビでも見るようになったし。あの動画には人がいなくて、そこにあるのはシズル感であり、インスタ映えであって、そして純化された手順である。一方で、料理研究家という人はカリスマ化が進んでて、「この人が作るものを信じる」というあり方も増えている。つまり、そこにあるのは合理的な刺激と、非合理な刺激への両極化なのではないか?というのは、この言葉だけでは、中々伝わらない話だ。

確かにかわいそうだ、恵まれない人たちは。不当な扱いを受けている人たちは、確かにかわいそうだ。ひどい話は、この国にも他の国にも溢れている。その現状に対して、心ある人々が、「かわいそう」に訴えかけて何かを変えようとするのも、その気持ちは分かる。でも、それではその人たちを救うことはできない。その人たちは救われない。
……これを読んで、今、頭に血が上った人は、深呼吸をして、最近あなたがムカついたニュースを思い出してみよう。色々あったし、色んな人がいたが、ニュースになった人に共通していたのは「自分がかわいい」という振る舞いをするということではなかっただろうか。そう、みんな自分がかわいい。自分という特別な存在が大事だから、かわいそうな人に分け与える自分が、もっともっとかわいそうに見える。1もらえば生きていける人が5人いたとして、10持ってる人が5を渡せない。5もあったら、余計なくらいでも。「確かにかわいそうだけど、その助けるコスト、私が負うの?それは嫌だ(私がかわいそうだから)。」って、ほとんどの人は考えている。だから、僕たちはそういう思考を撃つことから始めないとダメなので、もしこの言葉が通じた人がいたとしたら、そういうところから始めませんか?っていう提案。

一人で帰る時間が至福だ。僕は友人たちと別れ、二駅分の道のりを行く。歩くことが楽しい。歩きながら聞くラジオが楽しい。見る風景が美しい。東村山からは山が見え、その遠くの山に夕陽が落ちていく。途中、長い下り坂を降りながら、顔を横に向け、それを見た。確かに見たとき、自分が、大きなものと繋がっている気がした。綺麗な景色を見ると、「世界が素晴らしい」と言ってしまう人がいるけど、綺麗な景色は、当然世界の素晴らしさを担保するものではない。だから、そういう人はおっちょこちょいだ。それにしても綺麗な夕陽で、世界は素晴らしくなくても、本当に綺麗だなって思った。

超ローカルな話すっと、久米川駅そばの西友、あれの一階から二階へ昇るエスカレーター(一階から二回へ降るエスカレーター)だけ、おっそい。めっちゃ遅い。亀。牛歩。他の階のエレベーターは普通の速度なのに。あれ乗んと、いっつも変な気持ちになる。乗ってる間に年取りそう。ってか年取ったときの速度感って感じ?……まー、どーでもいいけど。
あ、そうそう。皆さんにも、そういう話のネタはおあり?あったらコメントしてくれてもいいよ。


Forth Wanderers – Nevermine

最近ではThe Magic GangとかCamp Copeが僕にヒットしたわけだが、このForth Wanderersもいいなあ。いろんなバンドが出てきていて、ありがたいなあ。日本語で歌う人の中に、僕がハマれる人が出てくると、クオリティ・オブ・ライフはもっとよくなるなあ。

ブログ「いらけれ」

書きたいことが山のようにあるのに、若干自律神経失調ぎみで、昨日は書類選考への回答を書いたし、今日も一時間面接で喋ったしで、ヘトヘトだ。でも、書きたいから書いている。ワールドカップを見ながら。
追記:日本に運の向いた試合だったことは確かで、そういうチャンスをちゃんとモノにできたことはデカい。これで引き分けてたら、どうやって勝つの?って展開だったから。
今頃渋谷はすごいことになってて、世界はモノ消費からコト消費へ向かう。僕は、コト消費からモノ消費への急先鋒として、その最前線に立ちたい気持ちと、どうでもいいという気持ちがせめぎ合っている。

