image

「ベルメゾン」を「ベルクソン」と見間違えるくらいには弱っている。ラジオだけが頼りで、流れてきたアルバート・ハモンド「カリフォルニアの青い空」が、あ、空耳できそうだって思った。それで「It Never Rains In Southern California 空耳」で検索したら、YouTubeに上がっているタモリ俱楽部の空耳アワーが表示された。だいたい、思いつくことは既にある。それで、その動画を見ながら、空耳アワーで名作になるためには、映像が重要だよなあって誰でも思いそうなことを思ってしまったから、諦めた方がいいと思った(何を?人生を)。

僕がバカだからか分かんないけど、全然分かんないことがあって、それは、落語家を見ながら思うことなんだけど、その頭の中に、膨大な量の噺が入ってる。で、人間は死ぬわけだけど、それ(噺たち)がどこにいくんだろうって思ってる。すごいものが、少なくともこの世から消える。どれだけ修行して、練習して頭にいれたとしても、消える。すごい噺家に出会うと、強く、いつかのその日のことを意識させられる。「下の人が継いでいくんだよ」とか、あるいは「死んだらなくなっちゃうだけだよ」って単純に言えるんだろうか。僕には、その噺家の噺が、この世界に実際に存在していると感じている。テキストに起こしたもの、録音したものとは違う、もやもやっと形を持って、そこ(頭)にある。それが、ここ(この世)からなくなる。あったものがここからなくなる、それが、どういうことなのか、サッパリ分からない。

歩いているときに、なぜか思い出したので「「癌」という名のドラゴン──父はゲームをつくった。死にゆく息子のために」を読む。逃げるようだけど、何も言えないから、とにかく読んでほしい。人生には、良いとか悪いとか、損だとか得だとかっていう単純な物事の”外”がある。発せられる問いには、それ自体が何なのか分からない、というか、意味が分かり答えの出る類いの問いとは別の問いが、ただそれとしてある。僕には、今は書くことしかないけど、それが、なんて言ったらいいか言葉にならないけど、何かになったらいいなとは思った。

子テーマを作った(子テーマとは?という方はググってほしい。僕もよく分かっていないから。)。本当は、サイトを作るときにやらなくてはならないことだったらしいのだが、横着していた。子テーマを作るのは、予想以上に簡単だった。だから、テーマを更新した結果消えていた広告が復活した(更新で消えないように子テーマを作るのだという。詳しくはググってほしい。)。スマホで急に全画面広告になったり、変な位置に広告が入っていたりするのは、アドセンスの自動広告だから、僕の意図ではない(自動広告やめたら?という意見は一理ある。ただお金も欲しいのである。)。読みずらい事に対しては、遺憾である。

※これは小説で、明日に続きます。
(始)「その日は曇りで、僕は歩いていて、それは結局二万歩になるんだけど、」とか書き出そうとすると、本当に嫌になってくる。毎日書いているから、いくらでも手癖で書けるのが、自分としてはすごい嫌だ。でも、嫌だからといって、それを避けるためには、頭を壊すしかないから、それも嫌だから書くけど、その日も歩いていた。歩いていた目的は、ポッドキャスト収録に使える公園を探すこと。今日も、もうかなり歩いたけど、一人で喋れそうな公園はなかった。小さな団地の公園には、小さな壁当て用の壁はあった。次の公園を目指して歩き出すと、イヤホンからランダムプレイで、TWICEの「Truth」が流れてきて、それは久しぶりに聞いたんだけど、思うのは、曲のクオリティがすごいということで、デビュー前の「SIXTEEN」の時からこれ歌っているんだよなって思うと、本当に韓国芸能のパワーを思い知らされる気分だ。やはり『THE STORY BEGINS』に収録されている「Do it again」や「Truth」を日本語バージョンにするべきだったと思う。いい曲だから。そういえば、今朝久しぶりに「V LIVE」をチェックしたら、一番最近の動画のサムネに違和感、というか、今の彼女たちではないことが直ぐに分かって、クリックして確認したら、二年前のものだった。初めてアイドルを好きになったわけだけど、やっぱり自分がかなり詳しくなってて、判別能力が付いていること、そのことに驚いた(こういう「瞬時に判別する能力」に名前は付いているのだろうか?)。

とても小さな公園の、とても小さな壁当て用の壁

今と向こう側

僕のポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」が更新されているので、聞いてくれ~。今回は、なななんと、外で収録されてるぜ!喋りはグダグダだけどな!!

