ブログ「いらけれ」

数日前に書いたバックファイアー効果(「yu-0」)についてなど考えていたときに、佐々木敦著『未知との遭遇』の中に面白い記述を見つけたので、紹介したい。
「ビリーヴァー」という人々がいる。「ビリーヴァー」とは、どれだけ反証しても、さらなる反論の材料を集めてきてUFOを信じ続ける人々のことをいうらしい。彼/彼女らはよく、「それまでは信じていなかったが自分の目で見てしまったから信じざるを得ない」というような言い方をするのだという。
以下単行本版304ページより引用

「この目で見たから」とビリーヴァーになってしまう人には、何が足りないのでしょうか。言うまでもなく、他ならぬ「この目」に対する疑いが欠けているのです。これが「信じる者」の特徴です。他人が何を言ってもなかなか信用しないのに、自分の目で見たからには信じざるを得ないと彼らは言う。まず「この目」こそを疑ってみる必要がある筈なのに。どうして「自分の目」だけは信じるに足ると思えるのかといえば、その理由は、いわば「自分が自分だから」ということでしかない。にもかかわらず、それは非常に強い信憑になってしまう。自分の信じたいことしか信じ(られ)ないという困った状態は、まさに「自分」というものを更新/アップデートできないがゆえに起きるわけです。そうではなく、むしろ「この目」をまず第一に更新/改変していかなければならない。

確かにそうだ。確かにそうなのだが、ここには問題がある。「信じる者」は、「信じる者」になる前に自分を疑い、以前の自分/考え/価値観からアップデートしたからこそ「信じる者」になったのだ。おそらく彼/彼女らは、自分こそ思慮深く疑り深い人間だと思っている。そして、「信じる者」になってしまった者の疑いは、新たに信じる材料にしかならないのだ。だから僕は、ツイッターで「バックファイアー効果というのがある。慰安婦は嘘だと証明されているのに、説明してもそれを理解しない人がバックファイアー効果の典型」というような発言をしている人を見て、頭を抱えざるを得なかったわけだ。
自分を疑うということは、その疑った先に見つけた括弧つきの"真実"に対する信憑を強化することにしかならない。ビリーヴァーが自分を疑ったところで、より狂信的なビリーヴァーになるか、あるいは正反対のことを信じるビリーヴァーになるだけではないか。ビリーヴァーが持つような、特殊な世界観を構築させない/解体するためには、また別の言葉が必要だし、別の考え方が求められるが、今の僕にはまだ見つかってない。これから長い時間をかけて向き合わなければならないテーマだと思っている。

犬のフンを踏んだのだが、近頃では、犬の散歩をするのにフンを処理をするグッズを持っていない人は人にあらずみたいな雰囲気すらあるのに、させっぱなしの人がまだいるのかーと思うと同時に、そういう人は自分がフンを踏んでもいいのだろうかという疑問も持った。次の日あなたが踏む可能性もあるのよ?ってね。


これは、「ボイスメモを公開する。」の第一回の再生数なのだが……本当なのだろうか。一人か二人のために話したのに。まあ、ありがたいことです(よろしければポッドキャスト購読を。もうすぐ更新すると思うので。更新されました)。

取りだした「わたしは何も信じない」は、手の中で「『わたしは何も信じない』ということを信じている」ということに、すぐに変わってしまった。「わたしを信じるな」と言う人がメッセージするのは、「『わたしを信じるな』と言うわたしを信じろ」でしかなかった。私は信じないながら信じよう。

これは間違いなく本当なのだが、朝日の書評サイトを読んでいたら、本も広告も佐藤優だった。

佐藤優ビフォーアフターだ。

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「2018/05/25 今日のボイスメモ」

僕は憎んでいる。ウイニングイレブンと将棋ウォーズを。依存症には快楽によってのみなるのではないと思っている。快楽と憎しみによってなるのだ(対象を憎んでいない依存症患者はいない、とまでは言い切れないが、だいたいみんなそうじゃない?)。だから、勝つ快楽だけでなく、負けたときの悔しさから生まれる憎しみが、僕を依存症にする。そして、この二つは、僕の憎しみを増幅するツボを押してくる。だから、一日中ウイイレとウォーズをやっていた。