面接を受けながら、面接を受ける自分を見ている幽体離脱した私が考えていたのは、本当によく喋る男だなということで、ぺらぺら自分のことを、ぺらぺら言葉にしていた一時間だった。言葉は、世界を映すには足りないから、自分の言葉は、言いたいことを絶えず言えていない。それがもどかしかったのだと思う。
あと、やっぱり経歴とか?志望理由とか?それが普通の人とはかけ離れていて、変な私は、変わった会社を受けるべきだろうと思った。受けた会社は変わってて、交わす会話は楽しかった。結構考え方は違ってて、でも、会話の中で認めあっていくことこそ素晴らしいのだと思った。そして、落ちてもいいと思えるほど、思いの丈を話して、そして、たくさんの質問の回答と説明を得た。ありがたかった。
日本は、まともな会社だけになり、バカな会社はつぶれてしまえ(短歌)。

定吉も御隠居も、どこかダメなのが落語の世界の常だけど、でもそれは「子どもは純真無垢で……」とか「老人は物知りで……」といった常識(?)が、おそらく確固としてあったから意味があったわけだ。大きな常識があるからこそ、それを茶化すことで笑いが作れる。
現代の、色んな学問の進展と、それによる現実のアップデートによって、世界の実像が明らかになってきたこと。それは、明け透けになるということ、常識でマスクされていた部分を暴くということでもあって、別に子どもだって邪悪なことを考えたり、邪悪な行いをしたりもするし、脳も衰えるから、老人は忘れるし、感情のコントロールが難しくなっていたりする。
建前っていうのは意外と大事だったのではないか、"とする"ことにとっては、と最近よく思うようになった。現実に「子どもはピュア"とする"」「老人は思慮深い"とする"」というマスクをして、彼/彼女たちを丁重に扱ってきたのが社会の歴史だし、実は、子どもや老人を大切にすることは、社会を永続させるために必要だったはずなんだよね。過去と未来を大事にするわけだから。まあ、今では人は極端に死ににくくなってて、状況は違うかもしれないけれど。
経済学が人間を動物として扱うようになる前、というか始めから人間は動物で、でも、そういう見方が広まってきたのは最近だ。このまま進んだ先に何があるのか、それはこれから起こることだから分からないけど、「人間」というものの持っていた特権性が奪われた世界では、人間はコスト計算の対象にされていくわけで、しかし、子どもは投資対象ではないし、老人は耐用年数を過ぎた機械ではないということは、誰かが言わなければならないのではないだろうか。(もちろん僕が言うためにこの文章はある。)

渋谷の裏通りは夏。それでも日陰は涼しく、大きなビルの工事が行われている。その足元を、作業服を着た男と女が二人歩いていた。三人の手には皿が乗っていて、皿には大量の西瓜が乗っている。もらったのか、差し入れなのか西瓜を、しょうがなくなのか運ぶ彼らは、その違和感を笑うように、笑顔をつくっていた。彼女たちの、その気恥ずかしさと非日常感が、渋谷の街らしかった。すれ違った僕は、そのあとに前田日明とすれ違って、本当にびっくりすることになる。

そうそう今日、久しぶりに電車で座って、メチャクチャ久しぶりに席を譲った。ほ、ほめてくれなんて言ってないんだからね。
いや、実際ほめてほしいわけじゃなくて、なんというか、「自分が自分であることを誇る」というか、自分であることを誇ってもいいかなってちょっとだけ思うというか。俺もそんなに悪くないじゃん、って心持ちで立っていた。
皆、誰にほめられるでなくても席を譲ればいいし、その他善行を行えばよい。それは、あなたの自己肯定感のためである!って、そうやってるうちに、いつの間にか本当に良い人になればいいんじゃないのかなあ。

ブログ「いらけれ」

「しゃんしゃん大会」という言葉がある。「日本の国会なんて、しゃんしゃん大会にすぎないが、それにしても……」などという風に使い、その意味は、デジタル大辞泉の項から引用すれば

しゃんしゃん大会
《「しゃんしゃん」は手締めの音を表す》すべての議題が異議もなく採決され、短時間で終了する大会。形式的に行われるものに対して言うことが多い。
コトバンク-しゃんしゃん大会