試合前に映ったシェフチェンコを見て「シェバじゃん」って思うくらいにはフットボール好き。これからチャンピオンズリーグの決勝が始まるんだけど、今日(日付変わって昨日)は叡王戦が終わっちゃった。どういう例を出せば、将棋好きって分かってもらえるだろう。書いてる日がバレちゃうなあ。コンペティションを見てて思う、コンペティションが生むものは、勝者のみならず敗者、というか、敗者の方が多いわけだよね、だいたいの場合。たくさんの偉大なる敗者がいるからこそ、勝ちの価値が上がるんで、勝者が輝くのよね。どうしても敗者にシンパサイズしてしまうよね、ボクは。不貞腐れたり、毅然としたり、笑ってごまかしたり、勝者より敗者の方が、その様が一様じゃなかったりして、それで自分が負けた時を思い出すよね。徒競走とかで。敗者の側から世界を見れば、色んなことが分かるのよ。あ、明日(日付変わって今日)は、日本ダービーがあるんだって、電子番組表の「競馬予想TV」の内容紹介で、今知った。昔はそれなりに競馬も知ってたんだけど、今ではほとんど見なくなったなあ。それでは、不肖この私が、勝つ馬を当てましょう。勝つ馬はダノンプレミアムだ。
(追記:弱点はいつだって、厳しい場面、本当に最後の最後に顔を出し、それが決定的になるのだなあと、決勝を見て思った。そして、ダービー馬はワグネリアンだった。ワグネリアンはワーグナーの音楽に心酔している人々を指す言葉から付けられた名前らしいけど、ワグネリアンにワーグナーは聞かせたのだろうか?)

ここ数日(上記にあるように、書いているのは少し前だよ)、「怒りとは嗜癖である」という言説を、ツイッターでよく見かけた。その内容について、どうこう言うつもりもないし、詳しく知りたい方は自分で検索などしてほしい。ただ、僕は結構長いことツイッターやってるので思うのだ、この手の言説が話題になるのは幾度目かであると。つまり「『怒りは嗜癖である』と指摘することも嗜癖である」と、言えるのではないだろうか(しかし、これは「その指摘も嗜癖ではないか」という指摘を呼び込む(さらに、その指摘の指摘も、その指摘の指摘の指摘も……と進んでいくことも可能だ)。それは承知している。)。
「俺は分かっている」という言葉の背中ががら空きだったりして、なぜ人間は、こんなにも分かってる側に立ちたいと思ってしまうのだろうと、考え込んでしまった。注意深かろうが何だろうが、言葉にも、環境にも、思考のクセにも、簡単に踊らされてしまう。それが人間で、人間とは、何かに踊らされている猿と、踊っているつもりで何かに踊らされている猿の総称なんじゃないかと思った。

「仕事でも何でも、人間を仕向けるのは簡単なのに、根性論とか精神論とか古いんですよ。効率を上げるためには、対象に適切に指示を与え、モチベーションを上げる言葉を駆使して、適度に休息を与えないとダメです。人間という動物のメカニズムを理解して、プログラムするんです。そうやって、意図通りに動かせばいい。」
“お前に一番優しい者が、お前の一番の敵である”だ。私は、右手の手首を左手で持ち、右手の人差し指を、先が奴の額の中央を差すように真っすぐに伸ばし、親指を立てた。あのマンガのように。