下図左(1)のような局面で手番のとき、下図中央(2)のように銀を上がるのが最近の好みである。チャンスとばかり飛車先を交換してこられるが、金を上がって守り、下図右(3)のような局面になることが多い。ここで相手の手番だが、角頭に歩を打つのは、角をかわされて(飛車取りだ)、打った歩を狙われる展開になるので、飛車を引き上げる人が多い。そこで、こちらから角頭に歩を打って、局面を治める。

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これが意外に勝てるんだ。「飛車先の歩交換3つの得あり」という格言もあるが(将棋連盟のコラムにもある)、その得を活かすのも中々難しいらしい。力戦志向の方は試してみてはいかがか(負けても責任は取りません)。

僕の警戒心が強すぎるのかもしれないが、小説のあらすじや内容を、断定的に淀みなく語られると、その語っている人を疑ってしまう。この小説はこういうお話で、こういうエピソードで、こういうテーマで、って言われると。何よりも、その小説に対する態度が苦手だ。小説はもっと"割り切れないもの""歯切れの悪いもの"なんじゃないのって思う。

【音声配信】「今こそ考える“元号”の意味とは」鈴木洋仁×片山杜秀×荻上チキ▼2018年5月22日(火)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)
勉強になるなあ、と思って聞いていた。本当に無知なので、勉強になることばかりだ、ラジオは。ラジオを聞くことは武器です。武器になる。

いやさ、今回は大学と指導者の対応が著しくおかしかったから、ちゃんと問題化したけど、「もっと"狡猾に"やられていたら」って思うとゾッとするよなー。ヘタすりゃ指示があったって話も出てこなかったかもしれないしさ。そしたら全部選手のせいってことになってた可能性も考えるとね。
だいたい、やっちゃえば得ってことはあるわけだよね、スポーツのみならず。バレなければとか、ルールの中で処理されればとかさ。でも、やらせちゃいけないわけよね、人間だから。人間としての「一線こえちゃう」から。矜持とか尊厳があるからさ。そういうのがどんどん切り崩されているのが今なのかもしれないし、あるいは、一線こえたら簡単に炎上してしまうのが今なのかもしれないけど。

キーボードに向かうが、何も書けない。キーボードに向かっている時、それはパソコンに向かっている時で、パソコンに向かっている時は、気が散っている時で、書くための調べもののつもりで、菊地成孔の発言について調べていたつもりが、いつの間にか読み忘れていた映画評を読んでいて、映画の画像のややエロスに触発されて、エッチなサイトを見てしまう。まだ一文字も書いていないというのに。

何を見ても、何を読んでも面白くない。人間には二つの状態しかない。それは言葉を生み出すフェーズと、言葉を失うフェーズだ。僕は、今間違いなく言葉を失っていってる。言葉を失うということは、世界を失うということだ。人間にとっては。言葉の仮構物だから、世界は。ただ、犬を「犬」という言葉に収斂させられなくなったらどうなるのか、その状態には興味がある。「そうなっちゃたとき」というのは、それはそれで、新しい言葉を生み出すフェーズに近づくのかもしれない。

※洪申豪さんについて(『洪申豪選詩集』についてになると思いますが)は、僕の状況や、やる気に左右されますが、いつか必ず書きたいと思っています。時間はかかるかもしれませんが、気長に待っていてくださると幸いです。

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神出鬼没のゲリラ番組(冗談だよ~)「マキタスポーツ食道」が、面白い(ポッドキャストもあるよ~)。一回目から聞いていて、この番組は聞き終わった後に内容が残らなくて何かおかしいな~と思ってたんだけど、分かったの。内容とかじゃないの、情感なの!「食」を、滔々とエッチに感情込めて"語る"その振る舞いが必然的に生み出す"おかしみ"。真剣になればなるほど、熱がこもればこもるほど、逆説的にユーモラスになってしまうというタイプの。良い落語のように、何度聞いても面白くて笑ってしまうし、終わった後には気持ちよさだけが残る。番組、長く続いてほしいな~。