というものである。
昔からある言葉だし、ここ最近ずっと、昔のラジオの録音を聞いているのだが、聞いてたらこの言葉を使っている人がいた。
まあ、でも今は、愉快なパンダの姿が頭に浮かばざるを得ないではないですか。シャンシャンが後からやってきて、そのイメージは大幅に上書きされてしまったのです。言葉の新しくなり方には、こんなものもあって、これは本当に興味深いわけ。
ちょっと話が変わるが(急に思いついたので)、道玄坂上はざかうえで、坂上忍はさかがみって、それを理解していることってヤバくないですか?関西電力と関西学院で読み方が違って、でも、それで問題が起きていないかというと、読み間違えて怒られてる人とかいるのも。どうやって日本語が日本で運用されているのかというと、なんとなく間違えたりしながら、そのまま毎日を送っている。すごい国。
僕たちは言葉を、粘土のように捏ねたり、ボールのように投げたり、そして、勝手に粘土もボールも形を変える。曖昧なルールのまま。だから、楽しむしかないでしょう、言葉で。

今日は、応募した企業から、質問が列記されたメールがいきなり来た。そんで、いきなり「この返答を書類審査代わりにするからよろしく」って言われた。
それでも僕は怒らないで書きますし、「200文字以内で」(!)とか書かれてても、ちゃんと192~3文字で打ち返します。文章を書くのは、それなりに得意なのでね。しかし、こういう生真面目なところが、今一つ垢抜けない原因なのではないか、という自己分析。
何を書いたかは秘密だが、秘密にしてもしょうがないのは、ここで書いていることと、内容は大差ないからで、書いていても全く、何一つ苦ではなかった。だから、受かる気はしない。読んでいるあなたが、そう思っているのと同じで。
追記:朝起きたら、選考通過の連絡あり。誰が驚いたって、俺が一番驚いた。
自分の文の可能性について、もっとも信じていなかったのが自分だったのかもしれなくて、新鮮な驚きとともに、明確な自信になった。とはいえ、本番はこれから、だ。

ブログを書きながら、音楽を聞いてて、気がついたら、髭の『GOO』とか、泉まくらの『P.S.』を大声で歌ってた。歌うということは、ボジティブなパワーだ。ポッドキャストを録る前は、内村イタルの『荒野』を、歌ってから始める。「君の目の前で何かが崩れたね」って。いい歌い出し!で気分良くなるし、声を出す練習にもなるから。

自然災害は、決して自身が当事者でなくとも、あるいは、知り合いに当事者がいるというわけでなくとも、何かを考えさせる暴力で、何かを言わせようとする暴力だ。それに抗うこと。ただ、じっとすること。

猫島のタコ漁を見ていた、あの、いつもの退屈な小説の始まりではなく、本当にテレビで見た。猫はかわいいからか、丁重に扱われていて、タコはおいしいからか、丁寧に捌かれていた。タコがもっとかわいくて、猫がもっとおいしかったらどうなっていたのだろう。
タコがおいしいのは、タコ自身がおいしくなったわけでは(おそらく)なくて、タコをおいしいと思うように人間がなった。あるいは、そういう人間が残った。一方で、例えば家畜は改良の歴史で、肉をおいしくしてきた。欲深くて、やべーな人間!って思う。
漁では、かかった小さい魚をポンポン投げている。「これだけ獲れた」と誇らしげに話している。捌いている姿も映っている。そういえば、鮮魚コーナーには、頭だけない魚が並んでいても、特に何も思わない。それと同じことを、精肉コーナーでやったらビビるだろうな。

面接で通される二階の部屋の、彼は、その手前の受付で、はっきりと無視され、明確にシカトされ、何かを誤魔化すように半笑いで
「あ、あのすいません! あの面接に来た、吉田」
「あー、あー、はい」
制するように言葉を切って、内線電話の向こうに面接者の来訪を告げる受付の50代と思しき女性に対して、彼が『このばばあ、ふざけんなよ』の先に思ったことは、全て分かった。これを書く私は、ずっと昔から、エスパーだから。

『AbemaTVトーナメント Inspired by 羽生善治 予選Aブロック-1』を見た。
プロの早指し勝負術が勉強になる。あと、感想戦の長さが、対局と同じかそれ以上で笑った。それにしても聡ちゃん強すぎ。羽生さんと聡ちゃんの戦いを見られる時代に生まれたことが幸運だ。


[MV] HYUKOH (혁오) – PANDA BEAR (판다 베어)

「2018/06/23 今日のボイスメモ」