ちょっと良い将棋が指せたので精密解析してみたら、二段が六段……!自分にしては出来過ぎな内容だったとはいえ、嬉しすぎて泣いた。この解析した将棋は、相居飛車の相雁木風の将棋だったから「やっぱ振り飛車より居飛車の方があってんのかなあ」と思ったり思わなかったする、先手中飛車が好きなんだけど、勝てないおじさん。しかし、自分でも薄々感づいていたけど、終盤型なのね。思い返してみれば、だいたい序盤で苦しくなって、勝負手を連発して、なんとか勝ってる印象しかないものね。
※もし皆様の中で将棋ウォーズを楽しまれている方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡を。IDを交換しましょう。

You talkin’ to me?

「2018/05/29 今日のボイスメモ」

ここんとこよく歩いている。今日14000歩。昨日12500歩。一昨日13500歩。一週間前の日には18000歩ほど歩いた。お供はラジオクラウドで、高度プロフェッショナル制度の国会答弁を聞いたりしていた。(【音声配信】働き方改革関連法案。高プロ制度などをめぐる「論点ずらし」の国会答弁を検証▼上西充子×荻上チキ▼2018年5月21日(月)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」平日22時~))加藤厚労大臣の「ご飯論法」(詳しくはこちら)はすごい。注意していないと、その答弁のおかしさに気付けなかったりする。逆に、めちゃくちゃ有能なんじゃないかという気すらしてくる(多分有能なんでしょう、大臣だから)。この堂々たる詭弁には感動すら覚えるけれど、でも、どれだけ有能でも、その優れた頭を良い方に使わないならば、端的に言ってゴミですよね、人として。神の手の中にあるのならその時々にできることは宇宙の中で良いことを決意するくらい@「流動体について」!!!

久しぶりに「書け」という声が聞こえた。幻聴だ。幻聴だからなんだ?この古川日出男のインタビュー「「お前は右か左か」と聞かれたときに、上とか下とか全然違うことを言えないと作家じゃない――「作家と90分」古川日出男(後篇)」を読んだからかもしれない。古川日出男はこの中で

ある問題が生じると「さあ、お前はどっちの味方なんだ」っていう。でも、「その問題の立て方間違ってない? ちょっと1ミリ軸をずらしてさ、もう一回問いを作りたいんだけど」とかっていうのが小説家とか、1作1作の小説の役割になったら面白いような気がする。

って言ってて、これはずっと俺が思っていることだ。妄想じゃねえ。ポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」でも話したことだろう?AかBかじゃなく、お前が何を考えたかだ、と。つうか、俺のポッドキャストの第二回が更新されているわけだけど。なんで全世界の人類が聞かないんだ?なんで全世界の人類が三回ずつ聞かないんだ?それにしても古川日出男はすげえ。すげえってかヤベえ。俺は古川日出男ほどヤバくはない現状。だから何だっていうんだ?ヤバくなればいい。読んでるお前はヤバいか?は?それ、俺に言ってんの?(あ、もちろんこれは狂ったふりで、僕は正気です、おそらく。)

「それじゃ、ぼくが「イズミズム」の第5回を読んで思いついた話を書こうと思うんですけど、『嫌オタク流』に出てくる「自分の知っていること以外はつまらなかった」っていう人についてなんですけど、そういう人しかいなくなった2035年の日本になってて、で、岡田って男が道を歩いてて、そいつには見えてるんですけど、他の人は自分の知っていること以外見えなくなってるんで、だから、見えてないんですけど、二人の男が動物を蹴ってて、これは愛だね、愛だねって言いあってて、岡田はその動物と目が合って、やっべーとか思って、っていう……(後略)」