「マキタスポーツ食道」の最新回(第4回)は4回聞いたので、さすがに内容も覚えたのだけれど、話されていた「軽い窒息の快楽」で、どこかで読んだ排泄の快楽を思い出した。何か哲学的に語られていたような気がするけど、誰が書いていたんだっけな。しかし、入れる快楽と出す快楽が人間にはあるんだ、と考えてみると、食べたり出したりするたびに気持ちよくなっちゃう人間という動物が、少しあほっぽく感じて愉快だ。

毎日書いてれば、いいことあるかなと思ってたけどない。「頑張れば頑張るほど人が離れていく」というのは、学生時代から変わらない気がするなあ。いいことがないといえば、エキサイトメールが終了するというので、困った。フリーメールサービスって減ってるよね?Gmailが強すぎるからだろうか。やらなきゃいけないのは、登録しているポイントサイト等の変更だけなんだけど、面倒だし、移転先がないし。困ってたら、ペンネームの下の名前の候補を思いついた。「聡太」はどうだろう、15歳にあやかって(同じ読みの憲法学者もいるし)。

いつかのコラムのためのその七。透明雜誌のFacebookの投稿より引用。

台湾政府は抗議している国民に暴力な強制排除と曖昧,世間に適当な応答でおさめようとしています。

「お前らの扱い方が気に入らない」は素晴らしいプロテストソングだ。アーティストは(のみならず全ての人は)プロテストしたいときにプロテストできるべきだ。僕たちの時代にはまだ、僕たちから声を上げる力を奪い取ろうという人たちがいるから。我不喜歡你對待我的方式

村田が何とかするって言った時、もう手遅れなのは分かっていた。運動会のバトンリレーみたいに責任がつながるもののせいで、小学五年生の僕はにっちもさっちもいかなくなってしまった。GReeeeNが大音量でかかっていたあの時間、気が付いたときには、僕は突っ伏していた。僕の最低な瞬間は、永遠のようなスローモーションで僕の中にパッケージされた。それが大きすぎて、他の全ての時間が、小さくなってしまったと思った。誰も転んだ僕の心配をしてくれなかった。
あの悪の帝王、谷内と同じ紫バトン組だったから、もう次の日から最悪だった。昨日までとは別の世界に来たみたいだった。かわいそうだったから村田は僕と一緒にいることに決めたらしかった。そういう責任感が強いところがうざいと、それまではずっと思っていて、大して仲良くしてこなかったのに。
授業で二人組をつくるとき、必ずコンビを組むようになった。毎日一緒に帰るようになった。そうなっても囃されることがなかったのは、本当にラッキーだった。どれだけ話しても、プロレスの良さは分からなかった。でもそれは、村田にとって僕の好きな文学も同じだった。お互い分からないまま話し合って、そのままで居られたのは初めてだった。村田は頑張って谷内一派とクラスの雰囲気を変えようとした。卒業するまで状況は変わらなかったから、結果的には無駄だったけど、僕にはもう、それがよかった。
いつの間にか夕方になっていたその日、何度も見たはずのポンプ池のほとりからの夕日。久しぶりに餌を鯉にやる。昔と変わらず大きい。昔と変わらず一緒にいる僕たちにも、変わったことがあり、それは大人になったことと、家族になったことだった。

Field Medic – “uuu" (Official Music Video)

“僕"はField Medicが好きだと思って書いてた。なので、この美しい歌を、皆さんもぜひ、聞いてみてください。

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人間にはバックファイアー効果(何かを信じる人々に対して、その信仰の根拠である事実が誤りであることを指摘し訂正しても、より盲信を深めてしまう心理のこと。参考リンク)というのがあり、それでいてツッコミ過多@『一億総ツッコミ時代』な時代において、でたらめでカリスマなプレジデント(プライムミニスターでもいいよ笑)っていうのは、まさしく"選ばれし者"という感じだね。だって、一般人でも分かるデマやミスで釣れば、どんどん「反○○」がツッコミをいれてくれて、どんどん狂信者を増やしてくれるのだから。SNS時代のリーダーはこうでなくちゃ!(もちろん言いたいことは、時代がクソだっていうことだ)

いつかのコラムのためのその六。「透明雜誌の透明ディスク(第6回)」より引用。

去年の夏、日本盤『透明雑誌Forever EP』のボーナス・トラックに収録した“Eの幽霊”はエリオットの歌に捧げた曲で、ヴォーカルを重ね録りする彼の有名なスタイルを真似してみたんだ。
これを聴いてくれたみんなに僕のエリオット・スミスへの愛を感じてもらえれば嬉しい。

まず「Eの幽霊」を聞き直しながら、そうだったのかーと、エリオット・スミスを聞いてみる僕は、エリオット・スミスがどんどん好きになっていく。

「粋な夜電波」を聞いていて、「女子アナが女優志願が強いか」という話から「私の本に……」と展開された時、すぐに僕は、その先が分かった。これからされるのは、ファッションショーのモデルとダンスの話だ、そして本は『服は何故音楽を必要とするのか?』だ!と。演技を抑圧されているアナウンサーという職業と、ダンスを抑圧されているモデルという対比だ!と。そして、話はそうなった。こういうことに喜ぶのがファン心理だ。ちょっと誇らしく思っていた。


【第76期将棋名人戦七番勝負・第4局】豊川孝弘七段のマンモス解説・総括

一人で駒を並べる将棋列伝スタイルで、ダジャレ連発(対局者二人ともスタイルがいいのに横歩取り(横太り)など)じゃないですかー。嬉しかったので、シェアさせていただきマンモス。

2006年まで、この東村山市の東村山駅の近くにはボーリング場があったらしい。名前はカクリボウルといったそうだ。なぜカクリなのかは分からない。キャラクターになったボールとピンの楽しそうな姿が書かれた(お前ら、倒す側と倒される側だがいいのか?)外装のピンク、古いボウリング場によくある大きなピンの金色、それらの(味というには大げさな具合に)古びて剥げた姿はGoogleで画像検索をすれば、見ることが出来る。
それが、再開発事業によって取り壊された後に建設されたのが、あのパークハウスワンズタワーという超高層ビルだ。中にはブックスタマという書店も入っているし、サンパルネという市の施設も入っているが、五階から上は住宅になっている。二十六階まであるらしい。ワンズタワーは本当に高くて、存在感がある。遠くからも見えるから、とにかく色々なところを歩く僕には、あっちへ行けば東村山駅なんだという目印になっていて、とても重宝している。
いつこの辺りに引っ越してきたのか、詳しいことは忘れてしまった。でも、20世紀が21世紀に変わる瞬間に立ち会うつもりだったのに、いつの間にか眠ってしまっていて、起きたら深夜の2時で、おいおいと泣いたその部屋は、今住んでいる一軒家の一階の部屋だったから、僕はその時にはここにいた。
ワンズタワーを工事していたこと、それが少しずつ出来ていったこと、出来ていく過程の姿は覚えていないが、その少しずつ高くなっていく"感じ"を覚えている。少し見ていないと、知らないところで大きくなっている、親戚の子みたいなあの感じ。でも、カクリボウルを覚えていない。東村山駅を使ったこと、その辺りを歩いたこと、自転車に乗って冒険したこともあったのに。東村山市を調べる中で、ワンズタワーのウィキペディアを見つけて、かつてカクリボウルが所在していたと書いてあって、初めてカクリボウルを知る。インターネットにある記録は、僕の記憶と違っている。口裏を合わせて、あったと騙されているように。

いつも投稿の新規追加を押して、新しいページに向かうときには、切り拓いていく感覚がある。やらなくてもいい、無知、ノーセンス、という条件に付きまとわれている。ただ一人か二人が読んでくれている。始めたころは無限に湧き出てきていたトピックスとやる気は枯れている。僕はただ、今は専門書が読みたい。