トヨザキ社長のコレ読め! 第14回 ファン・ジョンウン著「誰でもない」

「コレ読め」はいつもチェックしている。今回の動画では、あらすじを紹介することに対する躊躇(だから信頼している)(あらすじ紹介問題については過去の日記で書きましたね、僕が)と、そして出てくる”声”の問題(原作の”声”を訳し分けるということ)(ポッドキャストで、これから考えたいと話していましたね、僕が)。なにより、韓国文学に対する興味が出てくる。面白そうだって、そんな風にはいつも思ってて、紹介されている本はまだ一冊も読んでない。

ていうか、もう良いこととか言いたくないし、っていうか何も言いたくないし。心が死んでるっていうか、心が生きてない。すべては埋め草です。(ただ小説を書くのだけが、少しだけ楽しい)

土の中で待つ

Vooid 「礦石」 (Audio)

「礦石」 の『洪申豪選詩集』に載っている訳詞を読むと、必ずといっていいほど泣いてしまう。
歌詞は、どこか目立たない場所、山の奥や渓流の側にひっそりと存在している鉱石に対して「お前の光を世界は必要としていないかもしれないが、それなら土の中で待っていればいい。いつの日かお前も誰かと共鳴するだろう。ゆっくり結晶しておくれ。」と呼びかけている。
この歌詞が、誰に向けられているのかは分からない。作詞をしている現状の自分に言い聞かせているのかもしれないし、過去の報われない自分に向けた歌なのかもしれないし、不遇をかこっている誰かに対してなのかもしれないし、もっと抽象的な想像の中の誰かなのかもしれない。
それはでも、いいの。そんなことは。
歌詞が、苦境にいる人みんなを慰める何かであることだけが確かで、それは特別な優しさによるものだ。現実は急激でひどく乱暴だけど、それに付き合わなくてもいいのだと教えてくれる。固い思い込みの世界を解体してくれる、そんな歌。
いつかの未来には、僕も誰かと共鳴しているのだろうかって思いを馳せてみる……ああ、いい歌だなあ。(そういえばapplemusicにVOOIDのアルバム『VOOID』がありました。「礦石」は入ってないけど、面白い曲も、せつない曲も、あの過去の名曲も入ってるよ。チェックしてみてはいかがか。)

トッププロの将棋を見ていた。難しい形勢が続き、お互いの玉が詰む詰まないの関わる難解すぎる終盤戦に突入していた。プロ棋士二人によるハイスピードの解説が始まった。棋士同士の会話は限りなく将棋星人の言葉、将棋星語に近づく。将棋ウォーズ二段にはついていけない。頭がぐるぐるする。聞いていたら、気を失うように寝ていた。起きたらクライマックスで、ほどなく終局した。かなり難解な将棋だったとはいえ、それから一時間以上感想戦で局面の検討している。しかも終わる気配がない。世界一将棋に詳しい人たちが、「分からない」と繰り返している。そして考えるのをやめようとしない。ビビるというか、すごいというか、おかしいし驚くのだ、その姿勢に。傍からみるかぎりの、あまりの好きさに。僕は、そこまで好きで、向き合うものがない。いや、ほとんどの人にないのだ。とはいえ、自分を省みてしまう。どれだけの好奇心で生きていけるだろうかと。

ぼーっとしていたら、何をやるだとかやらないだとか、僕が世界について(世界に対して)眠っている間に、僕抜きで重要なことが決まっている。SNSに踊るニュースを眺めながら、ただただ吃驚していた。普段は、色々コントロールしている、できているつもりでいる。でも、自己決定出来ることは、少ないし些末だ。それに比べて、世界で(僕からすれば)勝手に起こることの多さと重要さ。とりあえず、その会話に僕も参加させてよって思うけど、そうはいかなくて、あずかり知らぬところで戦争は始まる。それは僕のせいじゃなくて、あたふたしている内に、翻弄されてしまうのが民の人生だ。と、納得して、また目を閉じる。

クワリ村は本当にあるんだけど、それを書くための筆力がまだ足りない。主人公二人は兄弟で、それは本当にファンタジーな世界で、頭の中から書き出す(掻き出す)ためには、古今東西のファンタジーを、一回自分の中に入れないとって思ってる。兄弟からのメッセージは本当に届いているし、彼らの住む家のファーニチャーは鮮明に思い浮かんでるけど、手に余ってる。

僕にはギターがないので、文章で出来る限りのことをします。目指すべきはロックスターじゃなく、作家大先生だ!!!

信じるということ

数日前に書いたバックファイアー効果(「yu-0」)についてなど考えていたときに、佐々木敦著『未知との遭遇』の中に面白い記述を見つけたので、紹介したい。
「ビリーヴァー」という人々がいる。「ビリーヴァー」とは、どれだけ反証しても、さらなる反論の材料を集めてきてUFOを信じ続ける人々のことをいうらしい。彼/彼女らはよく、「それまでは信じていなかったが自分の目で見てしまったから信じざるを得ない」というような言い方をするのだという。
以下単行本版304ページより引用

「この目で見たから」とビリーヴァーになってしまう人には、何が足りないのでしょうか。言うまでもなく、他ならぬ「この目」に対する疑いが欠けているのです。これが「信じる者」の特徴です。他人が何を言ってもなかなか信用しないのに、自分の目で見たからには信じざるを得ないと彼らは言う。まず「この目」こそを疑ってみる必要がある筈なのに。どうして「自分の目」だけは信じるに足ると思えるのかといえば、その理由は、いわば「自分が自分だから」ということでしかない。にもかかわらず、それは非常に強い信憑になってしまう。自分の信じたいことしか信じ(られ)ないという困った状態は、まさに「自分」というものを更新/アップデートできないがゆえに起きるわけです。そうではなく、むしろ「この目」をまず第一に更新/改変していかなければならない。

確かにそうだ。確かにそうなのだが、ここには問題がある。「信じる者」は、「信じる者」になる前に自分を疑い、以前の自分/考え/価値観からアップデートしたからこそ「信じる者」になったのだ。おそらく彼/彼女らは、自分こそ思慮深く疑り深い人間だと思っている。そして、「信じる者」になってしまった者の疑いは、新たに信じる材料にしかならないのだ。だから僕は、ツイッターで「バックファイアー効果というのがある。慰安婦は嘘だと証明されているのに、説明してもそれを理解しない人がバックファイアー効果の典型」というような発言をしている人を見て、頭を抱えざるを得なかったわけだ。
自分を疑うということは、その疑った先に見つけた括弧つきの”真実”に対する信憑を強化することにしかならない。ビリーヴァーが自分を疑ったところで、より狂信的なビリーヴァーになるか、あるいは正反対のことを信じるビリーヴァーになるだけではないか。ビリーヴァーが持つような、特殊な世界観を構築させない/解体するためには、また別の言葉が必要だし、別の考え方が求められるが、今の僕にはまだ見つかってない。これから長い時間をかけて向き合わなければならないテーマだと思っている。

犬のフンを踏んだのだが、近頃では、犬の散歩をするのにフンを処理をするグッズを持っていない人は人にあらずみたいな雰囲気すらあるのに、させっぱなしの人がまだいるのかーと思うと同時に、そういう人は自分がフンを踏んでもいいのだろうかという疑問も持った。次の日あなたが踏む可能性もあるのよ?ってね。


これは、「ボイスメモを公開する。」の第一回の再生数なのだが……本当なのだろうか。一人か二人のために話したのに。まあ、ありがたいことです(よろしければポッドキャスト購読を。もうすぐ更新すると思うので。更新されました)。

取りだした「わたしは何も信じない」は、手の中で「『わたしは何も信じない』ということを信じている」ということに、すぐに変わってしまった。「わたしを信じるな」と言う人がメッセージするのは、「『わたしを信じるな』と言うわたしを信じろ」でしかなかった。私は信じないながら信じよう。

これは間違いなく本当なのだが、朝日の書評サイトを読んでいたら、本も広告も佐藤優だった。

佐藤優ビフォーアフターだ。